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南風原町における戦災の状況(沖縄県)

1.戦災の状況

○沖縄戦への道

 南風原村(現在は南風原町)は、沖縄本島南部のほぼ中央、内陸に位置する農村である。沖縄では、唯一、海に面さない自治体であるが、琉球王国時代より発展する首里・那覇と南部一帯を結ぶ交通の要衝であった。戦前、沖縄で走っていた「沖縄県営鉄道(通称:軽便)」も3路線のうち2路線は、南風原を経由して南部各地を結んでいた。

 昭和6(1931)年の満州事変後、南風原にも戦争の足音が近づいてきた。男性たちが次々と軍に召集されるようになる。また、国策移民として満州や南洋諸島へ向かう人や、本土の軍需工場へ行く人もいた。

 また、住民の暮らしのなかにも、学校での軍国主義教育、沖縄の古くからの信仰の聖地である御嶽(うたき)の神社化など、戦争の色が濃くなっていった。

○学童疎開・一般疎開

 昭和19(1944)年、いよいよ沖縄に戦火が迫る中、同年8月から南風原国民学校の児童ら270人(引率者含む)が熊本・宮崎へ疎開した。また、一般住民316人が宮崎・熊本・大分・佐賀などへ疎開した。見知らぬ土地で家族と離れての疎開生活の辛さは、「ヤーサン、ヒーサン、シカラーサン(ひもじいよ、さむいよ、さびしいよ)」という言葉で表現される。

 一般疎開の人々の引き揚げは、昭和21(1946)年の夏にようやく始まり、学童疎開の児童たちが帰郷したのは、昭和21(1946)年10月〜11月であった。

 およそ2年におよぶ疎開からやっとの思いで帰郷を果たしたが、山野は荒れ果て、家族や友人の多くが命を落としていたこともまた疎開をした人々にとって辛い出来事であった。


学童疎開 熊本県日奈久町にて(南風原文化センター所蔵)

○南風原に配備された部隊

 昭和19(1944)年、第32軍が沖縄に配備されると、南風原のすべての集落に軍の部隊が駐留した。南風原は本島南部の内陸部に位置する交通の要衝であるため、前線に対する後方支援部隊が多く置かれた。丘には壕が掘られ、重要地点には野戦重砲・高射砲・機関砲が据えられ、畑や原野には弾薬・食糧・医療などの糧秣が野積みされた。

 津嘉山には第32軍司令部経理部壕が構築され、約3,000人が配置された。昭和19(1944)年10月10日の大空襲後には沖縄陸軍病院が南風原国民学校校舎に置かれ、昭和20(1945)年3月末には黄金森と現在の南風原町役場近くの丘に掘られた壕に移動した(後述)。また、安里川近くの新川にある丘には第62師団野戦病院の壕、通称ナゲーラ壕が構築された。

 集落の公民館や大きな民家は兵舎として使われた。住民は、陣地構築や食料供出が日常の出来事となっていった。

○山原疎開

  昭和20(1945)年2月から3月末には、南風原村の住民1,000人余が山原(沖縄本島北部)へ疎開した。南風原村の疎開先は金武村の宜野座・大久保と古知屋(いずれも現在の宜野座村)であった。

 4月上旬に米軍が金武村一帯に侵攻し、南風原の住民が隠れていた自然壕などが制圧された。戦闘らしい戦闘はなく、住民は収容所へ入れられた。一方、山中に逃げた人々は飢餓状態になり、山中をさまよった。マラリアなどの病気で亡くなった人もいた。

○沖縄陸軍病院

 昭和19(1944)年6月、沖縄陸軍病院は第32軍直属の陸軍病院として那覇市内で活動を開始した。同年10月10日の空襲で、拠点とした病院・校舎が消失すると南風原国民学校に移転した。

 昭和20(1945)年3月23日から空襲が始まると、黄金森と現在の南風原町役場近くの丘に掘られた壕へ移動した。病院では、軍医、看護婦、衛生兵らに加え、沖縄女子師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒らが看護補助要員として動員された。戦後、生徒らは「ひめゆり学徒隊」と呼ばれるようになる。

 当初、病院には内科、外科、伝染病科が設置されていたが、外傷患者が増えたため、すべて外科になった。医薬品が不足したことで、感染症を防ぐための患部の切断手術が麻酔無しで行われるなど、過酷な状況であった。

 5月下旬、第32軍司令部が糸満の摩文仁へ撤退することが決定し、沖縄陸軍病院にも南部への撤退命令が出された。その際、重症患者には青酸カリの配布や青酸カリ入りのミルクを飲ませるなど処置が行われた。

