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久米島町(旧具志川村・仲里村)における戦災の状況(沖縄県)

1.久米島戦争関係年表(久米島町史資料編1久米島の戦争記録より抜粋)

 沖縄本島で、牛島満司令官や長勇参謀長ら第32軍首脳が昭和20(1945)年6月22日(諸説あり)に自決してから4日後の6月26日、米軍は久米島の攻略を開始した。下記の年表は、米軍の久米島上陸の日から、久米島島民を虐殺した日本海軍通信隊(鹿山隊・俗に山の部隊という)が投降し、郵便業務が再開するまでの出来事を「久米島具志川村警防日誌」他、いくつかの日記・戦記から記載している。

昭和20(1945)年
月日 内容
6月26日 午前八時、仲里村イーフ浜に米軍無血上陸する。村民へ避難命令を出す。島民は皆山の奥へと避難する。山の部隊の2名、喜納副団長と共に仲里、真我里方面まで斥候に行く。真我里より向うには前進不可で銭田より謝名堂まで米軍は相当侵入した模様
6月27日 7時頃、米軍、山城を越え儀間に侵入と連絡あり。直ち電話も取除く。8時20分頃、伝令幸地昌南と2人斥候に出す。20分後米軍射撃の音、大田辺りに聞える。村内に侵入したとの報、警防本部も解散。各伝令は退避指導と今後の連絡に注意する。米軍は戦車3台外自動車にて県道を仲地、具志川、大原、北原へ廻る。兵は各戸の家宅捜査をする。有線電信保守係安里正次郎、山の日本軍に殺される
6月28日 米軍は時を移さず各字ヘ侵入。大した状況変化なし。儀間と鳥島と上田森に米国旗が立てられる。米兵670人、仲村渠明勇を案内にして、各戸各方面を捜査した模様。当方避難所は近辺余り騒々しくて、又戦車襲来を誤認し山藏高地へ退避。北原の住民、比嘉亀等九名、山の日本軍に殺害される
6月29日 仲泊の住民が白瀬川上流ウチゲンナーで米兵70余名に遭遇する。米軍の捕虜となった字西銘の仲村渠明勇が住民に、米軍は良民を害しないから安心し下山をするように説く。続々と下山する者多し
6月30日 米兵50人位兼城より道路を上へ登り、又同じ道を帰る
7月 1日 午前7時より字具志川仲村渠方面より大岳山、ウフクビリ山上へ向け火砲、機銃射撃あり。盛んに日本軍陣地へ打ち込んでいるが日本軍陣地からは応戦なし。元陸軍二等兵渡辺憲央、高橋二等兵が米軍の捕虜となる。久米島捕虜第1号
7月 2日 午前中、山兵舎方面に銃砲声有り。浜川村長、小城山にて米軍に射殺される
7月 3日 字仲村渠方面より、大岳山上へ向け迫撃砲にて猛攻しているが、山上よりは何等応戦なし。浜川村長、本日発見、埋葬する
7月 4日 壕生活。度々西北方、北原方面に火砲の音あり、東南儀間方面に銃声あり。米軍の施設工事着手か
7月 5日 午後、小港で戦闘あり。米兵4,5、日本軍戦死2(内田兵曹、義勇隊員仲宗根寿戦死)。久米島の戦争では、これが唯一の戦闘
7月 6日 鹿山兵曹長、住民を脅迫する。「若し退山する者は米軍に通ずる者として殺害すべし」という宣伝をしたため、下山する者なし。米軍、北原仮飛行場より発着する模様。本日より本部を山里殿内に置く
7月 8日 各字の伝令、不実行の字が有るので、上江洲より上の部落は上原氏に依頼。西銘、仲泊、鳥島、大田、兼城の避難所を巡り、区長、班長に会い注意する。[久米島具志川村警防日誌]
山手に近い部落は鹿山の危害を恐れ、退山に躊躇していたが平地部落では多く下山し、自家に帰っている者が多い。米兵が婦女子を恥かしめるといううわさが広がり、一般婦女子は再び山へ退避する
7月 9日 鳥島と上江洲の青年、真久保において銃殺される。逃げたためだという。米軍、宣伝ビラを播く
7月10日 夜、各字区長、警防班長を本部に召集、打合せする。各自宅へ引揚時期、青年男女の避難、本部への連絡、其の他、今後の動静等並びに増産について
7月12日 米軍、上田森のふもとに幕舎等を造り、物資を集積する
7月14日 仲里で軍政村長、與座氏就任する。米兵、裸のまま民家を荒しまわる。住民再び山へ避難騒ぎあり。
米軍、久米島の仲里村でニミッツ布告を読み上げる
7月15日 役場の戸籍簿避難を相談、深夜役場まで出頭する。米軍、上田森陣地一層堅固を加える。米兵、空家を荒らし家畜家禽を害する者多い
7月16日 夜本部に各字班長を召集する。打合せの最中、米軍斥候に射撃され、来所中の日本軍歩哨1人負傷する。本部、本日限り山里殿内を引き揚げ、今後、連絡所を五枝松と決める
7月17日 本日より各字は連絡所を五枝松に定める。ラジオ受信始る。学校前の米軍兵舎に電探施設できる
7月18日 各字稲刈り始る
7月19日 前原ヌールマーチ畑並びに西銘ハンタ牛闘場に幕舎を造り、高射砲のようなものを備える
7月20日 米軍の要求で区長会あるが、まとまらず。礎田辻及びハンタの2カ所に新陣地を敷く。これで西銘は3カ所の陣地に囲まれた。各字の住民、大体字内に帰る。各字増産に励む。苗代の準備もなす
