昭和20(1945)年の沖縄戦では、軍民あわせて20万人余の方が亡くなったが、そのうちの約12万人が民間人を含む沖縄県民だったといわれている。
宜野座村においても、沖縄戦を含む太平洋戦争等によって600人余の方が亡くなっており、戦後75年余が経過したが、決して忘れてはいけない記憶となっている。
沖縄戦時の本村地域は、毎日のように人口の移動が激しかった為、その実態は明確ではないが、地元の者・戦争前に沖縄本島南部から避難してきた者・米軍の捕虜となった沖縄本島中南部の民間人を合わせ、10万人余が生活を共にしていた。
また、当時の本村地域に身を寄せた者の中には、戦災による怪我・マラリア等の病気・栄養失調によって亡くなった多くの方がいた。
なお、沖縄戦時、本村地域に収容されていた方に聞き取りすると、『私は収容所には入っていない。収容所は屋嘉(現在の金武町)にあった。』とか、村内外からの取材や問い合わせの際に『収容所はどこにありましたか?』など、「収容所」という言葉が「日本兵や犯罪者を収容する場所」や「構造物のような施設」を連想する方が多かった為、本稿では「宜野座村の民間人収容所」と表記すべきところ、より広い空間をイメージしてもらう目的で「宜野座村の民間人収容地(第1図)」としている。
第1図 沖縄戦時の宜野座村(数字は第1表を参照)(宜野座村立博物館所蔵)
第1表 沖縄戦時の宜野座村(各施設の位置は第1図を参照)
1 | 真平原共同墓地 |
2 | 真平原初等学校 |
3 | 古知屋第二共同墓地 |
4 | 岡野初等学校 |
5 | 診療所 |
6 | 配給所 |
7 | CP小屋 |
8 | 高松初等学校 |
9 | 炊事場 |
10 | 孤児院・養老院 |
11 | 古知屋第一共同墓地 |
12 | 古知屋高等学校 |
13 | 軍司令部 |
14 | 古知屋初等学校 |
15 | 古知屋市役所 |
16 | ブルシ原共同墓地 |
17 | 久原初等学校 |
18 | 大久保(宜野座第二)初等学校 |
19 | テント小屋 |
20 | 宜野座(第一)初等 学校 |
21 | ウーサク原共同墓地 |
22 | 警察署 |
23 | 産業課 |
24 | 憲兵隊の金網 |
25 | カンパン(収容所) |
26 | 憲兵隊事務所 |
27 | 配給所・炊事場 |
28 | 米軍クラブ |
29 | 後の配給所 |
30 | 米軍宿舎 |
31 | 裁判所 |
32 | 米軍宿舎 |
33 | 北部軍政府 |
34 | 宜野座病院 |
35 | 警察署 |
36 | 米軍作業用用具倉庫 |
37 | サプライ |
38 | 作業所 |
39 | 宜野座野戦病院 |
40 | 後の警察署 |
41 | 惣慶市役所 |
42 | 配給所 |
43 | 惣慶東初等学校 |
44 | 診療所 |
45 | 惣慶西初等学校惣慶中等学院 |
46 | シブタ原共同墓地 |
47 | 配給所 |
48 | 福山高等学校 |
49 | 福山第三校(初等学校) |
50 | 福山第一校(初等学校) |
51 | 福山第四校(初等学校) |
52 | 福山第二校(初等学校) |
53 | 孤児院 |
54 | 福山第五校(初等学校) 旧平松周辺・位置不明 |
55 | 福山共同墓地 |
56 | スンブク原共同墓地 |
57 | 診療所 |
58 | 配給所 |
59 | 憲兵隊本部 |
60 | 漢那東初等学校 |
61 | 漢那西初等学校 |
62 | 工務部 |
63 | 赤崎原共同墓地 |
64 | 漢那市役所 |
65 | 憲兵隊本部 |
66 | 衛生部 |
67 | 配給所 |
68 | 中川初等学校 |
69 | 警察署 |
70 | 労務事務所 |
71 | 銀原初等学校 |
昭和14(1939)年〜昭和19(1944)年、沖縄県は戦時に備え食糧増産を計画し、当時の金武村に開拓事業(自作農創設未開地開発事業)を実施した(第2表)。
