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糸満市における戦災の状況(沖縄県)

1.10・10空襲と糸満市域

 昭和19(1944)年10月10日の空襲(10・10空襲)当日の午前6時45分頃、糸満町の山巓毛に設置されていた糸満防空監視哨が南東方向に米軍艦載機の大編隊を発見し、監視隊本部に報告した。しかし空襲警報の発令はなかった。日本軍による大規模演習との誤認や空襲警報発令に躊躇したともいわれる。糸満町へは残弾処理のためと思われる爆撃が午後4時頃行われ、糸満小学校西側から旧糸満警察署の間の新屋敷、上之平、新島の一部が焼け、その煙は監視哨(山巓毛)を包み、遠望できない状況であった。

 糸満警察署管内(現在の糸満市域の糸満町、兼城村、高嶺村、真壁村、喜屋武村、摩文仁村及び八重瀬町域の東風平村、具志頭村)の被害状況をみると、死亡4人、負傷4人、家屋全焼・全壊155軒、半焼・半壊19軒、船舶沈没5隻、炎上2隻、撃破2隻となっているが被害の多くは糸満町であった。

 10・10空襲後、住民たちは屋敷内に作った簡易な防空壕では身の安全を確保できないことを知り、本格的な避難壕の構築・整備を始めた。


6月15日の国吉周辺(沖縄県公文書館所蔵)

2.糸満市域の疎開状況

 昭和19(1944)年から沖縄戦の直前にかけて、多くの人々が戦火を避けるために県外へ疎開している。糸満市域からも九州や台湾への疎開が行われており、県外への疎開が困難になると沖縄本島北部地域(山原)へ疎開している。疎開先でも食糧難や伝染病の流行などで決して楽な生活ではなかったが、多くは戦火の犠牲にならずに助かった。

 糸満市域からは1,731人が一般疎開として本土に疎開している。疎開先は宮崎県と熊本県が多く、両県の広範囲に分散していた。両県の他には大分県や疎開指定地ではない佐賀県などにも疎開した住民もいる。台湾への疎開は、旧糸満町から縁故者を頼っての疎開が行われたが詳細については分かっていない。

3.市域残留者の戦災状況

 疎開せずに市域にとどまった一般住民の旧町村別の戦没者数と戦没率は表のとおりである。戦没率は、糸満市域北部から西部の兼城村・糸満町・喜屋武村は比較的に低く、中部から東部の高嶺村・真壁村・摩文仁村は高い。これは、日米両軍の戦闘状況が大きく関係しているものと考えられる。米軍が進攻して来た際、一般住民は集落内に留まるか、集落外に避難するかが重大な選択となった。集落外に避難する際は、安全な避難場所の有無や家族の事情、日本軍からの圧力など様々な要因に左右された。当時の過酷な状況下で一般住民が戦況を判断して行動することは、ほとんど不可能であった。

 市域残留者の戦災状況については、(1)戦闘状況との関係、(2)住民の避難行動との関係、(3)日本軍による犠牲の関係の3点に集約できる。

(1) 戦闘状況との関係

 右表「市域残留者の戦災状況」より、戦没率が40パーセントを超えるのは高嶺村・真壁村・摩文仁村で、日米両軍の激しい攻防戦が行われた地域か、日本軍が最後まで立てこもっていた地域である。

 激しい戦闘が展開された与座岳がある高嶺村の東部は、日本軍が八重瀬岳−与座岳−国吉の線を最後の防衛線とし、与座岳一帯には歩兵第89連隊や工兵第24連隊などが立てこもって米軍を迎え撃った。米軍は6月8日頃より与座岳に猛烈な空襲、砲撃、艦砲射撃を行い、火炎放射器や戦車砲、手榴弾で壕という壕をしらみつぶしに攻撃していったが、日本軍も激しく抵抗し、一進一退の攻防戦となった。米軍はかなりの被害を出しながらも6月16日には与座岳を占領している。

