総務省トップ > 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 国内各都市の戦災の状況 > 恩納村における戦災の状況(沖縄県)

恩納村における戦災の状況(沖縄県)

1.沖縄戦前夜

 昭和19(1944)年8月から恩納村にも日本軍部隊が村内各地に駐屯していた。第24師団歩兵第32連隊の本部が山田国民学校におかれ、各集落の学校、公民館、民家などに大隊、中隊が配備された。

 歩兵第32連隊の「戦闘指導要領」には沖縄本島西海岸から上陸してきた際の戦法が明記されており、水際で撃退する方針が示されていた。この方針にもとづき、村内にトーチカとよばれる掩蓋陣地や、壕がつくられ、現在もこうした戦争遺跡が残されている。これらの陣地構築は、米軍の上陸を昭和20(1945)年春以降と予期し、「昼夜兼行」の突貫作業ですすめられた。陣地構築で必要な坑木を確保するために、恩納岳や周辺の山々から松をはじめとする木々が次々と伐採されていった。伐採した木が腐らないように国民学校の生徒たちが皮をはぎ、その後製材した材木は住民の馬車も動員し、南部へ運ばれていった。王府時代、恩納村の木々は保護育成され美林を保っていたが、陣地構築のためにことごとく伐採され消滅した。

 第32軍の現地自給の方針のもと、沖縄本島北部10村(名護町、恩納村、金武村、久志村、東村、大宜味村、国頭村、今帰仁村、羽地村、本部町)から物資を集める仕組みが整えられていった。第32野戦貨物廠という部隊が国頭地方事務所を通じて、野菜、甘藷、果実、魚などの食糧や砥石、製紙材料などの物資を集め、日本軍に提供していった。

ページトップへ戻る

2.米軍上陸

 昭和19(1944)年12月、第10師団が台湾からフィリピンレイテ作戦へ投入されるため、第9師団が台湾に移動し、恩納村に駐屯していた第24師団歩兵第32連隊は第9師団のいた南部に移動した。その後恩納村を拠点とした戦闘部隊は第二護郷隊が中心となった。第二護郷隊は国頭、大宜味、東村の15歳から18歳の男子を中心に、中頭郡の男子もあわせ約400人のゲリラ戦−遊撃戦を展開する部隊である。彼らは名護国民学校、安富祖国民学校で訓練を積み、昭和20(1945)年1月から恩納岳に戦闘拠点を作り始め、3月下旬から恩納岳に武器、弾薬、食糧を運び入れ、長期間にわたって米軍への遊撃戦を展開する態勢を整えていった。この部隊を編成し教育したのが陸軍中野学校を卒業したメンバーであった。また沖縄本島北部を担当する国頭支隊のもと、戦争を進めるうえで障害となる人物、状況を把握し、軍に報告するために、恩納村以北の各地域から33人の教育者、議員などの有力者が集められ、民間防諜組織としての国士隊が結成された。

 昭和20(1945)年3月23日未明から沖縄への米軍の空襲がはじまり、翌日には艦砲射撃もはじまった。疎開地域に指定されていた恩納村にも中南部からの避難民が押し寄せてきた。恩納岳には村民をはじめ村外の住民が万単位で避難していたとされる。

 米軍は4月1日に北谷、読谷海岸から上陸し、4月3日には沖縄本島を南北に分断した。北部へ向かう米軍は恩納村の海岸沿いを進軍し、4月6日には名護許田に到達した。その途中、米軍は北部進攻と同時に日本軍を攻撃するための拠点を次々と建設していった。恩納村の南側に位置する仲泊以南の集落に避難していた住民は米軍の北部進攻とほぼ同時に収容され、いち早く戦後の生活に入るが、恩納岳に避難した住民は長い人で、約4か月恩納岳を逃げ回ることになった。米軍につかまるとひどい目に合うという情報を信じこんでいた住民は、容易に米軍の投降の呼びかけに応じることはなかった。


