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沖縄市における戦災の状況(沖縄県)

1. 本市における日本軍配備と住民生活への影響

 日本軍は昭和18(1943)年頃から、本市の西側で北飛行場(読谷村)と中飛行場(嘉手納町)の建設を開始、本市からも多くの住民が建設作業に動員された。

 昭和19(1944)年3月に第32軍が創設されると、市内へも日本軍部隊の駐屯が始まり、地下陣地や戦車壕などの構築が進められた。軍は地元に対し、兵士の宿泊場所や備蓄倉庫に使用する家屋、食糧、陣地構築や炊事など作業への労力などを求めた。また、学校は軍が兵舎として使用したため、地域の公民館などを教室代わりにするといった影響も出た。

 また、市内の国民学校でも8月と9月に学童集団疎開が行われ、美東校と美里校が熊本県へ、宇久田校と越来校が宮崎県へ希望児童を疎開させた。このうち美東校の児童らが乗った疎開船対馬丸が8月22日に米軍潜水艦によって撃沈され、児童131名を含む172名の市民が犠牲になった。

2. 戦災の概況

(1) 十・十空襲

 昭和19(1944)年10月10日の「十・十空襲」では、本市周辺の北飛行場や中飛行場が米軍の空襲目標となり、その様子を多くの市民が目撃した。また、中城湾に面する泡瀬でも日本軍の船舶が攻撃を受けた。市内は目立った被害は無かったが、被害が大きかった那覇や北飛行場、海上の船舶にいたなどで92名の市民が犠牲になった。

(2) 米軍上陸と市内外での戦没状況

 昭和20(1945)年3月下旬から米軍の空襲・艦砲射撃が始まると、住民の避難の動きも本格化した。羽地村(現在の名護市)が疎開先に指定されて住民にも伝達されていたが、羽地までは徒歩や荷馬車以外の移動手段がなく、現地での食料や寝泊まりの確保にも不安があり、また米軍上陸を目前にした混乱状況の中にあって、北部への疎開を断念して引き返す者や地元に留まる者も少なくなかった。

 4月1日、米軍は読谷から北谷にかけての海岸から上陸、沖縄本島への侵攻を開始した。上陸地点から4キロ程度にある本市は4月2日から3日にかけて侵攻を受けた。この時第62師団隷下の独立歩兵第12大隊(賀谷支隊)と3月下旬に急ぎ編成された特設第1連隊が市内に展開していたが、米軍の侵攻を阻止するほどの抵抗は行わなかった。

 しかしこの間、住民には大きな犠牲が出ている。米軍上陸から1週間の間に、市内での犠牲者は387名に上り、周辺市町村を含めた本島中部での犠牲を含めると594名となる。これは県内で犠牲となった本市出身者3,217名の18.5%になる。この中には砲撃等による被弾や米兵による銃撃のほか、日本軍に加わり戦闘に巻き込まれた地元青年たち、そして米軍に対する恐怖ののちに自ら命を絶った「集団自決/集団死」などがある。

 一方、本島北部へ疎開した住民も、長期にわたって苦難の逃避行を強いられた。逃げ込んだ山中では食料の入手が困難であり、たちまち人々は飢餓状態に陥った。さらに、寝泊まりは簡易な避難小屋や木陰程度しかなく、衛生状態も悪かった。活発に活動する蚊によってマラリアが流行、避難民を心身ともに追い詰めた。主戦場にならなかった北部においても605名が犠牲になっており、このうち152名は10歳未満の子どもたちである。

 また、主戦場となった中南部方面では、特に青年や男性の戦没が多い。「根こそぎ動員」によって若年層のほとんどは現役兵や防衛隊として軍に動員され、召集年齢に満たない青少年たちの中にも軍に加わる者が続いた。本島南部での戦没者は950名に及ぶが、その内訳は10代から40代にかけての男性に集中している。沖縄県内での市民の戦没者数は3,217名であるが、その諸相は年齢や身分によってさまざまである。

(3) 民間人収容所の設置

 米軍は本市を占領すると、民間人収容所の設置を開始した。市内では泡瀬がいち早く民間人収容所となり、続いて嘉間良・越来・安慶田・照屋一帯が本格的な民間人収容所「キャンプ・コザ」として整備された。収容所では中南部の戦場に残っていた住民が運び込まれ、米軍によって治療や食料配給が与えられた。収容住民の寝泊まりには戦禍を免れた家屋やテントがあてがわれた。学校や孤児院も設置され、住民の自治組織も整えられた。ただし、この米軍の住民施策はあくまで日本軍との戦闘と、日本本土侵攻に向けた基地の建設を円滑に進めるため、その障害となる住民を立ち退かせて米軍の管理下に置いたものであった。