 真壁村東部は、第24師団の残存部隊が最後に立てこもった地域である。真壁村宇江城のクラガー(自然壕)には第24師団司令部があり、周辺の地下陣地に立てこもる日本軍は激しく抵抗したが、6月23日に真壁村真栄平南東端の日本軍が立てこもる洞窟が爆破されて、一帯の戦闘はほぼ終了している。クラガーの第24師団司令部は、6月30日に師団長以下幕僚が自決した。

 摩文仁村西部は第62師団などの残存部隊が最後に立てこもっていた地域で、摩文仁村米須北側の陣地壕には歩兵第64旅団司令部があった。6月20日に米軍との激しい戦闘があったが、歩兵第64旅団司令部はこの日でほとんどが戦死し、翌日未明には旅団長が壕内で爆雷により自決している。米軍は日本兵の立てこもる陣地壕に馬乗り攻撃をかけて、爆雷・黄燐弾・火炎放射器で一つ一つ壊滅させていった。

 戦没率が30パーセント以下は糸満町・兼城村・喜屋武村で、激しい攻防戦がなかった地域である。

 兼城村内の日本軍は、米軍が兼城村に進攻する前に与座岳−国吉の防衛線まで撤退したため、村内では激しい戦闘はあまり起きていない。6月6日に米軍は東風平村志多伯から進入し、兼城村北波平を占領して南下した。日本軍との戦闘は小規模で、6月11日頃には兼城村照屋が制圧された。兼城村は6日間ほどで米軍に占領されたが、日本軍の抵抗がほとんどなかったため、住民が避難するガマなどを米軍が激しく攻撃するということはなかった。

 喜屋武村一帯には、第62師団の残存部隊が配備され米軍の進攻に備えていたが、第32軍司令部のある摩文仁周辺に米軍が進攻したためにほとんどが摩文仁方面に移動させられた。その後、喜屋武村には小部隊が分散していたようである。6月19日には米軍が喜屋武の丘陵に進攻し戦闘となった。米軍は火炎戦車を主力に攻撃してきたが、日本軍には組織的に抵抗する戦力はほとんどなく、喜屋武村束辺名の日本軍陣地が激しく抵抗していたが、6月21日には壊滅し、その後は米軍の一方的な掃討戦が続いた。喜屋武村一帯では、高嶺村・真壁村・摩文仁村などに比べると激しい戦闘は起きず、ガマなど地下に避難していた住民たちの被害は比較的少なかった。しかし、米軍は日本軍敗残兵を掃討するために喜屋武岬一帯を火炎放射器で焼き払っており、地上を逃げ惑う多くの避難民は巻き込まれ犠牲となった。

旧町村名 市域残留者 戦没者数 戦没率
糸満町 1,763人 501人 28.4%
兼城村 3,412人 963人 28.2%
高嶺村 2,566人 1,117人 43.5%
真壁村 2,821人 1,262人 44.7%
喜屋武村 1,576人 427人 27.1%
摩文仁村 1,789人 843人 47.1%
合計 13,927人 5,113人 36.7%
表 市域残留者の戦災状況
 

(2) 住民の避難行動との関係

 地域の戦災状況には日米両軍の戦闘状況が強く関係しているが、道路を隔てた隣接集落同士で戦没率が異なることがあり、戦災状況には住民行動が影響している場合もあることが分かっている。

 兼城村の賀数と座波は道路で隔てられた隣接集落で、賀数が市域残留者250人のうち戦没者は84人33.6パーセントに対し、座波は市域残留者929人のうち戦没者は232人25.0パーセントとなっており大きな差がみられる。

 両集落とも5月末頃までは、住民の多くは集落内のガマや屋敷壕などに避難していたが米軍が進攻してくると、賀数の住民の多くは集落外へ逃げ出し、座波の住民はそのまま屋敷壕などに隠れて捕虜となった。賀数では軍や警察からの退去命令に従い自発的に集落外へ避難したが、安全な場所を探し求めて彷徨い、その避難の行程で犠牲となった。一方座波では、どうせ死ぬなら自分の集落でと、小さな屋敷壕に隠れ続けて結果的に多くの住民が助かった。