7月22日 本日、米軍の手によって初めて村会、区長会が召集され、安村仁秀、村長に任命される
7月23日 米艦2隻港内に入る。ダルマ山へ砲射撃。村会並びに村長より米軍へ、治安維持や大原での飛行場建設予定について、質問要求事項をまとめる
7月24日 米軍の久米島部隊総指揮官の少佐と村会区長会の会合。治安維持に関し米少将よりの布告あり
7月26日 夜、米国の輸送船、駆逐艦3隻に護衛されて入港、物資人員陸揚げ。交代のため、黒人軍来る。仲泊、鳥島、嘉手苅、具志川、仲村渠の若者を、米軍が学校前まで連れてゆき、非常調査する。大原、北原、嘉手苅、儀間も一斉調査。取り調べの結果、具志川より友軍3名(負傷兵)捕えられる。検査後、午前中作業をさせて帰される。米軍には民政部もあり憲兵の配置もあるが、治安は治まらず
7月27日 山の兵隊、山より下りて村内民家へ分散する。具志川城側の避難所に負傷者2,3名。字兼城徳門の新里某及び字山里の新里林野委員の2名、逃走しようとして射殺される
7月28日 最初の米軍は戦車等を積んで午前3時輸送船で出港。山の兵分散、具志川より阿嘉まで分隊をつくり待機させる
7月29日 午後、米軍輸送船1、掃海艇3、前の港外に碇泊、小船1入港。本日より西銘事務所に米軍の憲兵2,3詰める
7月30日 米軍、各陣地より試験発射をなす。米輸送船2隻、哨戒艇4隻港外に碇泊
7月31日 港外に碇泊中の米軍船団、本日未明出港
8月 1日 仲里村の駐屯米軍は全部引き揚げた模様。各字、相当落ち着き、増産に励む
8月 2日 区長議員の会合あり。軍政村長、安村仁秀正式承諾する
8月 4日 8月2日の村会にて安村仁秀村長となり、助役1、吏員1、元老3を置き、農業会長兼職することを約す。各字、稲刈りなど相当進む
8月 5日 新村長、仲泊の吉永産婆宅に仮事務所設置。旧吏員の会合あり
8月 6日 本日より米軍要求により、施設に対する出扶始る。9時頃煙幕全島を覆う。油船の撃沈か。午前、鳥島で屋宜巡査と打合せ。友軍上陸時処置、敵本島引揚時の心構え、敵に対する心構え等警部補と打合せる。全員一致歩調を取る様依頼[久米島具志川村警防日誌]
8月13日 午後1時 曙旅館(仮の役場)に議員、区長、吏員、職員、有志、警官、郵便局員等百余名集合。米軍大尉、軍布告を伝える。田植え始まる
8月14日 米軍、学校でサイレンを鳴らし山の方へ射撃する。約30分
8月15日 役場で日本無条件降伏の状況をラジオにて、村民に聴取させる
8月17日 朝六時に村民集合あり。安村村長、村長就任の理由と日本の無条件降伏のいきさつを話す
  ウィルソン少佐、住民の生活安定を図るため、労賃を支払うから、労務を提供してほしいと(日付不詳)
8月18日 字西銘の仲村渠明勇と妻子3名が、日本軍により仲里村字銭田で殺害される
8月20日 字上江洲に住んでいた朝鮮人谷川昇夫妻と子ども5人を含め一家7人が、スパイの疑いにより、日本軍に虐殺される
8月22日 昨日来、米軍、引き揚げ準備か、各陣地とも取片付け。砲類の配置を取り運搬準備をなす。西の海に20数隻の米船望見される
8月23日 米軍輸送船3隻入港、大型輸送船1隻、沖まできてボート13下ろして西へ去る
8月27日 米軍の要求により安村村長辞職。後任は選挙を行い、上江洲智樹暉選任される。仲里村も村長切り替えで、仲原善永就任する。役場で両村の教育問題について打合せ会あり
8月28日 米輸送船4隻港内に入る
9月 1日 勅語を奉持した日本将校1人、那覇より来る。山の日本軍残兵に降伏を命ずる。これにて鹿山兵曹長は役場で勅語を奉読し米軍人同伴にて去り、更に陸軍残部隊の集合を待ち、来る6日字仲村渠に於いて米軍の処置に従う旨談合する
9月 2日 午後、役場で両村の区長集合。米軍と鹿山隊長、常信号長、航空少尉3名列席、降伏調印する
9月 4日 午前中、黒人兵取り締まりの件で打合せあり[具志川村農業会長]
9月 5日 黒人兵取締りに関し、米軍側に交渉する。鹿山兵曹長、農業会事務所へ来訪、投降の挨拶をする。米軍へ出扶。
9月 6日 西銘区長宅で、黒人の犯罪取り調べに立会し、その後の取り締りに関して意見交換をする[具志川村農業会長]
9月 7日 久米島に駐屯していた日本軍は通信部隊の外、不時着した特攻隊の搭乗員及び慶良間より避難して来た軍属その他最終応召兵引き取のため派遣されて来た渡辺上等兵等を加え、40余名の兵員が米軍に降伏、調印終了。米軍陣地に収容された
9月 8日 米軍の一部と投降した日本軍人全部、久米島を去る。ハンタ、礎田辻の陣地引き揚げ
9月10日 教育は当分各字事務所で臨時に児童を集合し準備教育をしながら前途を見ることに決定する
9月17日 米軍へ出扶。11時頃までハンタで待ち、自動車にてハンニーに行き、直ちに昼食、午後は引越し、物資の積込み。米軍の飛行機便で本島より手紙がくる
9月25日 米軍の指示により、各字の公民館を分教場として、戦後の教育を再開する。具志川村は、四区に分ける
10月 1日 米軍の指示により、久米島郵便局再開。郵便切手を発行する

