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宜野湾市における戦災の状況(沖縄県)

1.戦災の概況

〇戦争前の宜野湾 −本島中部の一農村−

 戦前の宜野湾村(現:宜野湾市)は、農業を中心とした人口1万3,600人余の村(昭和19(1944)年10月時)であった。宜野湾村字宜野湾(現在の普天間飛行場内)には村役場があり、琉球王国時代から村行政の中心地として発展し、普天間は普天満宮を中心に門前町として栄え、沖縄県立農事試験場普天間試験地や中頭教育会館、中頭地方事務所の官公庁も置かれていた。また、村域の南側に位置する嘉数から北側の普天間までの約6キロ間には、琉球王国時代に植付けられた“ジノーンナンマチ(宜野湾並松)”と呼ばれるリュウキュウマツの並木道があり、昭和7(1932)年には国の天然記念物に指定され、県下に広く知られていた。

 主となる換金作物はサトウキビで、主食のイモや大豆なども栽培していた。大正11(1922)年に沖縄県営軽便鉄道嘉手納線が開通すると、収穫したサトウキビはトロッコや荷馬車を利用して大山駅に集められ、嘉手納の製糖工場へと運ばれた。

〇米軍の上陸と進攻、基地建設

(1)配備

 昭和16(1941)年12月8日、太平洋戦争が始まると、日本軍は緒戦で勝利したものの、のちに戦局が悪化、昭和19(1944)年には絶対国防圏が崩壊し、米軍の沖縄上陸が必至となった。同年3月には第32軍が編成され、沖縄に配備された。宜野湾村に駐屯した部隊は、学校や民家を宿舎や倉庫に使った。さらに住民を浦添や読谷等での飛行場建設や陣地構築に動員し、部隊への食糧供出も行われた。また、17歳以上の男子を防衛隊、中学校・女学校の生徒を学徒隊、地域の青壮年男女を義勇隊にと多くの県民を戦場動員した。

(2)米軍進攻

 昭和20(1945)年4月1日、沖縄本島の読谷、北谷沖から上陸した米軍は、翌2日に宜野湾の北側に進攻した。上陸決戦を避けた日本軍は持久作戦をとり、嘉数高地では日米両軍による攻防戦が展開された。この戦況のなか、住民は米軍の捕虜となった者や、戦禍に巻き込まれた者もおり、宜野湾村人口1万3,636人の約27パーセント、3,674人が犠牲となった。

(3)嘉数の戦闘

 昭和20(1945)年4月6日頃からは、嘉数高地など日本軍の主陣地の全線にわたって日米両軍による組織的な戦闘が始まった。日本軍は米軍に対戦車砲等で反撃したが、火力では圧倒的に米軍に劣っていた。日本軍は夜間の斬り込み攻撃や、急造爆雷を背負った初年兵が米軍戦車に体当たりする肉弾戦を展開した。2週間余の戦闘の末、日本軍は浦添の前田高地へ退却した。米軍戦史に嘉数高地を「いまいましい丘」、「嘉数地区で失った戦車22台というのは、沖縄の一戦闘としては最大のもの」と記されるほど、熾烈な戦いであった。


戦争遺跡の残る嘉数高台公園
(所蔵:宜野湾市立博物館)


陣地壕
(所蔵:宜野湾市立博物館)


トーチカ
(所蔵:宜野湾市立博物館)


公園内に祀られた慰霊塔
(所蔵:宜野湾市立博物館)


公園の展望台からみる普天間飛行場
(所蔵:宜野湾市立博物館)

激戦地の嘉数高地は戦後、嘉数高台公園として整備され、現在も園内には戦争遺跡が残されており、平和学習の場として利用されている。

(4)普天間飛行場建設−基地に消えた故郷−

 昭和20(1945)年4月末の嘉数高地での戦闘以降、米軍は本島南部へ進攻した。米軍は5月末に第32軍司令部のある首里を占領し、6月には南部への掃討作戦を展開した。南部での戦闘の最中に普天間飛行場の建設が始まった。飛行場建設によって宜野湾や神山、新城、中原などの集落の民家をはじめ、村役場、学校、戦前の主産業であったサトウキビ畑、宜野湾並松などが壊されて敷き均されてしまい、緑豊かな農村の姿は失われた。