 この例のように、住民の避難行動には集落によりかなりの差がみられた。糸満市域に米軍が進攻してきたのは6月初旬で、沖縄本島最南端に位置することもあり、ほとんどの住民は集落内にとどまっていた。兼城村や糸満町では、米軍から逃れるための避難が多かったのに対し、その他の地域では、日本軍に避難壕を追い出されるなどして移動を余儀なくされた場合が多いようである。

(3) 日本軍による犠牲

 沖縄戦の際立った特徴として、自国の軍隊によって住民が殺害された例が多い。糸満市において住民の戦災状況を考える上で、日本軍の存在は大きく、無視することはできない。日米両軍の戦闘による被害とは別に、日本軍の住民蔑視や敵視により引き起こされた様々な事例によって住民が犠牲になっている。糸満市域において、日本軍により多数の住民が死に追い込まれた事例としては、「避難場所からの追い出し」や「米軍への投降の阻止」などがあり、ガマなど避難場所からの住民の追い出しは、証言も多く市域各地で起こっている。


前線から真栄里の海岸沿いに逃れてきた人々(沖縄県公文書館所蔵)

4.復興のあゆみ

 戦闘が終わり、山原や中頭、知念などの収容所に収容された人々の願いは、一日でも早い故郷への帰還であった。しかし、激しい戦闘が繰り広げられた糸満市域を含む島尻一帯は、弾薬や不発弾が散在する危険な状態であり、各地に米軍部隊が駐屯していたこともあり、帰郷は難しい状況であった。

 昭和20(1945)年10月21日那覇市・首里市・真和志村・小禄村・豊見城村・兼城村・糸満町・高嶺村・真壁村・喜屋武村・摩文仁村を一画とする糸満軍政地区(現在の糸満市)が設定され、10月23日糸満軍政地区隊長のブランナー大尉により、古知屋にいた糸満町民数十人が先発隊第1陣として糸満に派遣された。

 戦禍を免れた糸満警察署庁舎に糸満軍政地区事務所が置かれ、モータープールや配給所が糸満町内に設置され、戦後復興を目指した住民受入の準備作業が開始された。同年11月、戦前の糸満町長玉城瑩を糸満市長に任命し、糸満市役所を糸満警察署庁舎に置いた。先発隊は第2陣、第3陣と続いて糸満入りし、その後、各収容所から糸満軍政地区への住民移動が開始された。戦前、市域内に所在した糸満町・兼城村・高嶺村・真壁村・喜屋武村・摩文仁村の1町5村のうち、特に人口の減少が著しく行政運営が難しくなった真壁村・喜屋武村・摩文仁村の3村は、昭和21(1946)年4月4日に合併して三和村となり、1町3村による瓦礫のなかからの戦後復興が始まった。

5.次世代への継承

 糸満市では、沖縄戦の記憶を次世代へ継承するために以下の慰霊祭や出版物等を刊行している。

慰霊祭

名称:糸満市出身戦没者「満霊之塔」慰霊祭
開催日:毎年11月中の日曜日(不定)
場所:満霊之塔(糸満市真壁公園内)
主催:糸満市
共催:糸満市遺族会
※平成27年度から市主催で開催。
刊行物
  • 沖縄県糸満市編 『糸満市における沖縄戦の体験記録集−沖縄戦後50周年平和事業出版−』 沖縄県糸満市 平成8(1996)年3月
  • 糸満市史編集委員会編 『糸満市史 資料編7 戦時資料 下巻−戦災記録・体験談−』 糸満市役所 平成10(1998)年11月
  • 糸満市史編集委員会編 『糸満市史 資料編7 戦時資料 上巻 』 糸満市役所 平成15(2003)年12月
  • 「戦跡を歩こう(歩く)1〜15」 『広報いとまん』 平成19(2007)6月号から令和3年(2021)6月号まで、毎年、広報6月号へ戦争体験者等の証言を掲載した。
参考文献
糸満市史編集委員会編『糸満市史 資料編7 戦時資料 下巻−戦災記録・体験談−』 糸満市役所 1998年11月
糸満市史編集委員会編『糸満市史 資料編7 戦時資料 上巻 』 糸満市役所 2003年12月

情報提供:糸満市教育委員会総務部生涯学習

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