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八重瀬町における戦災の状況(沖縄県)

1.部隊の配備状況

 昭和19(1944)年3月22日、沖縄防衛を目的として第32軍が創設され各地に部隊が配備された。旧東風平村及び旧具志頭村(現八重瀬町)においては、当初第9師団(武部隊)が配備され、学校やムラヤー(公民館)、民家を接収して宿舎として利用した。配備部隊は防衛のために陣地壕などを構築していった。これらの陣地構築には部隊人員のみでは作業が進まないため、住民を徴用し小学校高学年までもが動員された。また、徴用のみならず、食糧や資材などの供出も頻繁に行われた。

 昭和19(1944)年10月にレイテ沖海戦において敗戦した日本軍は、同年12月上旬、台湾防衛のため第9師団を抽出することとなり、第9師団の代わりに中頭に配備されていた第24師団(山部隊)が八重瀬町域に配備されることになった。

2.町民生活等の状況

 当時の町民生活は戦時意識の高揚のために、国や軍からの指導の下、一致団結して戦時体制に取り組んでいった。それに伴い、各支部で大政翼賛会が結成されると町村長会や在郷軍人会、婦人団体、青少年団、産業団体などが加わり国家総力戦体制を築き上げていった。

〇満州先遣隊

 昭和6(1931)年に起こった満州事変で日本は中国東北部を占領し、「満州国」を建国した。政府は建国間もない満州国への移民を各地で募集していった。沖縄県は昭和14(1939)年から移民を呼び掛け、昭和18(1943)年2月、県知事の命令で旧具志頭村は「満蒙開拓団」を組織し、応募があった青年49人を派遣した。しかし青年49人を乗せた湖南丸は、同年12月21日に米軍潜水艦の魚雷を受けて沈没し、全員が死亡することとなった。

〇徴用、食糧・金属供出

 各地に部隊が配備されたことにより、軍は陣地構築のため住民を徴用し、労働力不足を補った。しかし、徴兵で男手が不足していたため婦人会、青年団、学生等を動員して対応した。

 また、軍は市町村を通して各集落に食糧の供出を割り当て、住民は食糧不足で苦労するなか、芋や野菜類、豚、牛などの家畜を供出した。さらに、戦争の長期化で、武器・兵器の生産に必要な金属資源が不足したため、政府は昭和16(1941)年に金属類回収令を発令した。その結果、全国各地で銅像や寺の鐘のほか、金属製の生活雑器までも回収されるようになった。当時、旧東風平村の明治記念運動場に建立されていた謝花昇の銅像や、具志頭国民学校の二宮金次郎の銅像も同様に、肩から赤いタスキをかけられ供出された。

3.空襲等の状況

〇10・10空襲

 昭和19(1944)年10月10日の早朝、米機動部隊による艦載機が南西諸島全域を空襲したが、10・10空襲は八重瀬町域には直接的な被害は生じなかった。そのため、八重瀬町域の住民は、編隊を組み爆音を鳴らす飛行機をみて日本軍の演習だと勘違いし称賛したという。10・10空襲以降は米軍上陸まで散発的に空襲があった。

〇列車爆発事故

 昭和19(1944)年12月11日、当時、軍事優先で運営していた県営鉄道(軽便鉄道)は、第24師団が中頭から島尻へ移駐する際に利用していた。兵士や女学生、軍需品を積載していた列車は、稲嶺駅(現南城市)近くで大爆発事故を起こした。機関室からあがった火の粉が、積載されていたガソリンに引火したことが原因であった。事故による遺体や、負傷者は、東風平国民学校の第24師団第一野戦病院や、南風原国民学校の沖縄陸軍病院に運ばれた。

 犠牲者のうち2名は、旧東風平村と旧具志頭村出身の第二高等女学校の学生であったが、爆発の衝撃により、一片の骨すら残らなかった。

4.疎開

〇学童疎開

 八重瀬町から九州への学童集団疎開は、昭和19(1944)年8月31日に東風平国民学校が宮崎県へ学童149名、同年9月8日に具志頭国民学校が大分県へ学童49名を送り出した。疎開は学童たちだけでなく、引率教員、世話人、一部の関係者家族もともに那覇港から出港した。学童達は疎開先の国民学校に編入され、寄宿先として学校内の教室等施設、公会堂(現在の公民館)、青年学校、寺、旅館などに寝泊まりして生活した。

