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豊見城市における戦災の状況(沖縄県)

1.豊見城村の戦災の概況

 豊見城村の戦争当時の人口はおよそ9,000人。当時は大きな字が11あり、その中に小さな23の地域があった。米作りに野菜、サトウキビ、畳の原料や塩づくり等、県下でも有名な農村として名を馳せていた。

 豊見城村は沖縄戦において特徴的な地理条件にあった。県都・那覇市に隣接し日本軍の重要な施設であった小禄飛行場(現在の那覇空港)や那覇港が間近にあったため、米軍の集中攻撃の余波を大きく受け被害が拡大した。

 沖縄戦直前には、那覇から糸満にかけての海岸が米軍の上陸地点に予想されたため、豊見城村の沿岸部に住んでいた住民は、一時、内陸部に移動させられた。

 その他、小禄飛行場に隣接する補助滑走路として「与根飛行場」の建設や海軍司令部などの軍隊の拠点が置かれたこと、饒波川と国場川には水上特攻部隊が配備されるなど、豊見城村の人々は、地上戦・航空戦・海上特攻など戦場の多様な場面に遭遇することになった。

 豊見城村内の沖縄戦戦死者は3,000人余り、村内での住民の戦死者が1,000人以上である。全戦死者の3人に1人が村内で亡くなったことになる。

※平成14(2002)年に村から市へ移行し、豊見城市となる。


『語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争
記憶 映像資料ハンドブック』より
(豊見城市教育委員会作成)

2.村民の生活状況

○徴用・供出

 昭和19(1944)年3月、南西諸島防衛の目的で第32軍が創設された。以降、沖縄に続々と軍隊が配備され、豊見城村の各集落にも日本軍の部隊が駐屯した。第32軍は、全島要塞化を目指し、陣地壕づくりと飛行場建設を同時に進めていた。成年男子が軍人や防衛隊に動員されたため女性や小学校高学年の子どもまで、働ける住民はすべて労働力として、陣地壕、戦車壕、与根飛行場の滑走路づくりに動員された。

 昭和19(1944)年夏ごろから日本軍への供出が本格的になった。供出は軍の要請する供出物と量を村役場が各字に割り当て、区長が耕地面積に応じて各家庭に割り当てた。供出物はイモや野菜や大豆が中心であった。

3.戦災の状況

○学童疎開

 昭和19(1944)年7月、沖縄県は学童集団疎開を決定し、豊見城村の学童疎開先は宮崎県に決定した。8月に豊見城第二国民学校(二豊)58人が北郷村へ疎開。9月に豊見城第一国民学校(一豊)179人が岩戸村と上野村へ疎開した。学童疎開の子どもたちをもっとも苦しめたのは食べ物であり、疎開先では戦況の悪化に伴い、食糧調達が厳しくなっていた。食べ盛りの子どもたちにとってひもじさは非常に耐え難いものであった。また、はじめて体験する寒さや家族と離ればなれになった淋しさも辛いものであった。

 飢え、寒さに耐えながら、遠く離れた故郷・沖縄の家族を想い、その無事を祈る長い2年間であった。


宮崎県岩戸村(現高千穂町)に疎開した一豊
【豊見城市教育委員会文化課所蔵】

○十・十空襲

 昭和19(1944)年10月10日、米軍は延べ約1,400機の艦載機で奄美諸島から沖縄・宮古・八重山まで、南西諸島の飛行場と港湾、市街地を攻撃した。早朝から午後4時ごろまで長く続いたこの大きな空襲で、那覇はほとんど焼き尽くされた。

 豊見城村には攻撃も被害もなかったが、多くの村民が空襲の恐ろしさを目の当たりにした。那覇の街並みを一望に見渡せる「嘉数バンタ」では空襲で炎上した街の炎の熱波が風にのって伝わってきたといわれる。

 空襲後、焼け出された那覇の人々が続々と豊見城村に避難してきた。


那覇の港湾施設 昭和19(1944)年10月
【沖縄県公文書館所蔵(写真番号108-28-4)】

○米軍上陸・南部避難

 昭和20(1945)年3月26〜29日に米軍は慶良間諸島全域を制圧した。米軍の沖縄攻略部隊は、空母40隻、戦艦20隻を含む艦船約1,500隻、上陸部隊約18万2,800人。後方支援部隊を加えると約54万8,000人であった。

