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大宜味村における戦災の状況(沖縄県)

1.戦時下の村政

 昭和12(1937)年7月の日中戦争の勃発を境に日本国内は長期持久戦時体制に突入した。翌13(1938)年4月には国家総動員法が公布され、物資・労働・産業から国民の衣食住にいたるまで国家総力戦の遂行に集中されることになり、物価統制、消費節約、廃品回収、国民貯蓄、生活簡素化などの徹底によって“欲しがりません勝つまでは”の窮乏生活をよぎなくされることになった。

 大宜味村のような、いわゆる銃後農山村においては、(1)兵士の供給(2)産業戦士の供給(3)戦時食糧の供給、が三大任務とされていた。昭和17(1942)年7月1日に名護に国頭地方事務所が設置されたが、これは地方行政における戦時経済体制の強化を指導する県の下部機関である。また、翌18(1943)年6月に国頭職業指導所が国頭勤労動員署と改称されたが、これも国家総動員法にもとづいた労務動員計画を遂行するための機構強化の一つであった。

 だが、兵士・産業戦士の供給と食料増産とは相矛盾する課題であった。兵役と軍需産業への出稼ぎによって農業労働力は払底し、これが食料増産運動にブレーキをかけることになったからである。おまけに、物資統制によって肥料や農業資材はいちじるしく不足し、生活必需品も極度に切りつめられて、農業生産活動は縮小再生産に向かわざるをえなかった。

 昭和16(1941)年に太平洋戦争に突入した。昭和18(1943)年頃からは日本の敗勢は国民の目にも明らかとなり、物資不足と重労働は日に日に深刻さをましてきた。昭和18(1943)年夏ころから伊江村飛行場の工事が始まり、翌19(1944)年3月に第32軍が創設されてからは全島要塞化の軍工事に拍車がかけられた。大宜味村にも伊江村や読谷山の飛行場工場へ次々に労務徴用が割り当てられてきた。そのうえ軍用の食料や資材の供出が相次いだ。ただでさえ食料自給ができず、労働力不足に悩む村内の農家は、非常食糧の確保も不十分なまま、やがて昭和20(1945)年3月末からはじまる沖縄戦にまきこまれていったのだった。

2.疎開者受け入れ

 大宜味村に割り当てられた疎開者は総数10,247名、内訳は、那覇市1,529名、豊見城2,674名、高嶺920名、真壁912名、真和志4,212名、となっていた。当時の村在住人口をおよそ7,500名として、これに1万以上の人口を吸収するのは容易なことではなかった。まず、これを収容する住居の問題がある。新たに避難小屋を建設しなければならないので、村当局はこれを各部落会に割り当てた。部落常会ではこれをさらに各連合隣保班に割り当て、部落総出で建設作業を行うことにした。昭和20(1945)年2月19日を期して全村あげて避難小屋づくりにとりかかった。そして、21日から25日にかけて、指定疎開者が移動してきた。

 何より深刻だったのは食糧問題である。県からの飯米の供給は計画通りにはいかず、疎開者1人1日一合二勺の基準量もいつまで続くか予測がつかなかった。結局4月1日から5月20日までの50日分を一括配給してその後は打切らざるをえなかった。しかも、その対象者は県の割り当てによる指定疎開者が対象であり、その他の自由立退者や後から追われてきた避難民に配給する分はない。地元村民でさえ村の音頭でソテツ採集に参加しなければならない状態であったので、他に分け与える余裕はなかった。結局、米軍上陸を迎えて、ろくな食糧の貯えもないままに山中生活にはいらざるをなかった。かかる状況の中で、食糧をめぐる醜い争いが多発したのもやむをえない事情であった。もし沖縄戦があと一ケ月長引いていたら多くの餓死者をだしただろう。

 やがて、米軍の沖縄上陸を迎えて、村民も疎開者も一様に山中避難生活にはいった。しかし、せっかく村民あげて建設した避難小屋にも長くは滞留できなかった。避難小屋の地点まで掃討隊が徘徊するようになったからである。人々は山の奥へ奥へと逃げながら四ヶ月に及ぶ飢餓と病苦の日々に耐えなければならなかった。

3.避難生活

 昭和20(1945)年3月23日から米軍の沖縄攻略作戦の口火が切られた。沖縄全域に猛烈な爆撃が加えられ、翌日から南部方面で艦砲射撃もはじまった。伊江島はまっさきに空襲にさらされ、本村上空にも敵機が飛来して数十発の爆弾が投下された。空襲と共に村民はいよいよ山中へ避難を開始した。あらかじめ用意してあった各々の避難小屋に食料や家財道具を運び込んで空襲を避けた。しかし、26日から大宜味沖にも敵艦隊が勢揃いして大宜味から国頭に至る海岸線にさかんに艦砲射撃を浴びせてきた。はじめどの部落も避難小屋はなるべく部落の近い所に、しかも海岸に面した所に設定してあった。だから、艦砲射撃がはじまってみるとそこは最も危険な位置ということがわかった。住民の恐怖と混乱はその極に達し、一家荷物をまとめて山の奥へ奥へ退避していった。

 山奥へ追いつめられた避難民は水の便のある谷間に新たに避難小屋を設け、そこで数ケ月に及ぶ避難生活をはじめた。小屋と言っても木の枝で屋根をふいただけの掘立小屋で、しかも当時は長雨続きで、なかば水浸しの寝起きだった。不衛生な小屋の中ではシラミが湧き、やがて一部にマラリアも伝播した。たまに避難地区にも爆弾が投下されることもある。田嘉里のアカマタ山では避難小屋が直撃を受け多くの疎開者が犠牲になった。

 村では非常用飯米を各部落に分配して貯蔵させてあったが、ぎりぎり食いのばしても一ケ月もちこたえるのがせいいっぱいだった。6月にはいる頃にはどの家族も手持ちの食糧を食べつくしていた。近くの田畑にはすでに食べる物はなく、背に腹は替えられず、闇夜にかくれて敵の警戒線をくぐり部落内や海岸から食糧をあさってくるありさまだった。夜間だけでは間に合わず白昼部落に接近して米兵に射殺された者も少なくない。

 ソテツはむしろ主食であって、それさえ採りつくしてしまうと、あとはツワブキ、へゴ、パパイヤの茎など、山羊が食えるものは何でも食う、という状態だった。カエル、イナゴ、セミ、ハブ、ネズミなども貴重なタンパク源であった。

4.霊魂之塔

 大宜味村でも大正10(1921)年に忠魂碑が建立され12月13日に除幕式をおこなっている。大兼久川をまっすぐにする大がかりな川線変更工事を行った上での建立で、それ以降、毎年12月13日には、忠魂碑前で招魂祭が行なわれ、昭和19(1944)年まで続けられた。招魂祭では、奉納相撲や銃剣道の試合、運動会、原山勝負、女子挺身隊の結成式なども一緒に催されていたという。

 戦後になって、忠魂碑は軍国主義のシンボルとして県下各地で取り壊しの動きが広がる中、大宜味村の忠魂碑は昭和33(1958)年、裏返しにされて「霊魂乃塔」として生まれ変わり「慰霊祭」が11月から12月にかけて行われていた。

 昭和50(1975)年頃には、大東亜戦争の戦没者777名が合祀されていたが、終戦50周年の平成7(1995)年に刻銘版の改修が行われ、現在1,468人の名が刻まれている。

参考文献
『大宜味村史 通史編』  1979年
『新大宜味村史 戦争証言集 渡し番〜語り継ぐ戦場の記憶〜』 2015年

情報提供:大宜味村教育委員会村史編纂係

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