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中城村における戦災の状況(沖縄県)

1.戦災の概況

 米軍により南洋諸島が次々と攻略され沖縄への侵攻の可能性も高まってきたことから、昭和19(1944)年3月22日に南西諸島防衛のため第32軍が新設され、逐次戦力強化が行われた。同年8月21日、中城村にも第62師団隷下の独立歩兵第12大隊が駐屯し、津覇国民学校に本部が置かれた。

 中城村が初めて受けた戦禍は、米軍が沖縄本島上陸前に行った昭和20(1945)年3月23日の米軍艦載機による空襲によるものであった。翌24日には米艦隊の艦砲射撃も開始され、村内は砲爆撃により大きな被害を受けた。

 4月1日、沖縄本島中部西海岸の読谷村から北谷村にかけて米軍が上陸し、早くも4月3日には中部東海岸の中城村字久場に達し、中城村における戦闘が開始された。中城村の地形は西側が丘陵地、東側の沿岸部が平地となっており、このような地形的条件から侵攻してきた米軍第7師団は、丘陵地と平地に部隊を分けて南下を開始した。4月5日から6日にかけては、日本軍の主陣地帯(宜野湾市大謝名―中城村和宇慶)の前進陣地として構築された北上原の161.8高地を巡って両軍による激戦が展開された。同じ5日には主陣地帯の西側を構成する伊集・和宇慶の陣地群での戦闘が始まり、同所が米軍に占領される4月20日から23日まで戦闘が続けられた。

 なお、沖縄戦当時の中城村は、現在の北中城村も含むが、本稿では現在の中城村域における戦災のみを記述する。

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2. 地域住民生活の状況

○日本軍の駐屯

 昭和19(1944)年8月21日、中城村に独立歩兵第12大隊が駐屯し、津覇国民学校に本部を置いたため、児童は各集落の公民館で授業を受けることになった。村内各地域の民家も兵舎や弾薬庫などとして使用され、国民学校の上級生や地域住民は陣地構築に動員されるなど、住民の日常生活が影響を受けるようになった。

○学童疎開

 昭和19(1944)年8月下旬には中城国民学校と津覇国民学校の児童・引率教員等約200人が熊本県に疎開した。2年余りも親から引き離された子ども達は、彼の地において空腹や寂しさなどつらい思いをしたが、引率者の努力や熊本の方々の協力もあり、昭和21(1946)年10月頃にはほとんどの疎開者が無事帰村することができた。

○沖縄本島北部への疎開

 昭和20(1945)年2月、一般住民の沖縄本島北部への疎開が開始された。当初は疎開の動きは鈍かったが、米軍の艦砲射撃が開始されると北部への避難者が増加した。

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3. 戦災の状況

 昭和20(1945)年3月23日の米軍艦載機の空襲から、村内での日本軍の組織的地上戦が終了する4月23日までの間に、中城村のほぼ全域が焦土と化し、戦闘前までの自然豊かな農村の風景は一変してしまった。

 人的被害も大きく、村内で亡くなった人はもちろんのこと、激戦地となった南部に避難した人や北部の疎開先で食糧不足やマラリアなどにより亡くなった人など村外で亡くなった人も含めると、沖縄戦で犠牲となった村民は4,300人余りにも上る。

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4. 復興のあゆみ

○収容所からの復興

 米軍の捕虜となった村民は県内各地の収容所に送られたが、敗戦の翌年の昭和21(1946)年1月には当間に村内最初の収容所が建設され帰村が始まった。その後、村内各所に収容所が建設され、同年末までには米軍の接収地以外への帰村がほぼ完了した。帰村者が最初に行ったのは、荒廃した土地を耕して畑を作ることで、これが復興の第一歩となった。

 また、同年1月26日に中城初等学校、3月10日には津覇初等学校が開校するなど、比較的早い時期から教育も再開された。

○県外・国外からの引揚

 米軍は沖縄戦の最中、久場に物資を揚陸する浮桟橋と兵舎を建設した。戦後、その施設は県外・国外からの引揚者収容所として利用され、昭和21(1946)年8月から12月までの間に数万人が桟橋に上陸し、一時的に収容されたあと各出身地に帰還していった。その後、収容所跡は米人子弟が通う久場崎ハイスクールとして昭和56(1981)年に返還されるまで使用された。

○分村

 沖縄戦前までの役場は、当時の中城村(現在の中城村と北中城村の両村域)の中央に位置する中城城跡にあった。沖縄戦が始まって間もなく久場や中城城跡一帯に米軍施設が造られ戦後もその状態が続いたため、村が南北に分断される形となってしまった。そのため元の場所に役場を建てることができず、南地域の当間に役場仮事務所を置いたところ、北地域の住民から行政上の不公平が出るため分村すべきとの意見が上がった。昭和21(1946)年5月13日、南北両地域の代表者からなる分村協議会が設置され協議を行った結果、分村はやむを得ないという結論になり、沖縄民政府に分村の申請を行い、同年5月20日付けで許可を受けて中城村と北中城村が分村するに至った。

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5. 次世代への継承

 中城村は沖縄戦により多くの人命が奪われ、のどかな農村風景も灰燼に帰してしまった。

 二度とこのような過ちを繰り返してはならないという平和への思いを次世代に継承していくため、中城村では下記のような取り組みを実施している。

○沖縄戦に関する冊子の発刊

 凄惨な戦争の実相を記録として残すため、平成2(1990)年に沖縄戦体験者の証言を収録した『中城村史』第4巻戦争体験編を発刊した。戦後75周年を目前にした令和元(2019)年度には、村民に改めて沖縄戦に目を向け平和の大切さを考えてもらうことを目的としたガイドブック『中城村の戦争遺跡』を発刊して村内全世帯に配布し、続く令和2(2020)年度には『中城村の学童疎開』を発刊した。さらに令和3(2021)年度には『中城村の沖縄戦』証言編、同資料編を発刊して村内各自治会や県内外の関係機関に配布する予定である。

○戦跡等の保存・活用

 平成8(1996)年、戦後50周年祈念事業の一環として、添石に平和の風(平和祈念像)と平和の波(戦没者刻銘板)、久場の浮桟橋跡に戦後引揚者上陸碑を建立。

 平成27(2015)年、かつて激戦が展開された161.8高地陣地の中心部を村指定文化財「沖縄戦に関する遺跡」に指定した。平成29(2017)年度には保存と活用を目的とした整備が実施され、学校や一般での平和学習等に活用されている。

○慰霊祭

 村内6箇所に慰霊の碑・塔が建立され、村や各自治会による慰霊祭が毎年執り行われている。

参考文献
『中城村史』第1巻 通史編 中城村
『中城村史』第4巻 戦争体験編 中城村
ガイドブック『中城村の戦争遺跡』 中城村教育委員会
『中城村の学童疎開』 中城村教育委員会
防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』 朝雲新聞社 1968年
喜納健勇訳「沖縄戦 第2次世界大戦最後の戦い」 MUGEN2011

情報提供:中城村教育委員会生涯学習課

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