 それに対して沖縄本島の第32軍は防衛隊や学徒隊合わせても約10万人であった。4月1日についに米軍は沖縄本島に上陸し、大規模な地上戦が始まった。

 米軍上陸後、戦況は日ごとに悪化し、5月27日首里の第32軍司令部は南部に撤退した。同日、豊見城グスクの第二野戦病院壕で傷病兵の看護にあたっていた私立積徳高等女学校の生徒も旧真壁村の糸洲壕へ撤退した。

 5月下旬には豊見城村では目の前に迫る米軍から逃れようと、村内の壕に避難していた多くの住民が南へと避難していった。

 沖縄の海軍部隊は小禄飛行場の守備を主な任務としており沖縄戦突入前に字豊見城の高台に地下壕を構築し、部隊壊滅に至るまでのほとんどの期間を司令部壕として使用した。

 6月4日、米軍が圧倒的な兵力で小禄半島に上陸、6月6日には小禄飛行場を占拠した。米軍は戦車などの圧倒的な兵力で司令部壕に迫る中、大田実司令官は海軍次官あてに電文を送信した。その内容は県民の献身的な戦闘協力と惨状を伝え「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世 特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と結び、6月13日に司令官以下、幕僚・将兵たちが壕内で自決し最期を遂げたといわれる。


真玉橋の空襲 昭和20(1945)年4月30日
【米国立公文書館所蔵】

4.復興のあゆみ

○捕虜〜収容所生活

 米軍の村内侵攻によって南へ避難する間もなく、集落内で捕虜となった村民も少なくない。それは村内東側よりも西側の住民に比較的多く見受けられる。特に字田頭、名嘉地、我那覇などは字からの避難が全般的に遅かったことも原因としてあげられるが、集落への砲撃が集中したため避難の機会を失ったことが大きい。また、字渡橋名およびその周辺地域では翁長、保栄茂方面からの米軍の侵攻により集落内で捕虜となっている。

 その他、南へと避難した人々及び壕や墓に隠れていた住民は米軍の投降の呼びかけに応じて捕虜となった。

 捕虜となった住民は中北部の各収容所に移送され、南部で捕虜となった人々のほとんどが最初に送られてきたのが伊良波収容所で、一時的に収容された人々はここで尋問や検査を受けた後に民間人と軍人に分けられ、他の収容所に移動させられた。


伊良波収容所
昭和20(1945)年6月20日【沖縄県公文書館所蔵(写真番号78-39-4)】

○豊見城への帰村・帰字

 収容所から豊見城村に戻ってきたのは昭和20(1945)年12月頃から昭和21(1946)年の初めごろで、字伊良波、座安、渡橋名の収容所に移動させられた。

 収容所ではテント生活であり、食糧事情は悪く、米軍からの配給もあったが十分でなく大人から子供まで常に飢えに悩まされていた。配給物資が足りない時には米軍の物資を車に積み下ろしする作業の過程で荷崩れした缶詰をひそかに隠して持ち帰る程度であったが、「戦果」と称して米軍の物資集積所に忍び込み食料を盗みだすものも続出した。

 昭和21(1946)年4月〜7月頃、集落に戻ることができたが米軍部隊や施設があった字は戻ることが遅れた。

 戦前の集落の家々は9割以上が焼失した。焼け残った家やテントで数家族と雑居生活を始めながら、最初に着手しなければならなかったのは住居の確保であり、キカクヤー(規格住宅)と呼ばれる住宅の建設から始めた。


『語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶 映像資料ハンドブック』より
(豊見城市教育委員会作成)


戦後、字の共同作業で家々が作られる 昭和31(1956)年 字宜保
【豊見城市教育委員会文化課所蔵】

○遺骨収集と「慰霊碑」、「納骨堂」の建立

 沖縄戦が終わり焼け野原となった故郷で、人々が最初に取り組んだのは集落内のいたるところに野ざらしとなっていた遺骨の収集作業である。

 戦争により身近な肉親・知人を失った多くの人々は食べ物の生産と調達、家づくりを進めていきながら集落に散在する遺骨を拾い集め、各字ごとに慰霊塔や納骨堂を建てた。

※1960年代には那覇市識名に建てられた「戦没者中央納骨堂」へ遺骨が移動され各字の慰霊塔等はほとんど姿を消した。


豊見城の慰霊祭 英魂之塔と北琉之塔 昭和30(1955)年以降 【豊見城市教育委員会文化課所蔵】


真玉橋の眞珠乃塔
昭和38(1963)年以前
【豊見城市教育委員会文化課所蔵】

5.次世代への継承

 豊見城市は戦争の記憶を後世に伝え、市民一人一人が戦争の悲惨さと平和の尊さを考えさせられる地域社会を目指している。

 そのことから平成元(1989)年に非核平和都市宣言及び核兵器廃絶・平和宣言を行い平和へのメッセージを発信している。また、「旧海軍司令部壕」や「第24師団第2野戦病院壕」等の市内に所在する戦跡についてもパンフレットにまとめ情報発信を行っている。その他、戦争体験者の証言を映像に記録する取組や、展示会、平和交流等も行いながら普及啓発に努めている。

