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石垣市における戦災の状況(沖縄県)

1.戦災の概況

 昭和18(1943)年末、平喜名飛行場へ海軍観音寺部隊が駐屯。新たに平得及び白保での飛行場建設工事が強行され、農学校、中学校、女学校、青年学校など学徒はもとより、住民も徴用や奉仕などに駆り出された。

 翌年から陸海軍の部隊が続々と到着。住民も郷土防衛をになう特設警備隊に召集される者、飛行場建設を主任務とする特設警備工兵隊に召集される者など、働ける者はほとんど従軍か徴用として使役に駆り出された。一方、台湾への疎開も奨められ、次から次へと疎開船が台湾へと向かった。

 昭和19(1944)年10月12日、米軍機による初空襲。

 翌20(1945)年3月、中等学校男子生徒による鉄血勤皇隊の編成、看護要員としての女子学徒の軍配属がなされた。米軍の沖縄本島上陸で一層緊迫し、4月以降の来襲機数延べおよそ三千六百余機、5月艦砲射撃も加わり、6月住民の山地への強制避難、さらに「甲号戦備」命令が下され、一気に臨戦態勢に突入した。

 やがて住民とマラリアとの死闘が展開され、強制避難から敗戦直後の9月までの間に八重山群島で3,647人がその犠牲となる惨事となった。

平和の礎刻銘者数(令和3年6月現在) マラリア犠牲者数
石垣市 4,405 石垣町 1,388
大浜町 1,108人
竹富町 1,146 竹富村 785
与那国町 701 与那国村 366

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2.市民生活の状況、戦災の状況

【疎開】

 昭和19(1944)年7月7日、奄美大島・徳之島・沖縄本島・宮古・八重山の児童や女性、老人を対象に、本土や台湾へ向かう緊急疎開の指示が出たが、すでに日本近海ではアメリカ軍の潜水艦による魚雷攻撃で船舶の被害が相次いでいたため、積極的に疎開しようとする人はなかなか現れなかった。しかし、地域の指導者家族が、疎開を行うことを伝え聞いたことで、疎開希望者が次々と現れ、同年8月、夏休み期間の国民学校でも、縁故や集団による疎開が行われ、9月末までに全児童の約50%が台湾などに疎開した。

 石垣港を出航し、西表島、与那国島を経由して台湾へ向うが、台湾までの航海はアメリカ軍の空襲を恐れて主に夜間に行われた。しかし、それでも全ての疎開船が無事にたどり着けたわけではなく、疎開は常に危険と隣り合わせだった。

【勤労奉仕】

 昭和19(1944)年8月23日、独立混成第45旅団が石垣島に移駐。県立八重山農学校の校舎を接収し、司令部を置いた。その後、9月20日にかけて、第45旅団を構成する各大隊が移駐。それらの部隊を収容するために、国民学校の校舎が接収され、子どもたちは学年ごとにばらばらに民家で授業を受けることとなったが、それも長くは続かなかった。生徒達や国民学校の上級生たちは、平得・白保の2つの飛行場作りや軍の陣地作りに駆り出され、低学年の小さな子どもたちは、滑走路に敷く石を登校の時に拾ってくる仕事が与えられた。

 また、旅団の水くみや道路作り、共同農園の開墾など軍への奉仕作業が日課となっていった。

【供出】

 軍への奉仕だけではなく、「供出」という軍への物品提供も、人々に重くのしかかった。食糧や鍋、釜に至るまで軍に言われるまま供出し続けた。日中は軍の施設づくりに駆り出され、日が暮れると軍に供出するための筵や蚊帳づくりに追われた。

 中でも、「献木」という陣地作りのための木材の供出が人々を痛めつけた。屋敷内の木材を伐採したり各戸手持ちの木材を供出するだけでなく、八重山高等女学校の新校舎が女学生が一度も使用しないうちに取り壊され、その木材を供出するということもあった。

【食糧事情】

 昭和19(1944)年当時、八重山の人口は約3万3千人ほどだった。そこに、独立混成第45旅団を中心に陸海軍の部隊合わせて約8千人の軍人が移駐してきた。人口がいきなり25%ほども増加したため、島の生活は困窮し始め、特に食糧が大きな問題となった。

