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与那原町における戦災の状況(沖縄県)

1.戦災の概況

 与那原町は、中城湾という沖縄県中南部の東岸に位置する約45kmの海岸線と2.4万haの海域を持つ湾に面した地域である。中城湾で与那原に面したところを与那原港(与那原湾)といい、明治時代後期から山原船の出入りする港で、様々な物資の集積場であった。与那原港は日本海軍の軍艦の寄港地となり、要港としてにぎわうこととなった。また、大正3年(1914)年には那覇〜与那原間に軽便鉄道が敷設され、県民の足としてだけでなく、兵員や軍需物資輸送の要となった。

 米軍との戦争が必至となった昭和16(1941)年8月、中城湾臨時要塞部隊の編成と要塞建設が開始された。与那原には昭和16(1941)年10月に浜田兵舎が完成し、要塞司令部と連隊本部が設置された。同年12月8日には真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争が開戦となった。その後も昭和19(1944)年に沖縄方面守備のために第32軍が編成・配備されると、同年5月には江口兵舎が建設され、連隊本部が移設、10月には現地召集兵が入隊し、兵力の増強がなされた。このように、与那原には大規模な軍事施設である兵営が建設され、約500〜600人の兵隊が常駐し、日常生活に軍隊の光景が見られる「軍都」と化した。

 昭和19(1944)年7月、日本軍が「絶対国防圏」と定めたサイパン島が陥落し、ますます沖縄での地上戦が避けられないとした内閣は、県知事に対し老幼婦女子を島外に疎開させるよう電報で指令した。与那原では、家族単位で山原や県外のつてを頼った一般疎開と、学童と引率教員が熊本県に疎開した学童集団疎開が行われた。学童疎開では対馬丸が米軍潜水艦の魚雷攻撃によって沈没し、乗船していた児童らが犠牲になるという悲劇も起きた。

 与那原の学童疎開は、8月から9月の2回実施された。疎開地に着いてからも、慣れない寒さや飢え、寂しさが多くの児童を苦しめた。

 昭和19(1944)年10月10日、米軍による南西諸島全域を標的とした空襲が行われた(通称「十・十空襲」)。この空襲により、那覇市街地の約90%が焼失し、軍属のみならず民間人にも被害者が多数出た。与那原でも、与那原署の巡査3人が殉職し、70歳の女性が犠牲となった。家屋や山原船も炎上し、物的被害も少なからず発生した。

 沖縄戦が始まる直前、与那原には海上挺進隊第27戦隊(陸軍の特攻艇部隊)、重砲兵第7連隊(中城湾要塞重砲兵連隊を改称)、射堡隊(海軍)、戦車第27連隊が配備された(図1参照)。その中でも、海上挺進隊第27戦隊は、与那原を含む大里村から招集した防衛隊員250人を浜田兵舎に集め、与原と板良敷に割り振り、特攻艇出撃用の進路やレール作成、特攻艇の運搬業務に従事させた。与那原の住民のみならず、中学生や女学生も軍属として軍作業に従事していた。

 浜田兵舎を始め、学校、事務所、劇場、旅館、民家までもが日本軍の宿泊施設として使用されていた。学校が軍によって接収されてしまったため、児童らは公民館での分散授業を余儀なくされた。兵隊が宿泊していた民家では、家の住人が窮屈な生活を強いられた。沖縄戦直前、市街地には兵隊が闊歩し、海岸では特攻艇の出撃訓練や魚雷の発射訓練が日常化した。雨乞森や運玉森といった山手では、軍隊用の壕を掘る音が響いており、まさに与那原は軍事一色に染まっていった。


図1 日本軍配置図
(与那原町教育委員会所蔵)

 沖縄戦は、昭和20(1945)年3月23日の米軍艦載機による空襲から始まる。翌24日からは、空襲と艦砲射撃が熾烈を極めた。沖縄本島上陸に先立ち、米軍は26日に那覇西方の慶良間諸島の座間味島と阿嘉島に上陸した。日本軍は、沖縄本島上陸に先立って慶良間諸島への上陸を想定しておらず、また配備していた海上挺進隊の特攻艇も、米軍によって次々爆破された。結果慶良間諸島では軍民混在の地上戦闘が展開され、極限状態に追い込まれた住民が「強制集団死」(集団自決)する悲劇も起こっている。