同事業は国策(沖縄県振興開発計画)として莫大な資金(総工費は当時の115万円)を投入して進められ、現在の金武町(ブート岳の麓、キャンプハンセン内)を1工区・金武町中川と宜野座村城原を2工区・宜野座村福山を3工区・宜野座村字松田の高松を4工区とし、山間地にある村有地・字有地・個人有地を開拓している。
なお、開拓の荒起こし作業には25馬力の小型トラクター(写真1)が2台ほど投入されていた(後にトラクターは現在の那覇市小禄にあった「小禄飛行場」の構築で徴発)。
事業区の中でも2工区には開拓事務所が置かれ、天照大神を祭る神社が建立、昭和16(1941)年3月には日本の南方進出の開拓指導者を養成する機関として沖縄県立拓南訓練所が設立されている。
各工区の入植者の数は、2工区で当時の国頭村(6戸)・大宜味村(4戸)・名護町(1戸)・名護町許田(2戸)・久志村三原(1戸)・金武村城原(4戸)・金武村金武(8戸)・金武村銀原(2戸)・金武村伊芸(2戸)・恩納村(3戸)・読谷山村(7戸)・勝連村(13戸)・屋慶名(1戸)・与那城村(2戸)・平安座(1戸)・具志川村(4戸)・美里村東恩納(1戸)・美里村(1戸)・泡瀬(3戸)・西原村(1戸)・首里市(1戸)・那覇市(1戸)から計69戸(当初計画では70戸)、3工区で当時の名護町許田(2戸)・金武村宜野座(9戸)・金武村惣慶(2戸)・金武村漢那(3戸)・恩納村(3戸)・読谷山村(2戸)・越来村(1戸)・北谷村(7戸)から計28戸(当初計画では40戸)、4工区で当時の国頭村(1戸)・屋我地村(1戸)・金武村古知屋(13戸)・平安座(1戸)・中城村(1戸)・那覇市(1戸)から計18戸(当初計画では25戸)が入植した。
入植者には、4,500坪の土地・規格化された13.25坪のセメント瓦の木造家屋(住宅設計は懸賞つき一般公募、瓦は那覇で製作、建築材は椎・イジュ・松)(写真2)・薪炭林などが割り当てられ、各所には掘井戸が造られた。
また、沖縄県から僅かに落花生・蕎麦の種子・粟・キビなどの配給があり、防風林として相思樹の苗が配られていた。
同事業の当初は、土地が痩せて作物は育たなかったようだが、昭和17(1942)年から昭和19(1944)年の頃には入植者の努力によって作物が収穫できるようになり、芋・麦・キビ・小豆・えんどう豆などが育てられていた。しかし、昭和19(1944)年10月の十・十空襲の前後に軍の徴発が増え、開墾の取り組みは困難になっている。
その他、同事業の2工区では茶園が造られ、桑が良く育つ土地であった理由から養蚕も取り組まれていた。
入植者は、同事業によって得られた土地や建物等の代金から国補助(80%)を差し引き、取得から5年据置の20年で支払いする事になっていたが、沖縄戦によって開拓事業は断たれ、土地を巡る権利や義務関係も明確にされないまま戦後を迎えた為、財産の所有を巡って法廷での争いが起こっている。
写真1 金武開墾(2工区)の様子(1943年)
(宜野座村立博物館所蔵)
写真2 入植者の規格住宅(4工区)
(宜野座村立博物館所蔵)
太平洋戦争が始まると、国家による思想統制は集落の聖域である御嶽の信仰にまで及び、神祇院は各地のノロや根人ら集落の神事に関わる者を護国神社に集め、神主に仕立てる講習会を行って国家神道を広めた。
現在の漢那区公民館の周辺はユウアギモー(ヨリアゲ森)と呼ばれる集落の祖霊神(オラウセナデルヅカサノ御イベ)を祀り、ニライカナイの神(真南風ノワライヅカサノ御イベ)を遥拝する御嶽で、1713年に琉球王府が編纂した『琉球国由来記』にも記載されている。
昭和13(1938)年、ユウアギモーには海外在住者の寄付等によって神殿が建てられ、氏神を祀って以降は「お宮」と呼ばれるようになり、漢那から出征する兵士が武運長久を祈願していた(写真3)。