非核平和都市宣言

 世界の平和と安全は、人類をはじめ地球上すべての生物の存在に不可欠の要件であり、真の恒久平和は全人類の普遍の願いである。

 我々は、国連憲章及び日本国憲法の理念に基づき、世界の恒久平和を念願し、平和主義の原則を掲げ市民が安心して住める文化の香り高い都市として発展するための努力を続けているところである。

 しかるに、世界の核兵器は人類をはじめ、すべての生物の生存に深刻な脅威を与えている。去る第二次世界大戦においては、広島に原爆が投下され全世界唯一の被爆国となり、かつ我が国において唯一の地上戦を体験した我々は、核兵器廃絶、恒久平和をノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキ、ノーモアオキナワと訴え続けていくことが、人類はじめ地球上すべての生物の生存と世界平和が実現するものと確信する。

 よって、我々はすべての核兵器保有国に対して、核兵器をただちに廃絶し、全人類が平和的な共存共栄の道を踏み出すよう強く訴え、ここに本市は、生命の永遠の存在と平和のため全世界の人類に「非核平和都市」を豊見城市民の名において宣言する。

平成元年10月5日  沖縄県豊見城村
(平成14年4月より豊見城市)
【豊見城市ホームページより】

核兵器廃絶・平和宣言

 生命の尊厳を守るために取り組まねばならない現代世界における最大の課題は、いうまでもなく「核兵器」の問題である。日本は、核兵器の惨害を広島・長崎に受けた国であり、40余年経た今日なお被爆症状に苦しむ人々は後を断たず、核の脅威を最も知る国民である。又、凄絶な地上戦を体験した沖縄県民は、戦争の破壊作業と惨さを知り尽くした民族である。二度と繰り返してはならない「悲惨な戦争・核」の廃絶は人類共通の願いである。だがしかし、核による生命絶滅への脅威は益々広がりを示している。

 IFN全廃条約など一部を除いて、核の拡散は進行し、一切の生命的存在を絶滅して余りある。この止めどない核拡散の状況に歯止をかけ、核実験禁止・核兵器廃絶を実現するために、心ある県民の強い願望は広がっており、各自治体においても「非核平和宣言」を実施せよ、との声は日増しに高まっている。あらゆる自治体が「非核平和宣言」を実施していくならば、必ずや人類の未来に大きな命運を切り開くことができるものと確信する。

 沖縄の美しい自然 ・ 緑 ・ 珊瑚礁、そして人間を二度と破壊してはならない。「生命の尊厳」を守る観点から、あらゆる思想・信条の相違を越えて、人類的立場で核廃絶を願い、恒久的平和を目指して、本会議は、ここに「核兵器廃絶・平和宣言」を決議する。

平成元年10月5日  沖縄県豊見城村議会
(平成14年4月より豊見城市)
【豊見城市ホームページより】

参考文献
『豊見城村史』第六巻 戦争編 豊見城村市役所 2001年3月30日
『豊見城市の戦跡』(再版) 豊見城市教育委員会 2016年11月
『語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶 映像資料ハンドブック』
豊見城市教育委員会 2019年5月28日
『沖縄県史 各論編 6 沖縄戦』 沖縄県教育委員会 2017年

防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 沖縄方面海軍作戦』 朝雲新聞社 1968年
『豊見城市ホームページ』より
戦争体験談映像
「語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶」 豊見城市教育委員会 平成31(2019)年3月
展示会
  • 豊見城市歴史民俗資料展示室
     「慰霊の日関連展示会」 毎年5月中旬〜7月初旬に開催
  • 豊見城市立中央図書館
     「慰霊の日関連行事」 毎年6月 パネル展、上映会、平和講演会を開催
  • 企画調整課
     「沖縄戦写真パネル展」 毎年6月 豊見城市役所にて写真パネル展開催

交流事業
  • 「豊見城市・広島県大竹市中学生平和交流事業」
    事業目的
     未来を担う青少年たちが、戦争のない社会など「生命の尊厳」社会を築き上げるため青少年自らが平和をテーマと様々な学習を通して、平和の尊さを改めて理解することなどを目的とする事業。
    対象者
     市内在住・在学の中学1年・2年生

情報提供:豊見城市教育委員会文化課

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