※この年表は、「久米島町史資料編1久米島の戦争記録」に収録された資料、及び『久米島具志川村史』、『沖縄県史沖縄戦記録2』『同各論編5・6』等を参照して作成したものである。

2.次世代への継承

 平成14(2002)年4月に旧仲里村と旧具志川村が合併し久米島町が誕生した。それまでは、旧村ごとに慰霊祭を開催していたが、平成17(2005)年に戦後60周年と両村合併を記念して両村の慰霊碑を上田森に合祀した。沖縄戦の犠牲になった多くの御霊を弔うため、記念碑に刻まれた氏名は1,119名でそのうち虐殺による犠牲者が20余名となっている。

 毎年6月23日の沖縄慰霊の日に合わせて「久米島町慰霊祭」を開催するとともに、沖縄戦や久米島で起きた出来事、歴史的教訓を正しく次世代の子どもたちに伝え、命の尊さや平和の大切さを学ぶ企画展や沖縄戦当時の久米島について学習する「平和学習会」を開催している。

 戦争体験者が減り、貴重な体験談を後世に残す取組として町では、「久米島町史資料編1−久米島の戦争記録−」を令和3(2021)年に刊行し70件あまりの戦争体験を収録している。

参考文献
『久米島町史資料編1−久米島の戦争記録−』 久米島町役場 2021年
『久米島の沖縄戦』 大田昌秀 2016年

情報提供:久米島町教育委員会久米島博物館
久米島町福祉課

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