現在の惣慶区公民館の背後にあるオキナワウラジロガシやマツ等が茂る丘は、集落の祖霊神を祀る御嶽(マチョウガマノ嶽・アラハタヨリフサノ御イベ)であり、1713年に琉球王府が編纂した『琉球国由来記』にも記載されている。
元々、当地は惣慶の「ウガン所」とも称されていたが、昭和17(1942)年2月27日、那覇市の波の上宮よりイザナミノミコト・ハヤタマオノミコト・コトサカオノミコトの三神を勧請して神殿に祀って以降は「お宮」と呼ばれるようになり、惣慶から出征する兵士が武運長久を祈願していた(写真4)。
このような集落の聖域である御嶽と国家神道のお宮を合わせた拝所は、現在も宜野座村の漢那と惣慶に残っている。
写真3 漢那のお宮(1938年)
(宜野座村立博物館所蔵)
写真4 惣慶のお宮(現代)
(宜野座村立博物館所蔵)
教育勅語は、明治23(1890)年に発布され、忠君愛国の精神が学校教育の基本であることを示したものである。
なお、当時の学校にあった御真影室や奉安殿(写真5)には、御真影(天皇・皇后陛下の写真)と教育勅語が納められており、校長は命がけで御真影と教育勅語を守る義務を負わされていた。
また、日本全国の学校で式典の際には必ず奉読することが定められ、天皇(皇室)のため、これに随従する臣民を形成することを目的とする皇民化教育の最も象徴的な要素として活用されたといわれている。
太平洋戦争の終結後、教育勅語は新憲法の趣旨に合わないという理由から昭和23(1948)年の国会で破棄が決定し、全国的に処分された為、現存する資料は僅かとなっている。
宜野座村立博物館には、松田小学校の初代校長の御子息によって寄贈された「教育勅語(謄本)」が所蔵されている(写真6)。
初代校長は、昭和19(1944)年、那覇の久茂地国民学校で校長代理をしていたが、十・十空襲により名護の稲嶺国民学校に御真影と教育勅語を携えて避難し、その後、防衛隊に召集されたが、御真影と教育勅語を守る義務から兵役を免除された。また沖縄戦時の昭和20(1945)年、山原(沖縄本島の北部)に避難する途中で米軍の捕虜となり、現在の宜野座村に設けられた民間人収容地に入っている。沖縄戦後も本村に留まり松田小学校の初代校長を引き受け、故郷に帰った後も教育勅語を護り続けて80年の生涯を終えた。
村立博物館では、初代校長とその御子息の想いを引き継ぎ、寄贈された教育勅語(謄本)を修復した上で保管・展示している。
写真5 美里尋常小学校跡の奉安殿
(宜野座村立博物館撮影)
写真6 教育勅語(謄本)
(宜野座村立博物館所蔵)
昭和19(1944)年10月10日、米軍の空襲により那覇の90%が焼土と化し(十・十空襲)、同年の11月30日には宜野座村地域にも米軍の偵察機が飛ぶようになった。
沖縄県は、60歳以上の老人と国民学校以下の児童の約十万人を沖縄本島の中南部から北部へ疎開させる計画を立てる。
しかし、沖縄県の人口課が住民避難の業務を始めたのは沖縄戦の直前となる昭和20(1945)年2月であった為、実際に中南部から北部に避難できたのは約3万人といわれている。なお、本村地域は南風原村・大里村・玉城村・豊見城村の避難地に割り当てられていた(写真7)。
避難民を受け入れた市町村では、急激に増えた住民の食料を確保する事が課題となっていたが、名護の東江国民学校に置かれた業務を所管する事務所は、市町村に避難民を割り当てたのみだった為、集落の各家庭が自宅の一部を提供または小屋を作って避難民の住居を確保し、乏しい食料も避難民と分け合っていた。
昭和20(1945)年3月23日、米軍の艦砲射撃や空襲が激しさを増した為、本村地域の人々は自然の洞穴・壕・山に用意した簡易的な小屋に避難するようになる。なお、漢那では3月26〜27日の空襲によって全123戸のうち47戸が焼失し、豚や山羊の被害も推定50〜60頭に及んでいる。
写真7 戦争難民であふれた村
(宜野座村立博物館所蔵)
昭和20(1945)年4月5日、宜野座村地域に侵攻した米軍第6海兵師団は各所に収容地を設け(写真8〜9)、沖縄本島の中南部で捕虜とした民間人を本村地域に移送した(写真10〜11)。
