昭和20(1945)年2月10日、日本軍の要請を受けた沖縄県の島田知事は、6カ月分の住民食糧を確保することと、北部市町村に中南部住民の避難受け入れと避難者収容避難小屋の設置を割り当てた。県は土木課の職員を派遣し、名護に設営本部を設置して北部地元住民を動員して避難小屋を設営した。そのころになると、本土への疎開は全く不可能となった。こうして国頭村にも疎開者の割り当てが行われた。
昭和20(1945)年2月17日、国頭村長平良吉盛から各区長に対して疎開者割当通知が出された。合計1万7,889人を受け入れるようにとの伝達を受け、同年3月31日現在で5,072人が入村した。
国頭村民も昭和20(1945)年3月23日以降、昼は山野の壕に隠れ、夜は部落におりて食糧を調達した。避難民は疎開割当てを破って殺到し、国頭の山中の道は、人であふれていた。3月23日、島田知事の「人口課は老幼女子を国頭へ夜間移動する計画を速急に実施すること」の指示があったからである。国頭村へ避難する人たちは、身のまわりの品や食糧を荷馬車に積み、或いは背負い、慣れない山原の夜道をはぐれないように、ひとかたまりになって北へ北へと歩き続けた。
昭和20(1945)年、牛島司令官と長参謀長が自決し、90日に及ぶ日本軍の組織的戦闘は終わった。その後、米軍は掃討戦に入り、7月2日、沖縄戦の終了を宣言した。
しかし、沖縄北部の山中においては、地元住民をはじめ、疎開民たちが避難生活を続けていた。自主下山は、7月下旬から8月まで続き、その間、米軍の避難小屋捜索は続行され、強制連行がおこなわれた。
下山と同時に、所定の収容所に送り込まれた。その際、青年男子や働き盛りの男たちは、羽地の田井等収容所に送られ、米軍指定のいろいろな労役に就いた。
浜から辺土名までの7つの収容所では、米軍の食糧配給を受けながら、米軍の指揮監督の下で食糧増産の共同作業に駆り出される日々であった。8月に入って、収容所からの解放は徐々に進み、10月4日の奥住民の帰郷を最後に終了した。
沖縄戦における村内の戦争災害は、決して小さいものではなかった。比地・桃原・辺土名兼久・上島・宇良など5集落においては、少数の民家焼失はあったがほとんどの民家が被災を免れた。奥間・伊地・与那・佐手・宇嘉・奥など6カ字は、分宿すればなんとか字民を収容できるくらいの民家は焼け残った。
浜・鏡地・辺土名西平・謝敷・宇嘉・宜名真・辺戸・楚洲・安田・安波など10カ字の民家はほとんど全滅に近く灰燼に帰した。
各字における復旧状況は大同小異であるが、辺土名での戦災復旧の家づくりが始まるのは、昭和21(1946)年2月下旬ごろと推定される。昭和23(1948)年8月になって、米軍政府は町村売店を閉鎖し、食糧配給を停止する指令を出したことで、食糧売店は官営から民営に移行され、同時に個人企業の設立も自由化され、島内産の物資も自由価格で自由売買ができるようになった。それ以後の辺土名の戦災復旧は、長足の進展を見せながら貫屋茅葺き家屋の建築にとどまらず、赤瓦葺き家屋やセメント瓦葺き家屋の建築もはじまり、さらに加速していった。それから6年後の昭和29(1954)年5月29日、ハーリー大会や婦人会の七月モーイ、棒術演舞など盛り沢山の余興を織り込んだ“辺土名復興祭”が、村民大多数の参加のもと盛大に挙行された。
昭和35(1960)年10月21日、辺土名と上島の間の幸地原に国頭村戦没者慰霊之塔を建立。例年11月に国頭村戦没者秋季慰霊祭を執り行っている。
情報提供:国頭村総務課