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2. 市民生活の概況

(1)疎開

 米軍は、昭和19(1944)年10月10日、那覇を空襲した。戦況の悪化に伴い、住民の疎開が始まった。宜野湾村では、宜野湾と普天間の両国民学校の児童52人が宮崎県東郷村(現:宮崎県日向市)の坪谷国民学校へ、嘉数国民学校の児童32人が同村、福瀬国民学校に引率の先生と共にそれぞれ疎開した。しかし、対馬丸や湖南丸の悲劇でもわかるように危険な航海の中での疎開であった。また、沖縄戦直前、2月15日から数次にわたって、宜野湾村民の一部は今帰仁村の平敷・謝名・崎山に疎開した。

(2)住民の行方

 宜野湾村民の一部は、米軍上陸前に県からの指示で今帰仁村へ疎開した住民もいたが、そのまま故郷に残ってガマ(自然洞窟)などに避難する住民もいた。米軍が上陸すると、米軍の捕虜となる住民や、洞窟から抜け出て本島南部へ逃げた住民もいた。なかには日本軍によって壕から追い出された者もいた。また、南部へ避難した住民には、戦闘の巻き添えとなった者もいた。その一方で米軍の捕虜となった住民は、野嵩収容所や本島中北部の収容所へ移された。

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3.復興のあゆみ

(1)野嵩収容所の設置

 米軍は、上陸して間もない4月4日頃、宜野湾村野嵩に民間人収容所を設置し、村内や近隣の住民を捕虜とした。収容所では集落内の民家が使用された。設置時、野嵩収容所は戦場にもっとも近く、中北部の収容所との中継的な役割を果たした。

 開設当初は、主に宜野湾村民が収容されたが、捕虜となった住民は、数日後には中北部の収容所へ移された。その頃は、住居や食糧事情に不自由はなかった。しかし、戦況が南部へ移るにつれて他地域からの住民であふれ返り、居住環境や衛生、食糧事情が悪化した。終戦後、宜野湾村民の多くは中北部の収容所におり、野嵩収容所には他市町村の住民が多数を占めていた。

(2)収容所から宜野湾村へ−帰村−

 各地で米軍の捕虜となった住民たちの戦後が始まった。戦争中の宜野湾村民は、具志川や前原(現:うるま市)の収容所へ送られた住民と、疎開先の今帰仁で捕虜となり、大浦崎と田井等(両地とも現:名護市)の収容所へ送られた住民がいた。昭和20(1945)年10月頃から宜野湾村民の帰村が始まり、11月には田井等にいる村民が帰村し、昭和21(1946)年2月以降には、石川、前原などからも帰村した。宜野湾村民が帰ってきた野嵩では、他の市町村出身者も含めて人口が1万人以上に増加し、住居や食糧は厳しい状況にあった。

(3)故郷へ戻れた住民、戻れない住民

 各地の収容所から帰村した宜野湾村民は、一時期、野嵩や普天間地域で生活していた。元の居住地への帰村は、昭和21(1946)年9月頃、嘉数の住民から始まった。元の居住地(故郷)に戻ることのできた住民もいれば、米軍からの割当て地として指定された土地へ移動した住民もいた。住民は帰村したとはいえ、元の居住地から離れた土地へ居住された住民や、地域の一部が基地に接収されてしまい、基地と隣接するかたちで残った土地に居住を余儀なくされた住民もいた。さらに全域が米軍に接収された地域もあった。

(4)村行政の復活

 昭和21(1946)年4月、市町村制が復活し、村長が任命された。村長は、戦後もなお移動できずに野嵩に待機する他市町村住民に中北部の収容所から帰村する宜野湾村民が加わり、野嵩と普天間の一部地域に密集する状態を緩和するために村民分散移動委員会を結成し、移動計画の樹立と米軍との折衝に努めた。

