昭和19(1944)年沖縄において、第32軍が新設された。当初、第32軍はマリアナ諸島を後方から支援するための航空基地を建設、警備することが主な任務であり、西原村(現西原町)においては、小那覇から仲伊保にまたがる海岸平地に陸軍沖縄東飛行場の建設が計画されていた。着手は県内で建設されたどの飛行場よりも遅く同年5月に工事を開始している。6月頃にマリアナ諸島が陥落したことにより、第32軍には当初の任務に加え、本土防衛の防波堤という役割が与えられ、地上戦を想定した実戦部隊が配置されるようになる。西原村においても、同年8月に第62師団(石部隊)の独立歩兵第11大隊や工兵隊等が駐屯することになった。同年10月10日、沖縄本島を襲った大規模な空襲で、西原村は建設途中であった東飛行場周辺が狙われたが、飯場等が炎上した他は軍事施設への被害は軽微であった。しかし、我謝の大型製糖工場や、飛行場に隣接している小那覇集落の民家が銃爆撃を受け、34戸が炎上した。
昭和20(1945)年4月に米軍が上陸すると第32軍は首里城の軍司令部を本丸として、西原―宜野湾―浦添の丘陵地帯に陣地壕を構えて米軍を待ち受けた。西原村は日米両軍が死闘を繰り広げた激戦地であり、多くの住民がその戦いに巻き込まれることとなる。
前項で書いた通り、西原村は飛行場の建設が行われていた。当時、西原の住民は他の飛行場建設に既に徴用されており、西原の飛行場建設には、島尻や離島から徴用された者が多かった。しかし、建設作業はすべて人力で行われていたため、徴用労務者だけでは人手が足りず、村内の国民学校の上級生、婦人会、在郷軍人会や役場職員も交代で勤労奉仕に参加した。また、第62師団(石部隊)の独立歩兵第11大隊が村内へ駐屯を始めると、西原国民学校を本部としたため、国民学校の児童は各字事務所に分散して授業を受けることになった。また、将校達は瓦屋民家の一番座に、兵士達は茅葺の家に、5、6人ずつ入っており、収容できない場合は樹木の下にテントを張って宿泊していた。飛行場建設に加え陣地構築や道路の土木作業も必要となったため、村民は老若男女問わず根こそぎ労力として動員された。また、軍用食糧を役場を通じて供出しており、村民は味噌やイモを各世帯からかき集めて回り、軍に安値で買い取られた豚の赤字を字の財政や区長の自腹で補填していたという。
村役場においては、役場の隣の丘に役場壕を掘り、戸籍簿等の重要書類を大型金庫に保管し戦災に備えていた。役場職員は朝出勤すると役場壕から書類を出して役場で仕事をし、夕方壕に書類を戻して保管していた。役場は米軍上陸直前まで機能しており、軍用食糧の供出の割り当てや、住民への疎開の奨励等も行っていた。
昭和19(1944)年の沖縄においては、引揚命令が出ていたが、県民の疎開への反応は鈍かった。県民に馴染みのある船が魚雷攻撃で次々と撃沈されており、その危険を冒して言葉も環境もまるで違うところに行く不安があったこと、軍の駐屯部隊が、ただでさえ足りない労力や食糧供出等、協力できる者を県外に流出させたくないという意図からくる有形無形の圧力があったことの大きく二つの理由があった。そのため、西原村では、九州疎開の希望者を募っても、多い字で縁故疎開のできる4、5世帯のみであった。学童疎開については、一族の血を絶やさないためにも必要と考えられたことから、昭和19(1944)年8月29日、学童149人が引率教員4人と共に那覇港から宮崎県へ出発している。疎開先での生活は「ヤーサン、ヒーサン、シカラーサン」(ひもじい、寒い、淋しい)の言葉に表されている。
10月10日の大規模空襲を受け、県民の県外疎開への意識が高まったが、その時既に沖縄近海は敵潜水艦に包囲されて戦場化している状態であったため、県は国頭(ヤンバル)疎開へ転換を余儀なくされた。しかし、国頭は食糧が不足しており、西原村の方が比較的食糧に恵まれていたことから、なぜわざわざ食糧難のヤンバルに行くのかと疎開しない村民が多かった。先に国頭に疎開した村民が引き返してくることもあった。更に、西原村に駐屯していた石部隊は中国戦線の百戦錬磨の精鋭部隊であり、兵たちにも「敵は我々が水際で撃滅するから、あわてて疎開する必要はない」と言われていた村民は友軍を信頼していたため、疎開の必要を感じなかったと思われる。ただし、これまでの空襲で被害が出ており、危険地帯と言われていた中城湾沿岸の仲伊保、伊保之浜、小那覇、嘉手苅、兼久などは積極的に疎開に応じ、現在の名護市東部にあった久志村へ疎開している。