字仲泊のガマから投降し、米軍に収容される住民
(沖縄県公文書館所蔵)

 恩納岳に本部を置く第二護郷隊は上陸後の米軍進攻を妨害するため、村内にかかる橋を爆破していった。上陸前にありったけの食糧、生活必需品を持って沖縄本島北部へ避難する住民は渡り切れず、泣く泣く手前で食糧を捨て、限られた荷物だけで移動せざるを得なくなった。このことが避難先での栄養失調、飢餓へつながることになった。壊された橋は一時的に進攻を阻んだものの、米軍はすぐに橋を修復し、米軍の作戦に大きな影響は出なかった。

 第二護郷隊は恩納村に陣地、基地を拡大する米軍へゲリラ戦を行うものの、次第に戦線を寸断され、5月末から米軍の猛攻を受け、死傷者が続出した。南北への移動が完全に寸断され、米軍に四方から追い詰められ、蓄えていた食糧も尽きていく中、第二護郷隊は6月2日に恩納岳から撤退した。負傷して動けない患者はそのまま放置、もしくはその場で銃殺された隊員もいた。

 嘉手納の中飛行場、読谷の北飛行場から移動してきた特設第一連隊の隊員にも多くの戦死者が出た。その後、沖縄本島北部での遊撃戦へ移行するために、生き残った隊員が東村有銘まで移動するが、7月16日、岩波隊長から解散を命じられる。しかし、この解散は指揮下の状態から解かれることではなく、故郷で命令があれば米軍への反攻をいつでもできるように準備をし、待機しておくことであった。


恩納部落を焼き払いながら進攻する米軍
(沖縄県公文書館所蔵)

平和の礎に刻銘された戦没者の字別一覧(2021年6月現在)
戦没者数 備考
名嘉真 130  
喜瀬武原 52  
安富祖 105  
瀬良垣 89 瀬良垣地番の太田含む
恩納 359 恩納地番の太田、南恩納含む
谷茶 115  
冨着 48  
前兼久 82  
仲泊 142  
山田 195  
真栄田 156 真栄田地番の塩屋、宇加地含む
合計 1,473 1931年の満州事変に始まる15年戦争の期間中に戦争が原因で亡くなった人、戦争が原因で戦後亡くなった人

ページトップへ戻る

3.沖縄戦終結と戦後の生活再建

恩納村民の収容された場所

羽地村田井等(現在の名護市) 名嘉真の一部、瀬良垣、前兼久
金武村(現在の金武町) 中川(喜瀬武原の一部、冨着の一部)
宜野座村 名嘉真、冨着の一部、山田の一部
石川(現在のうるま市) 安富祖、喜瀬武原の一部、瀬良垣、太田、恩納、南恩納、谷茶、仲泊、山田、真栄田、塩屋、宇加地

 収容された住民は米軍の配給を得ながら、命をつないでいた。一方で避難中の食糧不足による栄養失調や、罹患したマラリアなどの病気や避難中の負傷の悪化などによって収容所で命を落とす住民もいた。

 昭和20(1945)年10月、米軍の帰村準備命令によって、石川で恩納村代表者会議が行われ、村先遣隊が結成された。11月には先遣隊の仮事務所が南恩納の焼け残った民家に設置され、復興へ向けて動きはじめた。一方、集落で独自に帰村を開始したところもあった。家は焼かれ、田畑は荒れ、飼育していた家畜もいなくなり、復興は容易ではなかった。帰村当初は各集落とも幕舎に身を寄せ、米軍の配給物資をもらいながら、集団生活を余儀なくされた。しかし、建築班、農耕班に分かれ住民が共同で再建に取り組み、早い地域では4か月後から各戸での家庭生活を再開することができた。

 米軍施設の建設、道路整備などで帰村が遅れた地域もあった。フェンスで仕切られ、外との往来にも制限がある海側のテントで、道路越しに自分たちの集落をみながら、1年以上生活を続けた住民もいた。