 村行政の中心となる役所も戦前、役場のあった字宜野湾が普天間飛行場建設で接収されてしまったため、戦後は収容所であった野嵩に一時期構え、その後、普天間へと移動した。宜野湾における戦後復興の地は野嵩である。その後、本島中部の街の一つとして発展し、昭和37(1962)年7月1日、市へ昇格し、「宜野湾市」となった。

(5)戦後の宜野湾

 米軍は、沖縄占領と同時に普天間飛行場やキャンプ瑞慶覧をはじめとして宜野湾各地に基地や施設を設置し、宜野湾の人びとの生活に大きな影響を与えている。

 昭和25(1950)年には、現在のキャンプ瑞慶覧の拡張に伴い、伊佐浜の土地約3万坪が強制接収され、23家族116人は美里村字高原(現:沖縄市高原)へ移動を余儀なくされた。このような米軍による土地接収は、伊江島や読谷村渡具知などでも起こり、米軍に土地を奪われた住民の闘争は「島ぐるみ土地闘争」へと発展した。昭和25(1950)年7月時点で、宜野湾村面積の50パーセント以上が軍用地であった。

 その後、宜野湾市の西海岸地域の埋め立てによって市域を拡大し、米軍施設もキャンプブーン(宇地泊、昭和49(1974)年返還)やキャンプマーシー(真志喜・宇地泊、昭和51(1976)年返還)、海軍普天間通信隊(野嵩、昭和52(1977)年返還)等が返還され、近年では平成27(2015)年にキャンプ瑞慶覧の一部、西普天間住宅地区が返還された。宜野湾市で米軍基地は、市面積(約19.8平方キロメートル)のうち、約29.4パーセントを占めている。

4.次世代への継承

 宜野湾市内には令和2(2020)年9月現在で25の慰霊塔・碑が建立されている。その内訳は、市内各字(あざ)の慰霊塔が15基、沖縄戦時に配備された部隊の生存者や国外等からの慰霊塔・碑が10基である。部隊に関する慰霊塔・碑は、その部隊が戦闘に参加した嘉数や佐真下といった市内の激戦地に集中して見られる。慰霊塔を祀る字(あざ)では毎年、慰霊祭が行われ、嘉数高台公園に祀られている「京都の塔」では毎年、京都から遺族等が来県しての慰霊祭が執り行われている。

参考文献

『宜野湾市史』第1巻 通史編 宜野湾市教育委員会 1994年
『宜野湾市史』第3巻 市民の戦争体験記録 宜野湾市 1982年
『宜野湾市史』第8巻 戦後資料編1戦後初期の宜野湾(資料編) 宜野湾市教育委員会 2008年
『宜野湾市史』第8巻 戦後資料編2伊佐浜の土地闘争(資料編) 宜野湾市教育委員会 2019年
『宜野湾市史別冊 写真集「ぎのわん」』 宜野湾市教育委員会 1991年
『宜野湾市史別冊 戦後初期の宜野湾−桃原亀郎日記−』 宜野湾市教育委員会 1997年
『ぎのわん市の戦跡』 宜野湾市教育委員会 2003年
『宜野湾 戦後のはじまり』(市史第8巻1解説編) 宜野湾市教育委員会 2016年
『伊佐浜の土地闘争』(市史第8巻2解説編) 宜野湾市教育委員会 2021年
『沖縄県史 各論編6 沖縄戦』 沖縄県教育委員会 2017年
『宜野湾市民が綴る戦争体験 戦禍と飢え』 宜野湾市がじゅまる会 1979年
『沖縄県史ビジュアル版1 銃剣とブルドーザー』戦後(1) 沖縄県教育委員会 1998年
宜野湾市HP 「宜野湾市と基地」 「キャンプ瑞慶覧(西普天間住宅地区)基地の跡地利用に向けて」 宜野湾市

情報提供:宜野湾市立博物館、宜野湾市福祉総務課

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