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竹富町における戦災の状況(沖縄県)

1.竹富町における戦災状況

 竹富町は石垣市、与那国町とともに八重山諸島に属している。本町は、日本最南端に位置し、竹富島、小浜島、黒島、新城島(上地島・下地島)、鳩間島、波照間島、西表島、由布島の有人島を中心とした島嶼から成り立っている。

 八重山地域の戦争は、沖縄本島のような地上戦はなかったが石垣島に三つの飛行場があっために、英米軍による昼間の機銃掃射や爆弾投下、夜間には艦砲射撃にさらされた。さらには山間部への避難命令や強制疎開に伴う、いわゆる「戦争マラリア」によって3800人もの死亡者を出すなど、住民は大きな打撃を受けた。

 尚、竹富町における戦災状況の詳細は、『竹富町史 第12巻 資料編 戦争体験記録』(竹富町、1996年)を参照いただきたい。

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2.戦争の経過

 1941年12月8日、日本軍のハワイ真珠湾攻撃を契機とし、太平洋戦争が始まった。その後、ドイツ、イタリアも三国軍事同盟に基づいてアメリカに宣戦し、アジア、ヨーロッパにまたがる世界大戦へと展開した。竹富町では、地上戦はなかったものの、連合軍に対する兵備として、大本営陸軍部により西表島西部に船浮要塞が建設され、軍事拠点が計られた。

 米軍は1942年6月のミッドウェー海戦で日本海軍を破り、太平洋の島々へと進み、1944年7月にサイパン島を全滅させると、矛先はフィリピンから沖縄に向けられた。

 1941年、県営南風見自作農創設未墾地開発事業が混乱のなか着手された。新城上地島の住民は危険な昼間を避け、夜間にクリ舟で大原へ渡った。避難地の大原では食糧不足が続いた。新城国民学校は新城島住民の西表島大原移住に伴い、1944年4月に南風見ザラ崎に移転した。

 3月には南西諸島防衛のため第32軍が編成され、八重山でも独立混成第45旅団が編成された。石垣島をはじめ、竹富町の島々にも軍隊が配置され、兵隊の姿が目立つようになった。竹富島には大石隊、小浜島には旅井隊、引野隊が駐屯し、黒島、波照間島には「離島残置工作員」が配置されている。

 また、西表島祖納に護郷隊が編成された。ほとんどが竹富村の若者で構成され、西表9人、竹富15人、小浜22人、黒島13人、鳩間11人、波照間6人、新城2人、崎山1人、計79人によって組織された。護郷隊は御座岳、祖納岳、波照間森、ウシュク森に陣地構築し、ゲリラ戦に備えて戦闘訓練を繰り返した。護郷隊は占領された後のゲリラ戦を想定していたが、日本の降伏で、八重山の護郷隊は戦闘をせずに終わった。

 島々では、在郷軍人会や国防婦人会、翼賛壮年団などが結成され、軍事体制に組み込まれていった。婦人会は、国防婦人会、愛国婦人会として白地の割烹服を着け、各々マークの入った襷を肩にかけ、日の丸の小旗を振って出征兵を見送った。また、出征軍人家族及び戦没軍人遺族への慰問活動などが展開された。その他、防空訓練や国防献金なども行なわれ、国防意識の高揚が促進され、島々は軍事一色に塗りつぶされた。

 八重山は南方への物資輸送の中継地として位置づけられた。既に石垣島にあった平喜名の海軍北飛行場や大浜の海軍南飛行場とは別に、新たに白保に陸軍航空隊飛行場を建設することになり、急遽506特設警備工兵隊が編成された。しかし、島の成年男子は軍に配属されており、竹富町の島々からは高齢者や若い女性が借り出された。飛行場建設は軍民一体で進められた。飛行場は完成したが、連日連夜激しい空襲や艦砲に見舞われ、予想以上の被害を受けた。

 米軍は1944年10月10日、那覇を中心に爆撃を始め、那覇全域は焦土と化した。12日には石垣島上空に米グラマン3機が飛来し、翌日には与那国島久部良も爆撃された。1945年3月には八重山中学校や八重山農学校の生徒たちが鉄血勤王隊として学徒出陣。八重山高等女学校の女学生が野戦病院の従軍看護婦として各部隊に配置された。

 4月1日、本島に米軍が上陸し、激しい地上戦が開始された。八重山で地上戦はなかったが、連日のように空襲を受け、家屋の倒壊や焼失などの被害があり、西表島西部の炭坑施設も狙われた。

 5月4日、本島では守備軍による持久作戦から一転し、総攻撃をしかけたが、結果的に半分以上の兵力を失った。守備軍は本陣の首里を放棄して南下をし、民間人は昼夜米軍の攻撃に曝されることとなった。

 6月13日、小禄一帯の守備に当たっていた大田実少将以下2000人の海軍部隊は米第6海兵師団の猛攻撃により玉砕。6月23日、沖縄守備軍司令官・牛島と参謀長・長が自決し、日本軍の組織的戦闘は終結した。

