昭和19(1944)年8月、村に守備隊が駐屯した。運天港に海上特攻隊、白石、鶴田、山根の各隊の魚雷艇、特殊潜航艇、設営隊が配備された。各学校も兵舎として利用され、今泊区事務所には分遣隊が駐留し、住民を動員して陣地構築を進めていた。当時は、学校でも五年生以上の児童生徒が動員され、連日防空壕掘削の作業を強いられていた。2カ月後の10月10日、米艦載機が沖縄全島を襲撃し、今帰仁村も日本軍基地のある運天を中心に多くの被害を出した。運天港には第226設営隊の山根隊と第2蚊竜隊、それに第27魚雷艇隊の三つの部隊がいた。魚雷艇を格納する壕掘削に古宇利島の女性たちも動員された。その壕の中から海の方へ魚雷艇を運ぶレールが敷かれていた。
昭和19(1944)年10月10日の米軍機による大空襲によって、運天港は爆撃を受けた。同年8月から9月にかけて運天港に進出してきた第27魚雷艇隊(白石信治大尉)の魚雷艇18隻のうち、13隻が空爆で失われたが、後18隻まで戻した。
運天港の魚雷艇基地が米軍の爆撃で破壊された後、ゲリラ隊が組織され、嵐山や八重岳や多野岳などの山中を転々とし、白石部隊が旧羽地村(現在名護市)の古我知地区に投降したのは、8月15日をとっくに過ぎた9月3日のことだった。
写真は、昭和19(1944)年の伊江島飛行場建設に各地から動員された員数を記録したものである。メモの内容からすると「第502特設警備工兵隊」である。
ノートのメモは昭和19(1944)年5月23日から10月10日の空襲までのメモ書きである。伊江島飛行場建設に動員されたのは久米島・国頭・名護・屋部・羽地・金武・恩納・伊平屋・国頭女子挺身隊・伊江島・伊是名・本部からである。メモには総員先・動員数・人夫・馬車・草取り・芝植え・測量隊・松根掘り取り・池土掘り・北場方向滑走路・東飛行場へ移動などがある。10月10日のメモは以下のように記してある。
10月10日、午前7時頃 敵空50機来ル。撃サル。北西ニ逃ゲ、十四、五回機銃ショウシャヲ受ケ、ヨウヤク安全地ニ付ク、一夜ヲ松林デ明シ11日十二時頃石川傳次郎、平敷ノ與那嶺林栄ト共ニ字内ニ帰ル。伊江島ニテ12日午後三時頃與那嶺蒲吉二人クリ舟ニテ家ヘ帰ル。
北風波高シ、本部桃原ノ下浜ニ着ク頃五時頃。家着時七時頃
写真1 昭和19年7月15日、17日のメモ(今帰仁村教育委員会所蔵)
写真2 伊江島飛行場滑走路の図(今帰仁村教育委員会所蔵)
昭和20(1945)年、島田叡県知事は軍の要請をうけて6カ月分の住民食料を確保すること、老幼婦女子の北部山岳地帯への疎開を努力目標とした。
本村では沖縄本島内住民の北部疎開決定で、首里、宜野湾、および伊江の住民あわせて7,700人を疎開者として受け入れることになり、村当局では、各字に割当て、各字では各家庭に収容することにしたが、県より山中の避難適所に疎開小屋を造築するよう命ぜられ、空襲の下で作業にとりかかった。
米軍の本島上陸の前日(昭和20(1945)年3月31日)字民や市町村の疎開者は、山中避難の命をうけ、山中に壕をつくり避難した。4月5日北上してきた米軍は、名護市世冨慶海岸に上陸し、8日には米軍の前哨部隊が呉我海岸を突破して湧川まで進出し、また一方で屋部海岸に上陸した米軍は、本部町伊豆味あたりまで進出し、一帯を占領した。
本部半島を守備していた宇土大佐率いる独立混成第44旅団第2歩兵隊は、米軍に包囲攻撃されて戦う術なく八重岳の陣地を放棄、支隊本部を真部山に後進させ、さらに22日には多野岳に移った。こうして日本軍は戦闘力を失い、半島の戦闘は終わった形になった。