○南部避難

 昭和20(1945)年3月23日以降、南風原には米軍の空襲と艦砲射撃が降り注いだ。犠牲者が続出し、家屋が次々に焼かれた。4月9日には、役場から避難命令が出され、一部の住民が玉城村親慶原へ向かう一方で、多くの住民には伝わらなかった。5月になると、交通の要衝であった南風原には、前線からの敗走兵や中部方面からの避難民が押し寄せた。南風原の住民も、そのほとんどが5月下旬までに玉城・東風平・糸満方面へ避難した。住民の避難途中には、米軍の砲弾が容赦なく降り注ぎ、死と隣り合わせの状況であった。南風原一帯の一日橋、宇平(山川)橋、兼城十字路、照屋十字路は死体の山があったといわれ、戦後、「死の橋」「死の十字路」とたとえられた。

 南部へ避難した住民は、激しい砲爆撃のなか、空き家や家畜小屋、さらには岩陰や樹木の下のような場所に身を隠すしかなく、危険にさらされ続けた。糸満地区に多数の住民が追い詰められた6月中旬、南風原から避難した人々の多くが命を失った。

○南風原村民の戦死状況

 当時の南風原村民9,603人(昭和20(1945)年4月時点)のうち、戦死者は3,843人である。このうち、沖縄県内での戦死率は、約44%にのぼる。戦死場所は本島南部(糸満・摩文仁方面)が最も多く、6月1日〜23日の期間に戦死者が増加する。年齢別では、60歳以上の年配者の戦死率が最も高く、正規兵・防衛隊・義勇隊にとられた20〜59歳の男子が次に高い。10歳未満では年齢が低いほど戦死率が高い。

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2. 復興のあゆみ

○収容所での生活と帰郷

 戦禍のなかを生き延びた人々は、米軍の捕虜となり、本島各地の収容所に入れられた。本島北部東海岸地区の収容所では、食糧事情が悪く、栄養失調やマラリアの流行で死者が出た。昭和20(1945)年12月からは、南風原の住民は大見武収容所(現与那原町)に集められた。住民たちは食糧増産や遺骨収集、茅葺き家屋の建設にあたり、復興の準備が進められた。

 昭和21(1946)年7月、ようやく帰郷が許可される。もとの集落は、雑草で覆われ、至る所に艦砲穴があるという状況であった。住民たちの生活は、まず食料と住居の確保から始まった。

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3. 次世代への継承

○戦災調査

 昭和58(1983)年から14年にわたり、町内の戦災の実態を明らかにする全戸悉皆調査が行われた。調査は字ごとに行われ、調査対象字出身の戦後世代を調査員とした。この調査は、地域の若者が沖縄戦体験を受け継ぐことを目的のひとつとしており、高校生や若者の参加をうながした。調査の成果は報告書として刊行されている。


南風原町史(南風原文化センター提供)

○沖縄陸軍病院南風原壕群の文化財指定・公開

 平成2(1990)年、南風原町は沖縄陸軍病院南風原壕群を町の文化財に指定した。全国で初めて戦争遺跡を文化財(史跡)指定した事例である。病院壕は、考古学的調査・物理工学的調査を実施した後、平成19(2007)年から20号壕を一般公開している。県内外、国外から多くの見学者が訪れ、沖縄戦を追体験し、平和を学ぶ場として活用されている。


沖縄陸軍病院南風原壕群20号(南風原文化センター提供)

○町内の慰霊塔・記念碑

 町内各所には慰霊塔や記念碑が設置されている。

  • 慰霊祈和之塔
  • 慰霊塔(字兼城)
  • 鎮魂と平和の鐘
  • 憲法九条の碑
  • 悲風の丘の碑
  • 南風原陸軍病院壕址碑
  • 南風原国民学校学童集団疎開記念碑


慰霊祈和之塔(南風原文化センター提供)

○南風原町民平和の日

 昭和21(1946)年10月12日に南風原村役所の業務が地元(現南風原小学校)で再開されたことにちなみ、平成25(2013)年、町は10月12日を南風原町民平和の日に制定した。この日は町慰霊祭や関連イベントが開催され、平和の尊さを再確認する機会となっている。

○学校での平和学習

 町内小中学校では、平和学習に取り組んでいる。戦争体験者による講話や、町内の戦跡などに関する学習を通して、戦争や平和について考える機会となっている。

○子ども平和学習交流事業

 平成6(1994)年から、町内小学校の6年生を対象に、子ども平和学習交流事業を実施している。本事業は、沖縄戦のみならず、戦争・平和・人権・差別について広く学ぶことを目的としており、広島・京都・大阪や沖縄愛楽園などでの研修を実施している。

参照文献
  • 『南風原町史第3巻 戦争編ダイジェスト版(一部改訂) 南風原が語る沖縄戦』  南風原町史編集委員会 2004年
  •  
  • 情報提供:南風原町教育委員会生涯学習文化課

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