 このような戦況のなか竹富村役場は甲戦備の下令により、1945年6月に石垣島から小浜島に移転した。ところが、小浜島には軍が駐屯しており、空襲も絶え間なくあった。民家を借りて行政事務を続けることとなったが、本来の業務はほとんどできなかった。

 6月30日、各地の学童集団疎開が決定した。対象者は60歳以上の年寄りと女・子供で、本島の学童は九州各県へ、宮古・八重山は台湾へ疎開することになった。宮古、八重山からは2万人の疎開が予定され、9月には台湾の中部の台中近郊等へ約3000人の集団疎開が始まった。

 竹富村民の疎開地は、竹富島玻座間村が西表島慶田城山、仲筋村はホネラに、黒島は西表島南風見、古見、カサ崎、由布島に、波照間島は西表島南風見、由布島に、鳩間島は西表島上原、船浦、伊武田に、新城島は西表島大原、船浮村は大原、祖納、干立に移住した。西表島祖納、網取、崎山や小浜島は、集落近辺の洞窟や畑小屋に避難した。

 避難先では簡単な茅葺家屋に、1世帯が2畳ほどに4、5人で暮らした。指定された避難地はマラリアの有病地だったのである。これにより、強制疎開によるマラリアのことを、「戦争マラリア」を呼んでいる。

 戦争マラリアの犠牲者は、八重山全体で1万6864人、死者数は3647人で、人口に対する死亡率は21・5%で、5人に1人が亡くなったことになる。山中から自宅に戻っても、マラリア地獄は収まらず、戦後復興の妨げになった。

 全戦没者数1317人のうち、963人はマラリアによる死亡者で、その割合は73・2%にも及ぶ。特に波照間島の割合が高いが、それは強制疎開によるものである。

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3.戦後の復興

 戦後、疎開者は各島に戻るが食糧難に直面した。軍隊の長期滞在が住民の食糧難の一因になった。1945年12月26日、米国海軍による救援物資がようやく八重山に届いた。マラリアの治療薬アテプリンをはじめ、米、塩、缶詰等の物資が、群島政府からの払い下げ船「拓南丸」で各島に配給された。

 終戦後、米国太平洋艦隊司令長官・ミニッツ元帥が、南西諸島の日本行政権の停止と、米軍政府の設置を宣言。しかし、統治機構は固まらず、宮古・八重山は南部琉球として、米国海軍軍政府の管轄下に置かれた。戦前の行政機構である八重山支庁も機能が麻痺し、八重山は無政府状態。住民不安の募るなか、青年達が立ち上がり、「八重山自治会」結成へと動いた。1947年3月、八重山支庁は八重山民政府と改め、支庁長も知事の名称に変更された。

 日本軍の本土引き揚げと入れ替わり、八重山出身者が本土や台湾から帰ってきた。住民の復興熱の高まりで徐々に活気を取り戻した。そして1950年開催の八重山復興博覧会でさらに弾みがついた。

 1946年4月に八重山郡農業会を結成された。翌年には黒島漁業会、波照間漁業会、竹富島漁業会と設立が相次ぎ、1947年7月には八重山郡水産業会が設立された。同11月に小浜島漁業会が設立され、水産業の復興が期待された。

 米ソ冷戦と朝鮮戦争(1950年)の勃発で、アメリカは沖縄に極東最大の軍事基地を建設。各地で土地の接収が行なわれ、次々と農地を基地に変えていった。本島では外地からの引揚者が農業をしようにも農地がなく、宮古島の人口は戦前の2倍に達した。そのため農家の次男や三男は外地に出稼ぎに行った。

 米軍政府は過剰な人口増加と土地不足を解消するため、八重山開拓を促進した。八重山では開拓移民を受け入れ、新たな集落を建設しようと、入植者の受け入れに力を注いだ。

 琉球政府の支援で入植が進む一方、それ以前に自力で移民してきた人達(自由移民)がいた。1948年に宮古島の人々が西表島西北部の住吉に入植したが、彼らが八重山で最も早い入植である。戦前から鳩間島の移住者がいた北部の上原や船浦はマラリアのため廃村寸前であったが、そこへ再び移住者が定住を始めた。東部の由布島は、戦前からマラリアがなく、竹富島住民等の季節的な畑小屋があり、そこを足がかりに西表島で水田をつくった。ここにも竹富島や黒島、宮古島から人々が定住するようになった。

 1952年、琉球政府の創設に伴い、本格的な八重山開拓移住計画が立てられた。この計画に沿って同年8月には石垣島桴海地区に米原団、西表島仲間地区に大富団が第一陣として入植。その後、石垣島の桃里、野底、明石、久宇良、平久保等、西表島にも南風見、ヤッサ地区等に入植した。そして1957年の真栄里山(現於茂登部落)への入植をもって終了する。

 本来なら開拓移住は農地や基本施設を整備してから実施すべきだが、この計画移民は入植が先行されたため、開拓者たちは多くの苦労を余儀なくした。戦後の計画移民、自由移民により新興集落が誕生し、島の新たな歴史が始まった。

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