ページトップへ戻る

4.復興への歩み

 密林だった恩納岳は戦時中、避難してきた住民を守りながら多くの命を救い、戦後の混乱期には復興のための資材、燃料として薪を取る場所だった。石油コンロが普及し、山が元の姿を取り戻そうとする1950年代に入ると米軍の演習がはじまり、恩納岳を中心とする村有地が軍用地に指定された。戦後の復興産業として恩納岳の麓の肥沃な土地に茶園が作られていたが、米軍の迫撃砲が撃ち込まれ、不発弾も残存し立ち入りができなくなった。昭和35(1960)年2月には米軍の実弾砲撃演習で3日間にわたる大規模な山火事が発生、119haを焼失し、大きな被害を受け、茶園は廃園となった。このあとも実弾砲撃演習、射撃訓練によってたびたび山火事が発生した。

 昭和41(1966)年10月には南恩納区の住宅の台所への流弾事件が発生し、恩納村主催の村民大会が開かれた。この事件までに40件余りの流弾事件が起きており、これ以上の事件発生を許さない厳重な抗議のあらわれであった。しかし、その後も戦車砲や機銃弾などの破片が民家に落下したり、走行中のタクシーの側面に機関銃弾が貫通するなど、事件、事故は尽きなかった。平成29(2017)年4月には集落から数百mほどしか離れていない安富祖ダム建設工事現場への流弾事件が起きている。

 昭和63(1988)年には都市型ゲリラ訓練施設建設計画が明らかとなった。米陸軍特殊部隊グリーンベレーの戦闘訓練ができる施設で、住宅地から数百mしか離れていないことから、一気に村民の不安が高まった。村民総決起大会を開催し、監視小屋を設置して、座り込みの阻止行動に入るが、平成2(1990)年3月に完成し、実弾射撃訓練が開始された。再度、村民総決起大会を開催し、実弾演習、水源涵養林火災に対する抗議決議を採択した。平成4(1992)年、米国から都市型戦闘訓練施設の撤去が発表され、4年にわたる抗議の闘いは終わった。


流弾事件に抗議する村民大会 1966年
(写真集「道」写真で見る恩納区のあゆみ 2003年 字誌編集委員会所蔵)

 パラシュート降下訓練や野戦格闘訓練が行われていた恩納通信所は平成7(1995)年に返還されたが、既存建築物の解体の際に、汚水処理層内の汚泥などの有毒物質が流出口附近から検出された。米軍側は日米地位協定第4条の返還した土地の原状回復の義務を負わない規定を盾に、返還後に発見された問題として引き取りを拒否した。村内自衛隊基地で保管した後、返還から約18年後の平成25(2013)年、日本の民間業者によって320トンに及ぶ汚泥は全面処理された。

 恩納村には現在キャンプ・ハンセンの他、嘉手納弾薬庫地区があり、村面積に米軍基地が占める割合は約29.2%である。自衛隊基地を含めると約29.8%となる。


米軍演習による山火事(2018年10月)
(恩納村史編さん係所蔵)

ページトップへ戻る

5.次世代への継承

○慰霊の取り組み

 現在恩納村内には10基の慰霊塔が建立されており、毎年慰霊の日(6月23日)に自治会主催で遺族、区民参加の慰霊祭が行われている。恩納村の慰霊之塔では村主催で慰霊祭が行われ、村遺族会、各区の代表、関係者が参加している。

 安富祖子ども会では第二護郷隊之碑、第四十四飛行場大隊之碑がある敷地を慰霊の日に清掃し、その場で体験者の話を聞くなど独自の取り組みを行っている。現在、郷護の会(第二護郷隊の戦友会)、屋良ノ友ノ会(第四十四飛行場大隊戦友会)は解散し、慰霊祭は行われていないが、遺族の参拝は引き続き行われ、うるま市の地蔵院によって祭壇が設けられている。