写真8 古知屋岳と高松原の収容地
(宜野座村立博物館所蔵)
写真9 収容地のテント
(宜野座村立博物館所蔵)
写真10 米軍に輸送される民間人捕虜
(宜野座村立博物館所蔵)
写真11 海上輸送される捕虜(字漢那)
(宜野座村立博物館所蔵)
その頃、地元の人々や戦争前に避難してきた人々は自然の洞穴・壕・山に用意した簡易な小屋に避難していたが、5月中旬から6月下旬には自主的または米軍の山狩りによって集落に戻っていった為、本村地域は地元の人々・戦争前に避難してきた人々・沖縄本島中南部で米軍の捕虜となった民間人で、人口が10万人余にまで膨れ上がった(第2表)。
地元の人々が避難していた山から集落に戻ってみると、自宅が米軍の捕虜となった中南部の民間人(50〜70人位)に占拠されていた為、仕方なく米軍が用意したテントで暮らした方もいた(写真12)。
写真12 戦争難民が自宅を占拠
(宜野座村立博物館所蔵)
5月中旬、米軍は治安維持を目的に市制を敷き、本村地域の潟原・古知屋・前原・兼久は「古知屋市」、高松(開拓事業の4工区)は「高松市(古知屋市と合わせて約34,000人)」、宜野座・大久保・メーナッコ(かつて宜野座ダム付近にあった集落)は「宜野座市(約13,000人)」、惣慶は「惣慶市(約12,000人)」、福山(開拓事業の3工区)は「福山市(約14,000人)」、漢那・安仁堂(かつて漢那福地川上流の山間地にあった集落)・城原・中川(開拓事業の2工区)は「漢那市(約30,000人)」になった(第2〜3表)。
また、収容地には市役所・区役所・憲兵隊・警察署・裁判所・病院・診療所(写真13)・住居・配給所(米・コンビーフやトウモロコシ等の缶詰・スープ・馬鈴薯・チーズ・バター・油・メリケン粉・シャツやズボンの衣類などを配給)・学校(写真14)・孤児院(写真15)・養老院・水場・共同墓地(写真16)等が設けられた(第1図)。
写真13 収容地の診療所(字漢那)
(宜野座村立博物館所蔵)
写真14 収容地の学校
(宜野座村立博物館所蔵)
写真15 大久保孤児院の少年
(宜野座村立博物館所蔵)
写真16 収容地の共同墓地
(宜野座村立博物館所蔵)
本村地域に収容された人々は、米軍の指示によって住居づくり・芋の植え付け・食料調達・洗濯婦・便所掃除・埋葬(写真16)等の作業に従事し、報酬としておにぎりや缶詰などの食料を得ていた。
しかし、地区によっては急激な人口増や様々な要因により食料不足となっていた為、収容者の自由な移動が制限される中、食料を求めて収容地を越境する者も多かったようである(写真17〜18)。
写真17 食料を求めて収容地を越境
(宜野座村立博物館所蔵)
写真18 収容地の食料格差
(宜野座村立博物館所蔵)
昭和20(1945)年6月、米軍は現在の宜野座小学校の周辺に野戦病院を設置した(第1図)。
テント張りに寝台を置いただけの病棟には、戦場である沖縄本島の中南部で捕虜にした民間人(老人・婦人・子供など)が収容され、怪我や病気の治療が施されていた。
野戦病院に収容された患者には、戦場で負った怪我で破傷風になった者や火傷を負った者・栄養失調で弱った者・マラリア等の病気になった者がいた。また、病院では1日2回の食事も出たが、十分な量はなく衰弱して亡くなる方もいた。
この様に、沖縄戦時の本村地域では1日に15名程が亡くなったが、多い日には32名が亡くなる事もあり、遺体は野戦病院の死体安置所に2〜3日ほど置かれた後、各地の共同墓地に埋められた(写真16)。
なお、当時の宜野座村地域には野戦病院の他にも軽度の患者に対応する診療所が設けられ(写真13)、10月には現在の宜野座高等学校の周辺に専門の医療スタッフを有する「宜野座病院」が設置されている(第1図)(第1〜2表)。
写真19 福山共同墓地の死亡者名簿
(宜野座村立博物館所蔵)