〇北部疎開

 10・10空襲以降、米軍上陸の可能性が高まったことで、軍は中南部一帯で戦闘を行うことを想定し住民を北部に立ち退かせるよう県に要請した。この要請は住民の安全を守るためのものではなく、地上戦の激化が予想される中南部では、足手まといとなる老幼婦女子を北部に移動させることが目的だった。計画当初、旧東風平村、旧具志頭村はともに金武村(現金武町)に割り当てられていた。しかし、旧東風平村の区長などの証言から、旧東風平村は金武村ではなく、実際は久志村(現名護市)が疎開地として割り当てられたようだ。昭和20(1945)年3月23日の空襲、24日の艦砲の被害が多くなってきたことで、北部疎開をする住民が多くなっていった。

5.戦災の状況

 昭和20(1945)年3月23日、沖縄本島地区は米艦載機からの空襲を受けた。この空襲により具志頭国民学校、役場等が全焼した。連日米軍からの砲撃等があり、特に八重瀬町の港川海岸から米軍が上陸してくると想定していた日本軍はその対応に追われた。しかし、その後4月1日に読谷村から米軍が上陸した。

 4月26日、軍命によって八重瀬町域に配備されていた部隊は、首里北側の西原地域の前線に移動して戦闘を行ったが敗退の一途を辿ることとなる。5月中旬頃からは、運玉森の主力部隊として米軍との激しい戦闘を行ったが壊滅的な打撃を受けた。5月末頃から首里にいた司令部が撤退したことで、日本軍は具志頭から玻名城、八重瀬岳、与座、大里、国吉丘陵、真栄里と、司令部の前方に新たに防衛線を敷いた。6月上旬には米軍が侵攻し一進一退の攻防が続いた。しかし、6月14日頃には八重瀬岳が占領され、6月15日頃には八重瀬町域に配備していた部隊が壊滅した。

6.復興のあゆみ

 終戦後、八重瀬町民は、米軍による投降勧告に応じるなどして、米軍に捕らわれ沖縄本島中北部や玉城村(現南城市)百名・新原、知念村(現南城市)カチャバル・志喜屋等の収容所で生活を送っていた。

 昭和20(1945)年10月23日、米軍が「住民再定住計画及び方針」を発布したことで、帰村の許可が下り、各地の収容所で生活を送っていた人々は帰村の準備を始めた。しかし、発表当初は、八重瀬町は米軍の開放地区に入っていなかったため引き続き収容所で待つことになった。旧東風平村民と旧具志頭村民が帰村出来たのは、昭和21(1946)年1月以降からで、帰村の準備を行うため先遣隊を組織した。日中は先遣隊を派遣して各集落の整備を行い、夕方以降はそれぞれの収容所に戻る生活を行った。旧具志頭村民の完全な帰村の許可が下りたのは昭和21(1946)年3月で、6月には具志頭村民の帰村が完了した。

 また、旧東風平村民の帰村の許可が出たのは、昭和21(1946)年6月頃である。旧東風平村の中でも字富盛・世名城・高良・東風平は米軍の弾薬集積所があったことで、他の集落と比べて帰村に時間を要することになった。最終的に昭和25(1950)年4月になってすべての集落で帰村が完了した。

参考文献
『復興記念誌』 東風平村
防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』 朝雲新聞社 1968年
『具志頭小学校創立百周年記念誌』 創立百周年金事業期成会 1982年
『平和への道しるべ−白梅学徒看護隊の記録−』 白梅同窓会 1995年
『東風平町史−戦争体験記−』 町史編集委員会 1999年
『東風平町史−戦争関係資料−』 町史編集委員会 1999年
『具志頭村史 第二巻 通史編 歴史編・教育編・沖縄戦編』 具志頭村史編集委員会 1991年
『沖縄県史 各論編6 沖縄戦』 沖縄県教育委員会 2017年
『南城市の沖縄戦 資料編』 南城市教育委員会 2020年
『八重瀬の沖縄戦資料収集調査事業調査報告書』 八重瀬町教育委員会 2021年

情報提供:八重瀬町教育委員会 生涯学習文化課

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