慰霊碑の前で話をきく安富祖子ども会
(恩納村史編さん係所蔵)

恩納村内の慰霊塔
名称 場所 建立者
第四十四飛行場大隊之碑 安富祖区 屋良ノ友ノ会
第二護郷隊之碑 安富祖区 郷護の会
慰霊之塔 恩納区 恩納村
慰霊之塔 冨着区 冨着自治会
慰霊塔 前兼久区 前兼久自治会
仲魂之塔 仲泊区 仲泊自治会
慰霊塔 山田区 山田自治会
眞魂之塔 真栄田区 真栄田自治会
さざなみの塔 塩屋区 塩屋自治会
宇魂之塔 宇加地区 宇加地自治会

○平和学習

 村内には自然洞窟であるガマ、住民避難壕、日本軍が建設した陣地、トーチカや護郷隊が破壊した橋などの戦争遺跡が残されている。これらの戦争遺跡や慰霊碑を回り、恩納村の戦争を知り、考える平和学習が行われている。令和元(2019)年には安富祖中学校1年1組が戦時中の食事作り、戦争体験者へのインタビュー、慰霊碑前での平和の詩の群読、遺族会の方々への学習内容の発表など、一学期を通して学びを深め、沖縄県が実施する「第1回ちゅらうちなー草の根平和貢献賞」を受賞した。

 村内の小中学校では村内の戦争体験者や第二護郷隊の体験者からも体験談を聴く機会が増え、フィールドワークも行われている。第二護郷隊をはじめ、少年ゲリラ兵の戦いや住民虐殺などをテーマにしたドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」が平成30(2018)年に公開、全国各地での上映、恩納村での自主上映会によって、恩納村の戦争、少年兵のゲリラ戦が広く知られるようになった。

 毎年、恩納村博物館で慰霊の日特別展を開催し、村内外での関心を高めている。
 令和4(2022)年3月には恩納村史戦争編を発行する予定である。


中学生による慰霊碑前での平和の詩群読
(恩納村史編さん係所蔵)

2018年恩納村史編さん係 慰霊の日特別展「戦場となった恩納岳 少年ゲリラ兵 第二護郷隊の戦争」
(恩納村史編さん係所蔵)


映画「沖縄スパイ戦史」(2018年)

参考文献
『恩納字誌』 字恩納自治会 2007年
『写真集 道 写真で見る恩納区のあゆみ』 字恩納自治会 2003年
『恩納村誌』 恩納村  1980年
『恩納村誌 第一巻 自然編』 恩納村 2014年
広報おんな 2016年・2018年
『本部町史』 資料編1 1979年
『恩納村民の戦時物語』 恩納村遺族会
『沖縄の戦争遺跡−記憶を未来につなげる−』 吉浜忍 2017年
『陸軍中野学校と沖縄戦』 川満彰 2018年
恩納村博物館紀要第10号 2018年
恩納村博物館紀要第11号 2020年
『霞城連隊の最後』 高島勇之助 1974年
『恩納村史 第二巻 考古編』 恩納村 2020年
『命身にかきて米軍演習許ちならん』 特殊部隊訓練場建設及び実弾射撃演習反対・恩納村実行委員会
『議会だより』(132号) 恩納村議会広報委員会 2017年5月
『沖縄の米軍基地』 沖縄県 2018年
『米軍基地環境カルテ キャンプ・ハンセン』 沖縄県 2017年
防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』 朝雲新聞社 1968年
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110044300、沖縄作戦に於ける歩兵第32聯隊史実資料 防衛省防衛研究所
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110136900、関係部隊作命綴(2) 防衛省防衛研究所
『沖縄戦が問うもの』 林博史 2010年
『証言 沖縄スパイ戦史』 三上智恵 2020年

情報提供:恩納村総務課恩納村史編さん係

ページトップへ戻る