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南城市における戦災の状況(沖縄県)

1.南城市の戦災の概況

 南城市は沖縄本島南部の東海岸、那覇から南東約12キロメートルに位置し、中城湾と太平洋に面する。沖縄戦当時は玉城村、知念村、佐敷村、大里村(昭和24(1949)年に分立した与那原町域を含む)の四村であった。米軍は昭和20(1945)年4月1日の上陸後、5月中旬には市の西側内陸部に位置する大里村に達し、順次侵攻した。南城市域では上陸前からの艦砲射撃や空襲により被害を受けたが、5月下旬から6月上旬にかけては、日米両軍ともに南城市の大部分を含む知念半島を非戦闘地域にすることを決定し、半島各地に多くの民間人収容所が開設された。ただし、大里村においては、南下する日本軍と米軍が衝突し激戦地となり、また大里村や玉城村の住民には南部方面へ移動した方も多く、死者が多数出ている。

2.村民生活の状況

(1)学童疎開・一般疎開

 南城市内では、佐敷、玉城、大里第一(現 大里北小学校)の三つの国民学校が九州(熊本県、大分県、宮崎県)への学童疎開を実施した。学童と引率関係者を合わせ、佐敷国民学校から計375人、玉城国民学校から計170人、大里第一国民学校から約90人(名簿が見つかっていないため正確な人数は不明)が疎開した。疎開地では、寺院や旅館などで共同生活をしながら地元の学校に通った。昭和21(1946)年10月に沖縄に帰るまでの約2年間、親元を離れて九州で生活した。


写真1 大里第一国民学校の学童が一時生活した福音寺(熊本県八代市東陽町 戦後)(南城市教育委員会提供)

 家族または個人でも沖縄県外や台湾へ疎開した。一般疎開地も上記の九州3県であり、なかでも熊本県が約6割を占める。昭和19(1944)年8月の疎開船対馬丸の遭難者には南城市出身者が12人含まれている。そのうち一般疎開で乗船した渡名喜家5人は、佐敷村出身で県庁職員だった渡名喜元秀(後に佐敷村長)の妻、子らであった。渡名喜は家族を疎開船に乗せたことの後悔など当時の悲痛な思いを日記につづっている(『南城市の沖縄戦 資料編』201頁掲載)。

 台湾へは玉城村から45人、佐敷村から6人が疎開した。台湾では、再三にわたる空爆、政府からの援助打ち切りによる食糧不足、さらにはマラリアが猛威を振るい疎開者を苦しめた。

 南城市域住民のヤンバルへの疎開は、県によって割り当てられた疎開地、金武村(現 金武町、宜野座村)であった。金武村でも空襲、食糧不足により住民が亡くなった。

(2)日本軍の配備

 昭和19(1944)年の夏以降、沖縄に日本軍が続々と転進してきた。南城市には同年夏頃から11月にかけて武部隊(第9師団)、12月から翌年1月にかけては石部隊(第62師団)、2月から4月にかけては球部隊(独立混成第44旅団)が駐屯した。南城市は県内市町村でおそらく最も多く日本軍の「陣中日誌」が残っている地域と思われるが、そこからは駐屯した軍と住民との関わり(動員、供出、訓練など)が読み取れる。玉城村の玉城国民学校には昭和19(1944)年12月から翌年1月まで、第62師団独立歩兵第15大隊が本部を置いた。その「陣中日誌」の中に校舎利用図があり、これによると校舎内の教室が部隊長室や下士官室、兵器物置、医務室、経理室などに利用されたこと、校門に衛兵が立っていたことなどがわかる。

 昭和19(1944)年12月11日、大里村の県営鉄道稲嶺駅付近で、走行中の列車が大爆発を起こした。当時、県営鉄道は軍事優先の運行が行われていた。この日は屋根のない貨車に軍の弾薬やガソリン入りのドラム缶が積まれ、機関室の火の粉がガソリンに引火、弾薬にも引火したことが大爆発の原因となった。列車には兵士約200人、女学生らも乗り合わせていたが、200名以上が死亡したとされ、現場に接する集落には遺体片が飛び散った。多くの弾薬や物資を失った軍は、事故を不祥事として、住民には箝口令が敷かれた。


写真2 列車爆発地点(2020年)(南城市教育委員会提供)

3.戦死者の状況

 南城市域では北西に位置する大里村が最も早い段階で戦場となった。米軍は5月13日には運玉森(与那原町と西原町の境界にある山)の頂上近くまで進出し、大里村でも日本軍と衝突しながら南下した。大里村民は沖縄戦で4,059人が死亡した(与那原町域含む)。その中でも多くの人が村内で死亡しており、死亡時期は5月下旬から6月が多い。このことからも大里村が激戦地であったことがわかる。また日本軍の南下とともに、南部方面へ避難した住民も多く、与那原町域を除いた大里村民に限ると真壁村(現糸満市)で最も多くの方が死亡している。知念村は994人、佐敷村は1,352人、玉城村は1,982人が戦死した。いずれも村内での死亡者数が最も多い。とくに知念村では村内での死亡者が約53%であり、南部での死亡者は少ない。知念半島の東側に位置する知念村は、5月下旬以降の米軍による半島制圧により、南部へ避難する住民が他村と比して少なかったためと考えられる。玉城村では前川、富名腰(船越)で死者が多く、いずれも村の西側に位置し、大里村と同様に、南部へ撤退する日本軍や避難民の通過地域である。

 日本軍の組織的戦闘が終了した7月以降も、知念地区および北部の久志地区や瀬嵩地区といった、収容所のあった地域でも多くの住民が栄養失調やマラリアで死亡した。

4.知念半島における収容所

 昭和20(1945)年6月以降、米軍は知念半島に進出、制圧し、知念半島各地に民間人収容所を設置、知念半島や南部戦線で投降した避難民を次々に収容した。南城市域では6月初旬から中旬にかけて、約18か所の収容所が開設された。