昭和20(1945)年4月1日米軍が沖縄本島に上陸した後、第32軍は西原村にも陣地壕を構え、待ち受けていた。4月5日に米軍は上原―棚原のラインに到達し、村内ではここから日米両軍の激しい攻防戦が繰り広げられることとなる。この時点では多くの村民が疎開せず、村内に残っていた。証言の中には、米兵が近くまで来ていることを聞いて初めて島尻へ移動を開始したことを伝えるものもある。4月24日には、宜野湾村(現宜野湾市)の嘉数高地が壊滅し、西原村内でも内間や幸地が米軍に占領され、第32軍は戦線の整理を行うこととなった。そして村民に親しまれていた石部隊独立歩兵第11大隊は浦添村(現浦添市)の前田高地に移動し、島尻に温存されていた第24師団(山部隊)の歩兵第22連隊と歩兵第89連隊が代わって西原村に配備された。同時期に第32軍司令部は、非戦闘員への南部・島尻への移動を命じており、当時の小波津正光村長は避難壕や墓内部に残っている村民を説得し、自ら陣頭指揮を執って島尻へ避難している。村内では引き続き戦闘が続き、5月4日には呉屋・翁長・小波津一帯で総攻撃をしかけ、死闘を繰り広げたが、失敗に終わった。この総攻撃で山部隊89連隊第1大隊、第3大隊の2,000人のうち、殆どの将兵が戦死し、生存者は負傷者を含めて約100名程だった。5月15日、東風平・具志頭に避難した村民には臨時防衛収集がかかり、村長以下約50人が防衛協力隊として山部隊へ入隊させられ、前線への弾薬・食糧運搬に従事した。小波津村長はその後戦場で殉職している。5月22日に第32軍司令部は島尻へ撤退することを決め、戦場は南部へと移動していくことになり、島尻へ避難していた村民を巻き込んでいく。
そこで生き延び、米軍の捕虜となった村民は、糸満や知念など南部の収容所、コザや現在の金武町、宜野座村等北部の収容所へと連行された。
各地の収容所に分散していた西原村民は、昭和21(1946)年4月に我謝区に居住許可が下りたことで、村内に戻ってきた。証言によると、戦後の西原村は屋敷の跡形もなく、雑草やススキが生い茂り、戦前の面影は全くなかった。居住許可の下りた我謝と与那城地区には刑務所のように鉄条網が張り巡らされ、それを越えることは出来なかったという。また、東飛行場周辺にあった崎原、仲伊保、伊保之浜の3集落については、飛行場を米軍が占領し、拡張、整備したことで、住民が元の場所に戻ることができず、別の集落や新しくできた集落への移住を余儀なくされた。移住後も、昭和52(1977)年の行政区改変までは、一行政区として活動していた。
そして、開放された各字に引き揚げてきた住民が最初に行った作業は、不発弾や兵器の残骸を片付けることと、集落内に野ざらしになった軍人や住民の遺骨を収集することだった。
当時の西原村の人口は1万881人。そのうち、戦没者数は5,106人で戦没率は46.9%である。この数字は沖縄県平均の25%をはるかに上回る高い率となっている。西原村の戦没者は中部戦線が始まった4月10日頃から急増し、6月後半まで続いている。島尻へ避難した先で命を落とした住民も多かった。
住民は村内の遺骨を、旧西原村役場の隣に立っていた忠魂碑の元に集め納骨した。昭和30(1955)年にその場所に、西原村慰霊塔を建立し、第一回慰霊祭が挙行された。同慰霊塔は昭和43(1968)年に再び改修され「西原の塔」と改称された。昭和60(1985)年には「西原町非核反戦平和都市」を宣言し、平成4(1992)年には西原の塔敷地内に反戦平和と恒久平和を全世界に訴え続ける「平和モニュメント」を建立、「西原町平和条例」を制定して、6月の平和月間に恒久平和、戦没者追悼のための慰霊祭を持続的に実施している。また、住民及び旧軍関係者を対象に、戦災実態調査を実施し、平成7(1995)年に「太平洋戦争・沖縄戦西原町世帯別戦没者記録」を刊行。平成15(2003)年には西原の塔の向かいに「西原町地元住民戦没者刻銘碑」を建立し、西原村住民の戦没者の氏名を字別、世帯別に年齢も添えて刻銘した。先述した役場壕は、現在も形を残しており、平成27(2015)年に町の史跡として指定され、戦争の悲惨さを伝え続けている。
情報提供:西原町福祉保険課