 昭和20(1945)年になり、食糧事情がさらに悪化すると、軍人の中には強い立場を利用し、家畜の接収だけでなく、牛や馬などの無断屠殺なども頻繁に行われ、武器を盾に半ば強制的に島の人々から食糧を奪い取るものも出てきた。

 島の人々は、わずかばかりの籾と芋、芋の澱粉や数珠藻、さらには毒のあるソテツまで食べなければ生きていけないところまで追い込まれていった。

【空襲】

 昭和19(1944)年10月10日から始まった、アメリカ軍38機動部隊による沖縄本島を中心とした集中攻撃(十・十空襲)で、石垣島に空襲が行われたのは12日のこと。石垣島の人々にとって初めての空襲だった。午前8時過ぎ、於茂登岳とバンナ岳の中間からあらわれたアメリカ軍四機は、まず平得飛行場を襲い、さらに白保飛行場を銃撃、反転して平喜名飛行場の上空に舞い戻り、急降下しながら銃撃を加えた。

 その後、年末までの間は空襲も途絶えていたが、昭和20(1945)年1月1日、アメリカ軍機一機が石垣島の上空を飛びまわって偵察を行い、3日には四機が来襲。初めて、石垣島の民家に爆弾が投下された。その後、1、2月には散発的に空襲が続いた。

 アメリカ軍が慶良間島へ上陸した3月下旬以降、石垣島は4、5、6月と毎月延べにして千機を超えるアメリカ、イギリス軍機の猛空襲にさらされた。

※「戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦」には、10月10日に八機来襲との記述あり。


爆撃を受ける平得飛行場周辺と平得集落
提供:沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会事務局
石垣市教育委員会市史編集課


爆撃を受ける平得飛行場の滑走路
提供:沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会事務局
石垣市教育委員会市史編集課

【みのかさ部隊・学徒動員】

 昭和19(1944)年11月7日、旅団司令部は八重山郡下に防衛召集を発令。20歳〜45歳までの男子はほとんどが召集を受けており、大部分は全く訓練されていない雑兵だった。これが、第506特設警備工兵隊で、主な任務は、空襲で破壊される白保飛行場の補修を行い、ここを台湾や鹿児島県の知覧から飛び立った特攻機の中継地点として維持していくというものだった。この部隊には、軍服や装備の支給どころか、給料の支払もなく、雨の日にみのかさをかぶり作業したところから、「みのかさ部隊」と呼ばれていた。

 昭和20(1945)年3月、県立八重山農学校と県立八重山中学校の男子生徒200余人が動員され、鉄血勤皇隊が編成された。生徒達は、八重山農学校の校庭に集められ、有線班、無線班、暗号班、対空監視班と迫撃班に分けられ、その日から猛訓練と軍隊生活が始まった。例えば、対空監視班は、旅団本部の南にある高さ15メートルほどの琉球松の上方に据えられた監視台の上で、毎日双眼鏡で空を監視した。監視中にアメリカ軍機の来襲を受けた際は、機銃掃射や爆弾が投下される中、監視台の上で祈ることしか出来なかった。また、迫撃班はアメリカ軍の石垣島上陸に備えて、およそ10キロの重さの爆弾を抱えて戦車に体当たりする特攻訓練を行うなど、軍人なみの命がけの生活を送っていた。

 県立八重山高等女学校と県立八重山農学校の女生徒は、卒業と同時に看護要員として軍に動員された。4月看護婦教習が始まり、人骨がゴロゴロころがる墓の中での速成教育が5月いっぱい続けられた。6月になると、於茂登岳中腹の陸軍病院、開南の野戦病院へと配属された。初めのうちは患者がいないため、医薬品の運搬や防空壕堀などの重労働が続いていたが、終戦直前になると多くの傷病兵が送られてきて、昼夜を問わず看護婦として働き続けた。女学生たちは、兵隊たちに「琉球人、琉球人」と小馬鹿にされながら重労働に耐え、看護婦として休むことも許されず、傷病兵の看護に明け暮れ、死人を目の当たりにする日々を送っていた。