 日本軍が残した北飛行場や中飛行場は読谷飛行場・嘉手納飛行場として整備拡張され、さらに市内にも泡瀬飛行場が新設された。5月中旬からは九州方面への空襲の出撃拠点となっている。本市周辺で米軍の拠点整備が進む中、8月の終戦を迎えた。

3. 終戦と復興のあゆみ

(1) 降伏調印

 昭和20(1945)年9月2日、日本と連合国の降伏調印が交わされ、連合軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は一般指令第一号で日本軍に対して戦闘の終了と連合国軍への降伏を命じた。この中で、琉球列島の日本軍は、嘉手納基地に司令部を置く米軍の第10軍に対して降伏することが指示された。

 第32軍の司令官であった牛島満中将は6月23日に自決したため、代わりに宮古島から納見敏郎陸軍中将、徳之島から高田利貞陸軍少将、奄美大島から加藤唯雄海軍少将が代表となり、第10軍司令官のジョセフ・スティルウェル中将と降伏調印を交わした。これによって沖縄における戦闘は公式に終結を迎えた。この場所は現在米軍嘉手納基地内となっており、降伏調印を記念する小公園「ピースガーデン」が整備されている。


嘉手納基地で行われた降伏調印
(昭和20年9月7日、米軍撮影、沖縄県公文書館所蔵)


降伏調印を記念するモニュメント
(沖縄市総務課市史編集担当撮影)

(2) 戦後の復興と基地による集落の消滅

 上記の降伏調印が行われた場所は戦前まで森根という集落があった。しかし米軍が沖縄作戦と同時並行で嘉手納基地を建設したことにより、集落は跡形もなく撤去されてしまった。住民は米軍上陸と共に村外へ避難、あるいは米軍の収容所に入っており、少なくとも10月23日に米軍が帰村許可を出すまでは収容所での生活を強いられていた。基地への接収を免れた地域へは次第に住民が戻って再建を始めていくが、森根のように基地への接収によって戻るべき故郷を失った人々も少なくない。彼らは別の土地に新たな生活の場を求め、または各地へ離散していった。これは戦後の越来村(昭和31(1956)年よりコザ市)の急速な都市化の一因にもなった。

4. 次世代への継承

(1) 戦没者の慰霊

 本市では前身となるコザ市が昭和32(1957)年に「慰霊之塔」(沖縄市胡屋在)を、同年に美里村が「慰霊塔」(沖縄市知花在)を建立しており、例年市遺族会を中心に市職員、地域住民、児童生徒が参加する慰霊祭を行っている。また、11の字・地域等地縁組織でも慰霊塔・碑が建立され、それぞれ地域の関係者を中心に維持管理や慰霊祭が続けられている。

(2) 戦争遺跡の文化財指定

 本市知花には、昭和初期に作られたとされる旧美里村の忠魂碑と美里国民学校奉安殿が、戦禍を免れて現存している。沖縄戦に至る当時の時代状況を知る上で重要な文化財として、平成9(1997)年に市指定文化財として指定した。平成27(2015)年には保存修理工事、平成30(2018)年に説明板設置などの周辺整備を行い、学校や地域の教育の場としても活用されている。

(3) 『沖縄市史』第五巻戦争編の刊行

 本市では、市史編集事業の中で「第五巻 戦争編」の刊行を計画、本市民の戦争体験や関連する日米両軍の史資料、戦没調査の分析を踏まえ、令和元(2019)年度に発刊した。

(4) 市民平和の日

 本市は、昭和20(1945)年9月7日に本市で行われた沖縄戦の降伏調印にちなみ、この日でもって沖縄戦が公式に終結して戦後への歩みを始めたとして、9月7日を「市民平和の日」とする条例を制定した。さらに8月1日から9月7日までを「平和月間」と名付け、戦跡の見学やコンサート、展示会など各種イベントを開催している。

参考文献
沖縄市総務課市史編集担当 編『沖縄市史 第五巻 資料編4 戦争編 ―冊子版―』 沖縄市役所 2019年

情報提供:沖縄市総務部総務課 市史編集担当

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