 玉城村百名の収容所は6月5日に開設された。百名収容所はとくに規模が大きく、警察署や病院、劇場、学校、孤児院、養老院が設置された。孤児院、養老院は昭和22(1947)年1月には他の孤児院・養老院との統合により百名養護院となった。翌年2月27日付「うるま新報」によると、この当時で56人の寄宿生がいたとされる。百名養護院は昭和24(1949)年11月に首里の沖縄厚生園に統合された。


写真3 米軍撮影「男子寮のベッドの端に座る百名孤児院の男児(1949年3月14日)」(沖縄県公文書館所蔵)

 収容所では人々は焼け残った家屋や米軍が設置したテントに収容されたが、一つの家屋やテントに数世帯から数十世帯がひしめきあって暮らす有り様であった。そこに入れず、家畜小屋や道端で暮さざるを得なかった人も大勢いた。

 収容所では日本兵による襲撃や米兵によるレイプも多発した。昭和20(1945)年7月19日、知念村久手堅の収容所では、近くの森に潜んでいた日本兵7〜8人が事務所となっていた民家を夜襲、食糧を奪った。襲撃の際の銃撃で民間人数人が重傷を負い、うち1人は後に死亡した。昭和20(1945)年11月29日には、玉城村富名腰二区で女性が米兵に拉致され、駆けつけた沖縄人警察官1人が米兵に撃たれ死亡した。

 また、中南部における米軍の軍事拠点建設などの目的のため、昭和20(1945)年7月から8月にかけて知念半島のいくつかの収容所にいた人々は強制的にヤンバルに移動させられた。そこではマラリアが猛威を振るい、戦場で生き残った南城市の人々も多く亡くなった。

5.戦後の復興

 ヤンバル各地へ送られていた人々の帰還は、昭和20(1945)年10月29日に玉城村民237人が金武村から移送されたことに始まった。知念半島では米軍が未だ開放していない地域が多く、帰還してきた人々はいったん収容所に収容され、居住地が開放され次第、それぞれの居住地へ帰った。米軍の資料から昭和21(1946)年3月時点で、知念半島の収容所には本島北部から南部、外郭諸島出身の人々も多く収容されていたことがわかる。それらの人々も順次それぞれの郷里へ帰っていった。


写真4 米海軍撮影「沖縄本島の馬天港にある海軍作戦基地司令部。下士官用兵舎、赤十字用宿舎、食堂(1945年8月15日)」(沖縄県公文書館所蔵)

 米軍は知念半島を制圧後、佐敷村の馬天港に海軍の作戦基地司令部や船舶修理施設などを建設した。また、佐敷村新里、小谷、津波古の米軍高官の住宅地(通称バックナービル)をはじめ村内各地に米軍施設が建設されたため、佐敷村の人々が収容所から村に帰ることができたのは昭和21(1946)年3月以降であった。ただし津波古への帰還は認められなかったため、津波古区民は佐敷村屋比久などに一時収容されたのち、昭和23(1948)年11月にようやく帰還を完了した。

 住民による自主的な収容所運営を目指していた米軍は昭和20(1945)年9月には「地方行政緊急措置要綱」を制定、収容所を中心に12の市を設置した。これにより「知念市」が誕生し、ヤンバルへの移動をまぬがれた知念村久手堅、知念、具志堅、山里、志喜屋、玉城村百名が知念市の行政区として制定された。

 当時、知念市の社会教育主事であった本田清が編さんした『知念市誌』には、昭和20(1945)年6月から翌年1月までの市内の諸活動が記されている。8つの区、初等学校、県内初の高等学校である知念高等学校、6つの警察署が取り上げられているほか、養老院院長や区長の寄稿文、戦争体験記も収録されている。戦争により心身へ影響を受けた子どもらの様子や、日本兵や米兵による襲撃の状況なども記述がある。

 人々の移動に伴い、それまでの市の組織が現状にそぐわなくなってきたため、米軍は昭和20(1945)年12月4日、戦前の行政機構へ復帰すること、それまでの「市長」を「地方長」へと改める指令を発した。翌年4月1日には軍政地区が廃止され、同月4日には各市町村長が軍政府により任命され市町村制が復活、知念地区総務は知念市長だった親川栄蔵が引き続き就任した。また米軍の文書によれば、5月半ばには知念地区の収容所が閉鎖され、米軍政府の将校や下士官らも撤退した。同月16日には知念の地方庁は廃止され、各村政により戦後の復興へ始めた。ただし、玉城村の玉城一区、仲村渠二区の集落があった場所は、継続して米海軍、米国軍政府、米陸軍によって使用され、住民は周辺の集落や与那原などに移住せざるを得なくなった。通称キャンプ知念と呼ばれるこの基地は昭和46(1971)年にCIAの秘密拠点であることが判明、昭和49(1974)年には全面返還され、その後はゴルフ場となり現在に至る。

参考文献
『南城市の沖縄戦 資料編』 (第2版) 『南城市の沖縄戦 資料編』 専門委員会 2021年
『南城市の沖縄戦 証言編‐大里‐』 南城市教育委員会文化課市史編さん係 2021年
『玉城村史 第6巻 戦時記録編』 玉城村史編集委員会 2004年
『佐敷町史 4 戦争』 佐敷町史編集委員会 1999年
『知念村史 第3巻 戦争体験記』 知念村史編集委員会 1994年
『沖縄県史 各論編6 沖縄戦』 沖縄県教育委員会 2017年
 

情報提供:南城市教育委員会文化課

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