沖縄戦時の宜野座村地域では、戦争による怪我・栄養失調・マラリア等の病気によって多くの方が亡くなり、9箇所の共同墓地などに埋葬された(第1図)(写真16)。
本村地域に収容された者の多くは老人・婦人・子供であり、日本兵や働き盛りの若い男性の多くは屋嘉収容所(現在の金武町)に収容されていた為、墓穴を掘る作業は老人や子供が主体となっていた。
埋葬の際、米軍は一つの墓穴に一人を埋めるように指示していたようであるが、作業は収容者である老人や子供が行っていた為、日々、運ばれてくる遺体の量に間に合わず、仕方なく1つの墓穴に2人以上(多い場合には4〜5人)を埋める事もあった。
本村地域で亡くなった方の多くは老人・婦人・子供であり、遺体は担架で運ばれ、毛布が被せられていたが、埋葬する際には遺体から毛布をとっていた。
本村の指定文化財(歴史資料)である「古知屋共同墓地」および「福山共同墓地」の「死亡者名簿」(写真19)には、合計で1,029名の埋葬者が記載されており、昭和58(1983)年6月15日〜7月24日に宜野座村が実施した「シブタ原共同墓地」の遺骨収集では、当時の住民課(援護係)・村教育委員会(文化財係)・企画室(村誌準備委員会)が連携して取り組んだ結果、161柱の遺骨が確認されている(写真20)。
シブタ原共同墓地の遺骨収集によって確認された墓穴の中には、埋葬者の身元がわかるように目印を入れたコーラの瓶や名前を記した墓標が確認されているが(写真21)、一つの墓穴に2体以上が埋葬されていた為、身元の特定には至らず、糸満市摩文仁にある国立沖縄戦没者墓苑に納骨された。
写真20 共同墓地の遺骨収集(1983年)
(宜野座村立博物館所蔵)
写真21 シブタ原共同墓地の墓標
(宜野座村立博物館所蔵)
しかし、シブタ原共同墓地の遺骨収集では、考古学の発掘調査の手法を用いて墓地の状況が記録された為、戦没者の遺骨収集の枠を超え、沖縄戦時、米軍の民間人収容地に設けられた共同墓地の実情を後世に伝えている。
その後、本村では昭和62(1987)年に刊行された『宜野座村誌 第2巻』に戦争体験者の証言をまとめ、平成25(2013)年には『福山の避難壕』で戦争遺跡を扱った発掘調査の報告書を刊行し(写真22)、近年は(公財)沖縄県平和祈念財団と沖縄戦時の共同墓地について情報を共有している(写真23)。
写真22 福山の避難壕(2013年)
(宜野座村立博物館所蔵)
写真23 平和祈念財団と下袋原共同墓地の聞き取り調査(宜野座村立博物館所蔵)
護郷隊とは、沖縄戦に参加した遊撃隊の秘匿名で、第3遊撃隊は「第1護郷隊」、第4遊撃隊は「第2護郷隊」と称され、大本営から派遣された陸軍中野学校出身の将校が隊長、現地召集した在郷軍人が幹部、徴兵適齢前の青年の隊員で編成された秘密部隊であった。
第1護郷隊(隊長 村上治夫大尉)は沖縄本島北部のタニヨ岳、名護岳、久志岳、乙羽岳(本部半島)、第2護郷隊は恩納岳、石川岳地区に拠点を置き、交通線の爆破や米軍施設の夜間の斬り込み等の後方撹乱を任務としていたが、時には私服で民間人に偽装して敵地の偵察なども行っていた。
昭和19(1944)年の十・十空襲の以後、現在の宜野座村の出身者が名護(第三高等女学校)に集められ、護郷隊の召集を受けた(23名)。召集を受けた者の中には、防空壕を掘るという理由で集まり、そのまま軍事訓練を受けた方もいた。
護郷隊の訓練は、名護・羽地・本部の国民学校、為又、多野岳、宜野座大川(現在の宜野座福地川)のウーシグムイ等で、軍人勅諭や五カ条の御誓文の暗記・歩哨訓練・昼夜兼行訓練・攻撃訓練・小銃での射撃訓練(弾薬不足により1発しか撃てない)・爆破訓練・衛生訓練(注射打や傷の応急処置など)・通信訓練(暗号解読など)・隊の陣地(壕)づくりを行っていた。
なお、護郷隊の装備は、銃(5発入の九九式)・軽機関銃・擲弾筒・ダイナマイト・銃剣・竹槍・通信機(後に交信が米軍に傍受される事となり、山中に埋められる)などがあった。