 同年4月1日、米軍は上陸前、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、砲艦による集中砲撃を開始し、攻撃後読谷・北谷海岸から上陸した。上陸した米軍は、破竹の勢いで進軍し、上陸して3日目には本島の東海岸に到達、本島を南北に分断した。その後、米軍は宜野湾嘉数高地に到達、4月8〜24日まで日本軍と激しい戦闘を繰り広げた。司令部のある首里を防衛するために敷かれた陣地があった場所(浦添の浦添〜伊祖高地、西原の上原〜棚原〜幸地高地)では嘉数高地と同様に苛烈な戦闘が展開されたが、米軍の圧倒的な物量や兵力に押され、日本軍は撤退を余儀なくされた。

 与那原の運玉森の戦闘は、沖縄戦における日米両軍の激しい攻防戦のひとつとして知られている。当時司令部のあった首里進攻を容易にするために、米軍は主力を3方面から進撃する戦術をとった。首里正面、西側(左翼)のシュガーローフヒル(那覇市新都心)やハーフムーンヒル(真嘉比)、そして東側(右翼)のコニカルヒル(運玉森)を進攻し、首里を南側(背後)から包囲する作戦であった。これに対し、日本軍は新たな部隊を運玉森やシュガーローフヒル、ハーフムーンヒルに配置し、徹底抗戦の陣を敷いた。コニカルヒル(運玉森)には第24師団歩兵第89連隊が配置され、その任を負った。

 5月13日、米軍はコニカルヒルへの攻撃を開始。攻撃前、米海軍は中城湾から大量の砲弾をコニカルヒルに撃ち込んだ。コニカルヒルは別名「100万ドルの山」とも呼ばれた。これは、米軍が撃ち込んだ砲弾の値段が100万ドルにも値すると称されたからである。この攻撃は日本軍の陣地や部隊の壊滅を狙ったものだったが、同時に与那原の市街地を破壊し尽くし、人命を奪ったと思われる。その後は、米戦車部隊がコニカルヒルの北側から砲撃を開始し、歩兵部隊が頂上争奪を目指した。これを迎え撃った日本軍は激しく抵抗し、迫撃砲や手榴弾、白兵戦で応戦し、一進一退の攻防を続けるも米軍を撃退することはかなわず、5月21日(諸説あり)にコニカルヒルは米軍によって占領された。

 5月22日、与那原を壊滅させコニカルヒルを占領した米軍は、そのままチェスナット高地(雨乞森)へ進軍し、占領した。23日、日本軍もチェスナット高地(雨乞森)の奪還を図るも、死傷者も多く、撃退することは出来なかった。24日には夜襲による与那原奪還攻撃が実施されるも、これも失敗に終わった。

 与那原の海岸側に配備されていた海上挺進隊第27戦隊(陸軍の特攻艇部隊)、重砲兵第7連隊(中城湾要塞重砲兵連隊を改称)、射堡隊(海軍)、戦車第27連隊も、米軍の攻撃の前には無力であった。

 与那原が本格的な空襲を受けたのは、米軍が上陸前空襲を実施した3月26日のことであった。そのときは一部の家屋が炎上したが、浜田兵舎に目立った被害はなかった。4月1日の米軍空撮でも浜田兵舎は残存しているが、周辺の家屋は廃屋となっている。

 次の空襲は4月19日に行われ、与那原はナパーム弾(油脂性爆弾)によって焼き尽くされたという。

 与那原に対する本格的な艦砲射撃が行われたのは、5月中旬のことである。標的はコニカルヒル(運玉森)であったが、与那原にあった建築物は壊滅的な被害を受け、廃墟と化した。こうして廃墟となった与那原に、日本軍は陣地を構えられず、したがって市街地では日米両軍による本格的な戦闘はなかった。

 与那原の住民のほとんどは、3月26日の空襲の際、運玉森や雨乞森といった山手の壕に避難していた。しかし、空襲や艦砲射撃が本格化すると、親戚を頼って西原や大里に一時避難した。それからは南部に避難する者が続出し、5月に米軍による与那原進攻の情報が流れ始めると、南部への避難が本格化した。しかし中には南部に避難せず山手の壕に留まる者もいた。

