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浦添市における戦災の状況(沖縄県)

1.米軍上陸以前の概況

 昭和6(1931)年の満州事変以来15年続いたアジア太平洋戦争の終着点として戦われた沖縄戦において浦添村(当時)は激戦地となり、村民が払った犠牲は極めて大きかった。

 昭和19(1944)年8月ころ浦添村内に日本軍の各部隊が進駐してきた。沖縄決戦に向けて陸軍南飛行場(仲西飛行場・城間飛行場)建設や陣地構築を指揮する第32軍の石部隊・球部隊・武部隊などの駐留である。各字の民家が兵舎として利用され、労働力の提供や食料の供出など生活のあらゆる面で住民の協力が求められた。また、日本軍の駐屯にともない村内に14カ所の慰安所が設置された。

 昭和19(1944)年10月10日の空襲(10・10空襲)で浦添の民家の被害は微少にとどまったとされるが、仲西飛行場や牧港浄水場が攻撃目標にされ爆撃を受けた。昭和20(1945)年1月22日、3月1日、3月10日にも村内に空襲があり被害を受けた。(浦添市史より)

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2.前田高地(ハクソー・リッジ)での戦闘

 4月1日の沖縄本島上陸後、南進する米軍は宜野湾村、中城村、次に嘉数高地、西原高地、棚原高地で日本軍と戦闘を繰りひろげた。4月24日以降防衛ラインを後退させた日本軍は前田高地を中心とする防衛戦闘に転じた。翌25日には飛行機によるナパーム攻撃を受けたほか、米軍の猛砲撃が前田高地とその周辺に加えられたが、5月6日に米軍が完全制圧するまで抵抗する日本軍との間で前田高地一帯は沖縄戦史中でも有数の激戦地となった。平成28(2016)年に公開された映画『ハクソー・リッジHacksaw Ridge』(メル・ギブソン監督)に描かれたような激烈な戦闘シーンが繰り広げられた。前田集落南側地区では日米両軍が混在する状況となった。(沖縄県史より)


1945年4月22日。ハクソー・リッジの戦場。浦添城跡の石垣が見える。
(沖縄県公文書館所蔵)


1945年5月19日撮影。安波茶ポケット。現在の浦添工業高校附近。
(沖縄県公文書館所蔵)


安波茶100高地(浦添市役所付近)に立つ米国海兵隊員。1945年5月。
(沖縄県公文書館所蔵)

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3.浦添村民の被害(概要)

 沖縄戦における浦添村の犠牲は本島中部地区で最大に近かった。

 浦添市史によれば、浦添村全体の戦没者数は4,112人であり、死亡率は44.6%、一家全滅率も22.6%にのぼる。これは昭和55(1980)年当時の調査によるもので、県外疎開者や海外での戦死者は含まれていない。

 沖縄県史に反映された最近の調査データによれば、浦添村の戦没者数は4,679人であり、中部市町村中で第3位だが、犠牲者の人口比では41.2%であり、西原村の48.2%(戦没者数5,026人)に次いで2番目に多い。これは首里市(42.1%)、南風原町(45.1%)、豊見城村(40.6%)、高嶺村(43.4%)など南部地区の市町村に匹敵する死亡率である。

 また、字(あざ)ごとの統計を見ると、仲間(62.8%)、安波茶(75.1%)、宮城(70.7%)、港川(59.7%)、前田(59.0%)、屋富祖(55.8%)、大平(59.2%)、西原(52.8%)など、住民の過半数が犠牲になった字が10字を数える。さらに戦没者のうち村内での死亡率を見ると、仲間(47.2%)、安波茶(47.1%)、宮城(52.1%)、前田(39.9%)、城間(40.9%)、伊祖(66.7%)となり、激戦地となった村内での死亡率がいかに高かったかがわかる。


米軍兵士と子どもと老人。城間にて。1945年。
(沖縄県公文書館所蔵)

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4.戦後復興と基地建設(浦添市史第7巻より

 浦添住民にとっての戦後は他市町村と同様、米軍の捕虜となった時点から始まった。だが、各地の難民収容所から旧居住地である浦添への移動は昭和21(1946)年2月まで待たねばならなかった。しかも移動先は出身部落ではなく、破壊された浦添国民学校跡地などに設営された仲間収容所(仲間キャンプ、通称テント村)だった。元の部落への移動は米軍の許可が下りた順に同年7月から昭和22(1947)年にかけて行われた。軍用地として屋敷や農地が接収された牧港、城間、仲西、小湾の各部落の再興はとくに困難を極めた。

 戦後の浦添は米軍基地建設と軍作業、米軍相手の仕事で急速に復興したが、戦前の純農村には戻らなかった。西海岸の米軍基地建設と基地門前町の形成によって浦添は農村から都市に変貌した。


牧港飛行場建設に従事する村民。1945年7月6日。
(沖縄県公文書館所蔵)

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5.その後の取組み(慰霊祭)

 昭和22(1947)年5月13日に戦没者慰霊祭が初めて実施された。昭和27(1952)年9月30日には現在の浦添大公園内(激戦地となった前田高地の一角)に「浦和の塔」が建立された。令和元(2019)年10月15日、市長参加のもと第73回浦添市戦没者追悼式が執行された。また、山部隊遺族会の「前田高地平和の碑」や各自治会などによる慰霊塔が市内各所に建立され、戦没者の慰霊と世界の恒久平和が祈念されている。


浦添村職員と浦和の塔。1952年頃。浦添市広報より。
(浦添市立図書館所蔵)

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6.次世代への継承

 戦争体験者が高齢化する中、次世代への戦争の記憶や平和意識を継承することを目的に、「浦添市中学生平和交流事業」を実施しており、本市の平和行政の柱となっている「平和都市宣言」「核兵器廃絶宣言」の精神を高めるため、市立中学校の生徒等からなる「中学生平和交流団」を結成し、戦争及び平和について研修を行っている。研修後は団員をピースメッセンジャーとして認定し、平和を繋ぐ大使としての活動を行う。

 そのほか、戦争体験談の動画配信、広報誌での平和特集等をとおして、広く市民と一緒に平和について考える機会を提供するなど、平和の発信に取り組んでいる。

 毎年、沖縄県慰霊の日の6月23日をはさんで浦添市役所で沖縄戦時中の写真パネルや遺品などの展示を行うほか、10月の浦添市戦没者追悼式に合わせて市立図書館でも戦争と平和を考える展示を毎年企画している。

 また、特定非営利活動法人うらおそい歴史ガイド友の会による調査や浦添市てだこ市民大学スタッフと卒業生が「前田高地攻防の記録」と題したパンフレットを作成するなど、慰霊と伝承の地道な取り組みを継続している。

参考文献
『浦添市史 第5巻 資料編4 戦争体験記録』 1984年
『浦添市史 第7巻 資料編6 浦添の戦後』 1987年
『沖縄県史 各論編6 沖縄戦』 沖縄県教育委員会 2017年
『小湾字誌 戦中・戦後編』 2008年
『城間字誌 第2巻 城間の歴史』 2003年

情報提供:浦添市立図書館沖縄学研究室、浦添市国際交流課

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