訓練の後、本村の出身者は当時の金武村の方が多く所属していた第3遊撃隊(第1護郷隊)の第四中隊(中隊長 竹中素少尉・第一小隊長 仲田誠市・第二小隊長 平田勘助・第三小隊長 伊芸光和)に配属され、米軍の上陸後は辺野古・久志・古知屋・漢那で米軍施設の破壊活動に従事していた(写真24)。
やがて、護郷隊は恩納岳・八重岳・多野岳などの拠点が米軍の集中攻撃を受けて多くの死傷者を出し、日本の降伏後、本部で米軍に投降した。なお、護郷隊に配属された本村の出身者のうち5名が戦死(第三小隊長 伊芸光和ほか)や行方不明(第一小隊長 仲田誠市)になっている。
写真24 米軍を襲撃する護郷隊
(宜野座村立博物館所蔵)
昭和20(1945)年9月25日、地方行政緊急措置要綱により宜野座村地域で市長選挙が実施され、古知屋市と高松市が合併して新たに「古知屋市(約34,000人・市長 金城増太郎)」、宜野座市・惣慶市・福山市が合併して新たに「宜野座市(約39,000人・市長 安里源秀)」、現在の宜野座村の漢那・城原と金武町の中川を範囲とする「漢那市(約30,000人・市長 新垣実)」となった(第2表)(写真25)。
しかし、昭和20(1945)年10月には本村地域に収容された者の帰郷が許され(その中でも壺屋の陶工は優先)、人口は急激に減少する事になり(10月10日の本村地域の人口は83,891人・12月の人口は約75,000人まで減)、12月6日には古知屋市・宜野座市・漢那市が宜野座地方事務所に統合される事になる(第2表)。
また、昭和21(1946)年1月には北部軍政府が廃止され、2月11日、その跡地に久志・古知屋・惣慶・福山・中川の学校が統合されて、現在の宜野座高等学校が創立した(第2表)。
そして、昭和21(1946)年4月1日、金武村から古知屋(現在の松田)・宜野座・惣慶・福山・漢那・城原が分村し、宜野座村(18,540人・村長 森山徳吉)が誕生した(第2表)。
写真25 収容地に敷かれた市政
(宜野座村立博物館所蔵)
宜野座村立博物館では、地域に残る伝説・昔話・歴史・芸能・実話・戦争体験を題材とした紙芝居を制作し、博物館の案内や館外での文化財巡り、学校での平和講演会で実演している(写真26〜27)。
今後も宜野座村の沖縄戦について、文化財調査の成果を踏まえ、企画展や常設展の充実を想定した紙芝居を制作し、博物館での紙芝居の実演だけでなく、館外の文化財巡り等や平和講演会で紙芝居を活用する事で、沖縄戦の記憶の継承に努めていく。
写真26 宜野座中学校 戦跡めぐり
(宜野座村立博物館所蔵)
写真27 宜野座小学校 平和学習
(宜野座村立博物館所蔵)
第2表 沖縄戦・宜野座村の民間人収容地 歴史年表
開戦前夜 | |
---|---|
1939年(S14)〜1944年(S19) | 県は自作農創設未開地開発事業を実施し、本村地域の城原(2工区)・福山(3工区)・高松(4工区)を開拓した。その目的は、戦争の長期化に備えた食糧の増産ともいわれる。入植者には土地(約4,500坪)・セメント瓦の規格住宅(約13坪)・薪炭林・掘井戸等が用意され、国補助(80%)を差引いた代金を5年据置の20年で支払う事になっていた。 |
1944年(S19)10月 | 10月10日、空襲により那覇の9割が焦土と化す。その頃、惣慶の人々が山に避難小屋や壕を造りはじめる。 |
1944年(S19)11月 | 11月30日、米軍の偵察機が本村地域の上空を飛ぶようになる。 |
1945年(S20)2〜3月 | 沖縄県は中南部から北部へ民間人10万人を避難させる計画を立て、本村地域は南風原村・大里村・玉城村・豊見城村の受け入れ地となる(実際に沖縄本島の北部に疎開できたのは約3万人)。当時、急激な人口増による食糧不足が深刻な問題となった。 |
1945年(S20)3月 | 惣慶の人々が山に準備した避難小屋と壕に避難する。宜野座の人々が宜野座福地川中流の走川(ハイカー)に避難小屋と壕を造る。漢那・城原の人々が山に避難小屋を造る。 |