 与那原をあとにした住民は、戦場を彷徨った。その多くは老幼婦女子であり、家族単位で持てるだけの荷物を手に避難した。4月1日の上陸後、米軍は投降を呼びかけており6月17〜23日にかけて数十万枚もの投降ビラを航空機から投下、摩文仁付近の海からも拡声器で投降呼びかけを行った。投降に応じた与那原の住民は、県内各地の収容所に連行された。しかし、日本軍の後を追うように避難した住民の多くは、「鉄の暴風」とも形容される砲撃の中で命を落としていった。

 その後、6月22日(『与那原町史 戦時記録編 与那原の沖縄戦』では6月21日)に米軍は沖縄戦の終結を宣言。23日(諸説あり)には第32軍最高司令官・牛島満中将の自決、8月15日の無条件降伏、9月2日の降伏調印式を経て、日本と連合国の戦闘は終結した。

 与那原出身者の戦没者数(※「平和の礎」刻銘者数)は1,969人とされており、このうち地上戦による死者は、1,672人とされている。当時の与那原の人口が約5,000人と推測されるため、照合すると、実に3人に1人が地上戦で犠牲となっている。また、人的被害だけでなく、物的な被害も甚大であり、与那原は文字通り灰燼に帰した。

 県外へ疎開せず、沖縄本島に残った与那原の住民のほとんどは、昭和20(1945)年6月23日の組織的戦闘の終了を中北部の避難民収容所で迎えた。同年10月には、米軍政府により南部への移動が許可されたものの、与那原は米軍の物資揚陸場として接収されていたため、再び南部の大見武や船越、大城、目取真の収容所に収容されることとなった。

 収容所では、米軍政府から住居用にテントや建築資材が提供されたが数が足りず、1つの小屋に4〜5世帯が割り当てられることとなった。衣服もHBT(米軍野戦服)などが提供されたが、サイズが合わず、仕立て直して利用した。

 食糧は、米軍政府から米や缶詰が無償配布されたが全く量が足りず、収容者の共同作業で芋や野菜を栽培して補った。それでも食糧は不足し、野山でソテツ(でんぷん)、ハルノノゲシ、ヨモギなどの食材を採取し、飢えをしのいでいた。

 昭和21(1946)年2月1日、大見武収容所内に南風原小学校が開校し、学校教育が始まった。この学校には与那原の子どもたちも通った。教室はテント小屋、教科書や学用品もなかったため、米軍の捨てた紙の裏に板書を書き写すといった簡単な授業であった。

 昭和21(1946)年2月、与那原の土地が米軍から解放されると、収容されていた住民たちは与那原への帰村を始めた。しかし、町域のほとんどが米軍の物資揚陸場として敷き均されており、かつての面影はなく、自分の土地も分からない状態であった。

 住宅は、米軍政府から規格小屋(2×4インチ角材の骨組み、テントの壁、かやぶき屋根の簡易住宅)が無償で提供されたが絶対数が足りず、拾い集めた廃材や流木で掘立小屋を建て、それに住む住民も多かった。そのような中でも、昭和21(1946)年10月には疎開していた児童らの帰村、昭和22(1947)年には親川に公設市場が開設し瓦工場や醸造所が再開されるなど、復興は着実に進んでいた。また、短期間ではあるが、客馬車や山原船も復活し、この復興を支えている。

 昭和24(1949)年4月1日、大里村から3字11区が独立し、与那原町が誕生する。道路網の発達、バスやトラックの普及により、海運拠点・港町としての機能は失うが、陸運拠点「近隣の町」として発展し、現在に続いている。

 現在の与那原町から、かつてこの町で激戦が繰り広げられていたことをうかがい知るのは難しい。しかし、今でも運玉森や雨乞森には多数の不発弾が残されており、終戦後しばらくは不発弾の自然発火によって山火事が起こることも多々あった。また、市街地から艦砲弾が発見されることもある。

 雨乞森には現在も、旧日本軍射堡指揮所(通称トーチカ)があり、町内にある文化財や構築物に弾痕が散見される場合もある。復興が完了し、沖縄戦から75年余が経過した今も、沖縄戦の痕跡は残っている。

参考文献
『与那原町史 戦時記録編 与那原の沖縄戦』 与那原町教育委員会 2011年
防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』 朝雲新聞社 1968年

情報提供:与那原町教育委員会生涯学習振興課町史編纂室

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