【強制避難とマラリアとの闘い】

 昭和20(1945)年3月下旬ごろから空襲が頻繁になり、死傷者を出すようになると、人々の避難が相次いだ。これが、6月のマラリア地帯への強制避難に先立つ第一次避難といわれている。

 同年6月1日、独立混成第45旅団長は、石垣、大浜の町村長を旅団本部に呼び出し、「官公庁は5日までに、一般住民は10日までに避難を完了するように」と伝えた。しかし、その避難地が、マラリアの巣窟として恐れられていたマラリア有病地への避難命令だった。

 避難小屋は隣組単位で作られ、1つの小屋に5世帯ほどが一緒に暮らし、1世帯あたり2畳ほどしかなく、ぎゅうぎゅう詰めの不衛生な環境だった。さらに、雨期が重なり、環境は日に日に悪化していった。さらに、食糧の調達も大きな問題だった。最初に運んだ食糧を食べ尽くすと、一家の主婦たちは食糧を求めて、空襲のさなか10キロ以上も離れた家や畑へと歩いた。銃撃を避けてやっとの思いで手に入れた食糧も、避難小屋への帰り道、兵隊に見つかると取り上げられてしまうこともあった。

 山での生活が2週間近く経とうとするころ、マラリアが襲いかかった。避難当初、元気よく遊んでいた子どもたちが、急に高熱を出して苦しみ始めた。山中の避難先のため食糧事情も悪く、栄養不足で体力も衰えていく中、住民たちは次々と死んでいった。避難小屋は、数人のマラリア患者が枕を並べているところがあるかと思えば、幼い子どもだけが生き残っているところ、また、死体だけが横たわっている小屋もあった。

 7月23日、甲号戦備が解除されると、人々はそれぞれの家に帰り始めたが、その後もマラリアの猛威はおさまることなく、人々が戻った家々からは熱にうなされる声が聞こえ続け、多くの人が死んでいった。

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3.復興のあゆみ

 戦争により機能を失った行政機関だったが、新八重山支庁の開庁、八重山群島政府の発足、そして琉球政府の発足にともなう八重山地方庁の設置というように行政機能の回復が続いた。

 終戦とともに、避難先からそれぞれの家へと戻ってきたものの、マラリアは依然猛威を振るい続け、家に戻ってから発病した人もいた。進駐してきた米海軍部隊からアテブリン錠が配布され、それを服用した患者は目に見えて快方に向っていった。また、八重山支庁や八重山民政府で強力なマラリア撲滅対策を講じたため、昭和24(1949)年頃までには患者数が激減し、翌年には死亡者数もゼロになった。

 昭和22(1947)年7月、石垣町が昇格して石垣市となり、9月には大浜村が昇格して大浜町となった。その後、道路の開削や橋の建設、交通や電気電話の復旧、上水道の建設など生活基盤の整備が推し進められ、八重山諸島の中心地として発展してきた。

 本土復帰以降も、農業や漁業のほか観光産業等も盛んになり、豊かな自然を求めて多くの観光客が訪れる島となった。

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4.次世代への継承

 石垣市では、過去に起こった悲劇を風化させることなく、次世代へ戦争の悲惨さと平和の尊さを継承するため、また、国内外へ平和を求める心を発信するため平和推進事業を推し進めている。

【宣言】

「石垣市非核平和都市宣言」 昭和59年3月29日
「石垣市平和港湾宣言」 平成11年3月26日
「石垣市核廃絶平和都市宣言」 平成23年12月27日

【慰霊行事】

八重山戦争マラリア犠牲者追悼式
開催日:毎年6月23日
場所:八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑
石垣市全戦没者追悼式並びに平和祈念式
開催日:毎年6月23日
場所:八重守之塔

参考文献

『平和祈念ガイドブック「ひびけ平和の鐘」』 石垣市 1996年
『八重山写真帖−20世紀のわだち− 上下巻』 石垣市 2001年
『石垣市史 資料編 近代3 マラリア資料集成』 石垣市 1989年
防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』 朝雲新聞社 1968年

写真提供

写真提供者:沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会事務局
所蔵・提供:石垣市教育委員会市史編集課

情報提供:石垣市平和協働推進課

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