3月26〜27日、米軍による空襲が激しくなり、漢那が集中攻撃を受ける。全戸数123戸のうち47戸が焼失し、豚や山羊の被害も推定50〜60頭に及ぶ。 | |
米軍の侵攻 | |
1945年(S20)4〜6月 | 米軍第6海兵師団、宜野座村地域に侵攻する。4月5日、ニミッツ布告によって占領と同時に夜間外出や乗物の禁止等を日本語で記した立看板が設置される。 |
4月6日、洞穴に避難していた古知屋の人々や同地に疎開していた南風原の人々が、米軍の民間人収容地に入る。その頃、山に避難していた城原の人々は飛行機から散布された投降のビラを確認し、3日後には米軍の民間人収容地に入る。5月中旬、宜野座の人々が山の避難小屋から集落へ戻る。5月11日および6月23日、米軍によって惣慶の人々が山の避難小屋から集落へ戻る。6月25日、米軍によって漢那の人々が山間地の安仁堂から集落へ戻る。 | |
米軍の民間人収容地(その1) | |
1945年(S20)5月 | 米軍は、地元の者・戦争前に沖縄島の南部から避難してきた者・捕虜となった沖縄島の中南部の民間人を収容地に入れ、地方行政緊急措置要綱により市制を敷く(古知屋市・高松市・宜野座市・惣慶市・福山市・漢那市の設立)。 |
現在の宜野座小学校に宜野座野戦病院が設けられる。 | |
1945年(S20)6月 | シブタ原共同墓地が設けられ、宜野座野戦病院から埋葬される遺体が1日に14〜32体ほど運ばれる。 |
護郷隊、漢那に駐屯する米軍に夜襲をかける。 | |
6月12日、古知屋区長ほか2名が山に隠れる護郷隊に食糧を補給する際、米軍に射殺される。 | |
古知屋に5校(真平原・岡野・高松・古知屋・久原)、宜野座に1校(宜野座)、福山に5校(福山第1〜5)、惣慶に2校(惣慶東・惣慶西)、漢那に2校(漢那東・漢那西)、中川に1校(ギン原)の初等学校が設けられる。 | |
6月31日、古知屋共同墓地の死亡者名簿の記名が始まる。 | |
古知屋診療所が設けられ、重傷ではない患者を診察する。 | |
高松に配給所や診療所が設けられる。 | |
宜野座に大久保初等学校が設けられる(8月9日には閉校)。 | |
1945年(S20)7月 | 米軍が宜野座国民学校(現:宜野座高等学校)に北部軍政府を設置する。 |
米軍によって、福山に沖縄島の中南部から大勢の避難民が送りこまれる。 | |
福山の診療所が設けられる。 | |
7月16日、福山共同墓地死亡者名簿の記名が44番より始まる。 | |
米軍が宜野座村地域の山岳地帯の掃討作戦を完了する。 | |
ギン原初等学校が城原に移り、中川初等学校となる。 | |
米軍の民間人収容地(その2) | |
1945年(S20)8月 | 惣慶のお宮の広場に惣慶中学院が設けられ、男女200名程で授業が行われる。 |
8月13日、選挙によって惣慶市が誕生する(市長:新里善助)。 | |
この頃の宜野座村地域の人口は約103,000人(古知屋市および高松市34,000人・宜野座市13,000人・惣慶市12,000人・福山市14,000人・漢那市・30,000人)といわれている。 | |
1945年(S20)9月 | 古知屋と岡野に診療所が設けられる。 |
台風により、多くの避難民が死亡する。 | |
宜野座野戦病院の機能が宜野座病院(現:宜野座高等学校)に移る。 | |
9月20日、地方行政緊急措置要綱により、古知屋市・宜野座市・漢那市で市議選が実施される。 | |
9月25日、地方行政緊急措置要綱により、市長選挙が実施される。 | |
9月25日、古知屋市と高松市が統合、新たに古知屋市(市長:金城増太郎)となる。 | |
9月25日、宜野座市・惣慶市・福山市が統合され、新たに宜野座市(市長:安里源秀)となる。 | |
9月25日、漢那市が設立される(市長:新垣 実)。 | |
1945年(S20)10月 | 大型台風により米軍の食糧船が沈没、食糧不足で多くの避難民が死亡する。 |
