昭和19(1944)年5月以降に沖縄本島地区に第24師団・第62師団・独立混成第44旅団、宮古島地区に第28師団・独立混成第59旅団・独立混成第60旅団、石垣地区に独立混成第45旅団、奄美地区に独立混成第64旅団が配備された。
喜舎場校区(現・北中城村)には、その年の8月半ばに有川主一少将率いる第62師団歩兵第64旅団が喜舎場国民学校を拠点に各集落へ移駐してきた。
部隊の移動というのは、軍隊にとって最高の軍事機密だったので、兵士はもとより移駐先の住民にも知らされていなかった。しかも機密保持のために夜間の移動が主であった。したがって、北中城村に日本軍が移駐してきたときもその例にもれず、住民が夜中に突然、軍馬のいななきなどで目覚めて外へ出たら、道路一面に疲労困憊状態で横たわっている大勢の兵士を目撃した。それが、最初の日本軍部隊との接触であった。
さっそく、女性たちによる炊き出しが始まると同時に村の有力者と日本軍部隊との間で兵士たちの寄宿先を割り当てていった。各集落の倶楽部(現在の公民館)をはじめ、瓦葺き・竹葺きの民家が指定されていった。指定先のそれぞれの家の一番座、二番座を兵士が寝泊まりに使用し、家人は台所、土間、裏座などで起居することになり、それぞれの集落は、軍民雑居(同居)状態になっていった。
部隊兵士の炊事場も、民家に割り当てられ、アシャギ(離れ座敷)なども部隊の糧秣倉庫として使用された。
喜舎場国民学校敷地に軍馬がつながれていたり、倶楽部には住民が供出した芋などが積まれたりしていた。校舎も兵士たちが占有したので、倶楽部や大きな民家・アシャギを教室代わりに使用していった。そしてまもなく住民は、日本軍陣地の壕掘り作業に駆りだされた。
その後、独立混成第44旅団独立混成第15連隊(美田大佐)が配置されたが移動し、昭和20(1945)年4月の米軍上陸時には第62師団独立歩兵第12大隊(賀谷中佐)が配置されていた。
昭和20(1945)年2月10日、ヤンバル疎開の指示をうけ、中城村(戦後、北中城と中城に分離)は久志村(現・名護市)の安部、嘉陽、三原(嘉陽又)、天仁屋へ疎開先を割り当てられた。熱田は天仁屋以外にも有津、底仁屋にも割り当てられた。疎開には、馬車が通れる地点まではそれを使い、後は3日間もかけて徒歩で目的地をめざした。
3月23日の彼岸は春季皇霊祭ということで国民学校は休みだったが、教師は出勤していた。卒業式は25日ということであった。ところが、朝突然空襲警報のサイレンが鳴り出し、まもなくグラマン機による空襲が始まった。以後、連日空襲が続き艦砲射撃も加わった。
米軍の上陸前空襲が開始されるや村民は、防空壕と自宅を恐怖の中を日夜行き来するようになった。日中は、防空壕に潜んで、夜になると食料の調達で自宅に戻っていったのである。また、まだ村内に残っている男女とも若者たちが、軍の命令によって義勇隊に召集されていった。
3月28日には、東海岸沿いの熱田、和仁屋、渡口集落が米軍機の空爆で廃墟となった。
4月1日、読谷・北谷海岸から米軍の上陸が始まり、北中城村への本格的な進攻は2日から始まった。そして3日には北中城村の海岸を南下し中城村久場先を占領している。以後、米軍は沖縄本島南部へと兵を進めていった。
村内には一時的な収容所が設けられた。島袋収容所と安谷屋収容所、喜舎場収容所である。南部で保護した住民を一時収容し、北部の収容所へ送った。
(北中城村史 第四巻 『戦争・証言編一』 P10,11より抜粋、一部加筆修正)
部落名 | 戦没人数 | 戦没率 | 戦没地 | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
県内 | 県外 | 外地 | 海上 | 不明 | |||||||
村内 | 島尻郡 | 中頭郡 | 国頭郡 | その他 | |||||||
喜舎場 | 161 | 23.2% | 13 | 43 | 29 | 4 | 1 | 15 | 43 | 3 | 10 |
仲順 | 99 | 24.6% | 9 | 45 | 8 | 3 | 1 | 1 | 21 | 5 | 6 |
熱田 | 351 | 26.7% | 40 | 122 | 31 | 16 | 38 | 10 | 73 | 10 | 11 |
和仁屋 | 88 | 23.7% | 19 | 29 | 10 | 2 | 2 | 7 | 16 | 0 | 3 |
渡口 | 148 | 36.0% | 14 | 60 | 5 | 8 | 27 | 2 | 23 | 0 | 9 |
島袋 | 232 | 24.7% | 34 | 51 | 9 | 25 | 17 | 10 | 78 | 7 | 1 |
比嘉 | 47 | 14.9% | 6 | 14 | 3 | 4 | 0 | 1 | 17 | 0 | 2 |
屋宜原 | 117 | 28.6% | 3 | 56 | 3 | 3 | 8 | 4 | 34 | 4 | 2 |
瑞慶覧 | 124 | 28.0% | 51 | 24 | 8 | 0 | 6 | 5 | 28 | 2 | 0 |
大平 | 65 | 27.4% | 5 | 21 | 4 | 13 | 1 | 3 | 14 | 3 | 1 |
石平 | 118 | 27.9% | 18 | 21 | 3 | 4 | 38 | 3 | 26 | 5 | 0 |
安谷屋 | 265 | 33.2% | 14 | 126 | 34 | 11 | 17 | 6 | 47 | 4 | 6 |
荻道 | 97 | 29.6% | 20 | 16 | 7 | 1 | 9 | 3 | 37 | 1 | 3 |
大城 | 166 | 41.9% | 25 | 56 | 10 | 12 | 12 | 2 | 41 | 0 | 8 |
合計 | 2,078 | 27.8% | 271 | 684 | 164 | 106 | 177 | 72 | 498 | 44 | 62 |
(北中城村史 第四巻 『戦争・証言編一』 P13より抜粋)
北部の収容所(久志村・宜野座村地域)から解放された北中城村住民は自分の住んでいた部落へ帰る際、喜舎場や安谷屋で仮住まいして各部落へ先遣隊を送り標準家屋(規格住宅)を造って各部落へ戻った。
米軍基地に接収され自分の部落に帰れない住民は、接収されていない部落内に住んだり村内の他部落に住んだり、他市町村に移り住んだりすることになった。
北中城村は沖縄戦までは中城村の一部であった。だが沖縄戦の後、村中央部に米軍施設が置かれ行政の執行に支障をきたしたことから、昭和21(1946)年5月20日に中城村の北側にあった行政区が分離して「北中城村」が誕生し、喜舎場に村役場が置かれた。
(北中城村史 第四巻 『戦争・証言編一』 P11より抜粋、一部加筆修正)
北中城村では昭和57(1982)年5月3日に地球上からの核廃絶を求め「北中城村非核宣言」を行った。翌年、草の根平和運動団体「平和を守る北中城村民の会」を結成し、村民の平和に対する意識の高揚及び平和運動を展開している。
また、北中城村には五基の慰霊の塔が建立され、各自治会による慰霊祭が実施されている。
参考文献
『北中城村史 第四巻 戦争編』 北中城村役場 2010年
防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』 朝雲新聞社 1968年
『北中城村 村勢要覧2012』 北中城村役場 2012年
情報提供:北中城村教育委員会生涯学習課