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伊平屋村における戦災の状況(沖縄県)

伊平屋村の地理的位置

 本村は、琉球王朝以来、隣村の伊是名村と合わせて「伊平屋村」と呼ばれていた。昭和14(1939)年に分村し、伊平屋島と野甫島の二島で伊平屋村となった。那覇市の北西117kmに位置し、伊平屋島の南端に北緯27度線が通っている。奄美大島も含めた琉球列島の中琉球の地理的な中心付近にあり、快晴の日には、北は与論島から南は、伊是名島、伊江島、沖縄本島の中部付近まで見渡せる位置にある。

1.戦災の概況

 昭和20(1945)年6月3日の午前に伊平屋島南東沖から米軍の艦砲射撃が始まった。数時間に及ぶ射撃の後、島の中央付近から上陸が始まった。艦砲射撃と機銃掃射で40人余の住民が命を落とした。

 住民は抵抗しなかったため戦闘はその日のうちに収束し、2日後の6月5日には島の北部の田名地区に全島民が収容された。米軍の駐留は11月まで続き、その間に島内の最北端部にレーダー基地、中央部には飛行場を設置するなど戦時体制下での捕虜生活が続いた。

2.村民生活の状況

 昭和19(1944)年10月10日の那覇市一帯に空襲があった日に、村の輸送船である伊平屋丸が那覇港で沈没した。これにより、沖縄本島からの物資の輸送が大幅に制限された。以前から、食糧増産に取り組んでおり、島内で生産できるものに関して不足することはなかったが、本島からの輸入に頼っていた物資は不足した。

 この後、伊平屋村も空襲が激しくなり、田畑の作物を育てることが困難な状況になった。

3.戦災の状況

 日本軍の基地は村内になかったため、住民は米軍の上陸はないものと思い込んでおり、上陸は予想外であった。そのため、米軍の艦船が伊平屋島に接近した際には、多くの住民が日本軍と勘違いし、海岸近くへ見物に集まっていた。

 昭和20(1945)年5月には沖縄本島の状況を分析し、上陸があった場合は白旗を上げて降伏することを島内の集落代表者同士で取り決めていた。

 実際の上陸時には、住民は大混乱したが、概ね取り決め通りの行動をした。

4.復興の歩み

 昭和20(1945)年の11月に米軍は伊平屋島からひきあげた。住民はそれぞれ住んでいた集落に戻り、家屋の建て直しなど復旧に取り組んだ。

5.次世代への継承

 次世代への継承として、昭和44(1969)年より伊平屋村慰霊祭を6月3日の米軍上陸の日に実施している。慰霊祭では、恒久平和と不戦を誓い、遺族会のほか小中学生も参加し『月桃の花』を斉唱する。また、各学校で平和学習に取り組み、艦砲射撃跡の見学や平和集会を行っている。

 今後の課題は、遺族会も高齢化し、代替わりによる戦争の記憶が風化することである。


戦争で子を失った親の心情をうたった石碑(伊平屋村所蔵)


毎年、伊平屋村に米軍が上陸した日(6月3日)にいへやの塔に於いて慰霊祭がしめやかに行われ、恒久平和と不戦を誓う。(伊平屋村所蔵)

慰霊祭の様子


遺族会の高齢化に伴い、次世代に継承していくことが今後の課題である。(伊平屋村所蔵)


いへやの塔付近にある砲弾の跡、当時の艦砲射撃の凄まじさを後世へ伝えている。(伊平屋村所蔵)

参考文献
『伊平屋村史』 諸見清吉 伊平屋村史発行委員会 1981年
『前泊字誌』 字史編集委員会 伊平屋村前泊区 2002年

情報提供:伊平屋村住民課  
伊平屋村教育委員会

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