避難民に帰郷が許され、民間人収容地の生活が終わりに近づく。 | |
松田シリガー原の共同墓地(古知屋第一)での埋葬が終わり、長門原共同墓地(古知屋第二)の埋葬に移る。 | |
10月20日、宜野座市の避難民の帰郷について話し合われる。移動順は、宜野座・惣慶・福山で行われ、移動先は糸満・知念・胡差・前原・石川・宜野座・久志・田井等・慶良間の地区に分けられる。 | |
1945年(S20)11月 | 11月3日、久原初等学校が古知屋初等学校に統合され、高松初等学校が岡野初等学校に統合される。 |
1945年(S20)12月 | 古知屋市・宜野座市・漢那市の人口が約75,000人となる。 |
12月2日、古知屋共同墓地死亡者名簿の記録は、この日まで確認できる(426柱)。 | |
12月6日、古知屋市・宜野座市・漢那市を統合し、宜野座地方事務所が置かれる。 | |
1946年(S21)1月 | 米軍の北部軍政府が廃止になる。 |
1月26日、古知屋市長から診療所の保健婦に給与が支払われる。その頃から宜野座村地域の各市の職員にも賃金が支払われるようになる。 | |
1946年(S21)2月 | 米軍の北部軍政府の跡地に久志・古知屋・惣慶・福山・中川の学校が統合され、宜野座高等学校が設けられる。 |
1946年(S21)4月 | 宜野座村地域に収容されていた戦争難民の8割が帰郷する。 |
4月1日、金武村から松田(旧古知屋)・宜野座・惣慶・福山・漢那・城原の4字6区が分村し、宜野座村(村長:森山徳吉)が誕生する。 | |
1946年(S21)8月 | 8月21日、福山共同墓地の死亡者名簿の記録は、この日まで確認できる(603柱)。 |
沖縄戦後の遺骨収集など | |
1965年(S40) | 古知屋第一共同墓地で琉球政府による遺骨収集が実施されたという(詳細は不明)。 |
1983年(S58) | 宜野座村がシブタ原共同墓地で遺骨収集を実施し、161柱が確認される。 |
1987年(S62) | 3月30日、宜野座村誌(第二巻 移民・開墾・戦争体験)が刊行される。 |
2014年(H26) | NPO法人ガマフヤーが下袋原共同墓地の周辺より墓標を発見する。以後、宜野座村教育委員会と沖縄県平和祈念財団の間で、沖縄戦時の共同墓地について情報を共有している。 |
第3表 沖縄戦前後の宜野座村地域の変遷
金武村 | 開戦前 | 戦時中 | 戦後の始まり | 宜野座村 | |
1909〜1945年 | 1939年〜1945年3月 | 1945年4月〜9月24日 | 1945年9月25日〜12月23日 | 1945年12月24日〜1946年3月31日 | 1946年4月1日 |
古知屋 | 潟原 古知屋 前原 兼久 |
古知屋市 | 古知屋市 (約34,000人) (市長 金城増太郎) |
宜野座地方事務所(金武村) | 松田 (旧:古知屋) 宜野座 |
高松 (開拓事業:4工区) |
高松市 | ||||
宜野座 | 宜野座(村・古島) 大久保 メーナッコ |
宜野座市 (約13,000人) |
宜野座市 (約39,000人) (市長 安里源秀) |
惣慶 福山 漢那 城原 |
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惣慶 | 惣慶 | 惣慶市 (約12,000人) |
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福山 (開拓事業:3工区) |
福山市 (約14,000人) |
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漢那 | 漢那(村) 安仁堂 城原 (開拓事業:2工区) |
漢那市 | 漢那市 (約30,000人) (市長 新垣実) |
情報提供:宜野座村教育委員会教育課(宜野座村立博物館)