写真3は昭和13(1938)年11月7日、仲原馬場で行なわれた一軍人の村葬の場面である。乙羽山の遠景がみえることから、祭壇のある場所は仲原馬場中央部の南側と見られる。石段の上にテント屋根の祭壇がつくられ、祭壇の中央部に写真が飾られ、下の段には果物が供えられている。祭壇の横には「村葬の式次第」が張られ、また両側には長い竹竿にノボリが20本余り数えることができる。 前方の看板には、兼次校・婦人会・字民・今帰仁校などとあり、村民あげて葬儀を行なったことがわかる。丸刈りの少年や大日本国防婦人会のたすき掛けの婦人の姿などがみえ、写真の左側には団体旗とみられる旗と、帽子に詰襟の制服姿がみられる。大日本国防婦人会は昭和17年に愛国婦人会や大日本連合婦人会などとともに大日本婦人会沖縄支部に統合された。婦人たちも映画会や講演会を開いたり、戦没者の報告や出征軍人の送迎から慰問品などの発送などの活動をした。また、生産の増強や貯蓄を積極的にするなど挙国一致運動を進めたりした(『沖縄近代史辞典』)。大日本国防婦人会のメンバーが、仲原馬場で行なわれた一軍人の村葬へ列席したり遺族に物品を贈るなどの活動をしたのである。
このような時代の流れの中で、昭和13(1938)年に仲原馬場で行なわれた一軍人の村葬は単なる一軍人の葬儀ではなく、戦時下に組み込まれていった一時代を写しだしている。
写真4は、村葬を行なった一軍人である湧川高一の墓を造っている最中である。ピータイ(兵隊)墓とも呼ばれ、今帰仁村出身で外地で戦死した三人目が湧川高一であったという。その墓の前を通るときによく敬礼させられたというエピソードが残っており、その墓は今でも謝名のトーヌカ付近にある。
写真3 一軍人の仲原馬場での村葬
(昭和13(1938)年)(今帰仁村教育委員会所蔵)
写真4 「湧川高一之墓」造りの様子(昭和13(1938)年)(今帰仁村教育委員会所蔵)
昭和24(1949)年今泊集落を見下ろせるパナファーイに青年団によって建立された。
写真5 今泊の慰霊塔(今帰仁村教育委員会所蔵)
平成14(2002)年10月に戦没者芳名を改修。鳥居に「護郷之搭」とある。
写真6 兼次の慰霊塔(今帰仁村教育委員会所蔵)
昭和24(1949)年に青年団や消防団によって建立。
写真7 諸志の慰霊塔(今帰仁村教育委員会所蔵)
平成11(1999)年に再建。
写真8 与那嶺の慰霊塔(今帰仁村教育委員会所蔵)
昭和28(1953)年に建立。
写真9 仲尾次の慰霊塔(今帰仁村教育委員会所蔵)
昭和30(1955)年に建立、昭和53(1978)年に再建される。
写真10 崎山の慰霊塔(今帰仁村教育委員会所蔵)
昭和31(1956)年に建立、毎年6月23日に慰霊祭
昭和26(1951)年から消防団で慰霊塔建立の話がでたが、建設費や労務の事情で3、4年が過ぎて昭和30(1955)年の8月にやっと工事が始まった。後日、今帰仁村の慰霊塔が建立されるにあたり、湧川も合祀するよう村から連絡を受けたが、湧川の慰霊塔は、字内の戦没者の各家庭から香炉の灰を集めて上塗りしてあるので、その事情を申し上げ、合祀を取り止め、毎年、6月23日の慰霊の日には区民独自で慰霊祭を行っている。
写真11 湧川の慰霊塔(今帰仁村教育委員会所蔵)
情報提供:今帰仁村教育委員会 社会教育課 文化財係