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本部町における戦災の状況(沖縄県)

1.戦災の概況

 昭和19(1944)年3月22日、第32軍(日本軍)が創設され、同4月1日、統帥が発動された。第32軍の作戦の基本は、南西諸島の防衛強化であり、その任務は敵の航空基地推進を破砕すると共に東シナ海周辺における航空作戦遂行の拠点を確保することであり、戦闘を中心とする部隊はわずかであった。本部半島を中心とする本島北部は、飛行場のある伊江島をアメリカ軍に利用させないようにすること、山岳を利用してアメリカ軍と遊撃戦を行うことが主とされた。

 こうして、本部半島には、このころは独立混成第44旅団の独立混成第15連隊や第2歩兵隊などが配備された。昭和19(1944)年9月から昭和20(1945)年1月にかけて国頭支隊が結成され、アメリカ軍との戦闘にのぞんだ。国頭支隊には、第2歩兵隊、第3遊撃隊、第4遊撃隊等の部隊があった。これらに、本部町はもとより本島北部の住民が現役兵や防衛隊として動員された。独立青年学校や県立第三中学校の生徒も防衛召集等で集められ兵士と同じようにあつかわれた。

2.市民生活の状況

 本部町の男子は大部分労力を伊江島に供出し、男子青壮年者はいうに及ばず、婦女子、国民学校(小学校)生徒まで伊江島飛行場の設営作業に動員された。作業は原始的器具でおこない、その時間は1日平均11時間に及んだといわれる。食事も粗末であった。これにくわえて、伊江島に食糧・資材等の供出もしており、過酷を極めたといえる。

 本部町における供出は「食糧管理法」にもとづくものであった。現地調達(現地自活)を推進していた軍は、本部が、すでに伊江島への大量供出のため余力がないこと、地勢上から農産物の増産が期待できないこと、諸動員により働き手がないことなどを承知していたが、陣地構築作業推進のため木材や食糧(農作物、海産物)等を求めた。

 陣地構築作業は、伊江島を掩護するための砲撃陣地、遊撃戦を行うための拠点陣地等の構築作業に従事した。これも伊江島同様、老若男女、足腰の立つものは、勤労奉仕・徴用と称しほとんどが動員された。その人数は、中隊あたり平均150人であり、500人以上の賃金労務者も投入されたといわれている。時間は1日平均10時間であった。

3.空襲等の状況

○十・十空襲

 空襲前、本部半島周辺では、空にアメリカ軍の飛行機が偵察を行い、海にはその潜水艦が出没していた。日本軍は、空を警防団、海を在郷軍人会防衛隊本部中隊等と協力して警戒していた。また、空襲も予期していた。空襲当日の午前5時20分に、本部の部隊は「黎明時の対空警戒を厳にすると共に被害の局限に留意すべし」との情報に接し、同5時25分に「高射砲部隊は戦闘姿勢に転移し警戒を厳にすると共に、機関砲大隊並に部隊本部に報告」していた。空襲の警戒も、軍から本部の警察署に通知されていたが、住民には伝わらなかったようである。

 空襲は、おおよそ午前7時10分から午後3時30分ころまでであった。渡久地、名護、運天等の港湾施設が空襲を受けたのは、おもに午前11時45分から午後0時30分ころの間であった。アメリカ軍の空襲は延機数453機、来襲回数96回で、空からの偵察・写真撮影をおこないながら、銃爆撃、焼夷弾を投下し、沿岸の艦船・輸送船、軍事施設、民家等を攻撃した。瀬底二仲では、陸軍関係の輸送船、鉄山丸、第一南海丸が沈没した。海軍関係では、潜水母艦迅鯨が沈没した。ことに、迅鯨の被害はすさまじく焼け出された乗組員は百人以上であり、浜崎の漁師たちが救助にあたったが、死亡者が多く現在の本部港あたりの砂浜に火葬し埋めたという。また、空襲にともない潜水艦も本部半島周辺にひんぱんに出没し、日本軍は伊江島にアメリカ軍が上陸するのではないかともみていた。

 住民の被害は明らかでないが、民家、山林、役場、学校、漁船、食糧等が焼失し、死亡者9人・被害者47人が出たことはわかっている。とくに、渡久地は7、8割が焼失したことが区長の報告で明らかになっている。役場も焼失により、並里の壕で業務がおこなわれた。家を焼かれた住民は伊豆味や大堂等に住まいを移し、新たな、苦難の生活がはじまった。本部半島には、他に本島中南部、伊江島からの疎開民が雑居することになり、以降、特に食糧の確保が困難になっていった。

○たびかさなる空襲

 昭和20(1945)年1月から3月ころまでの期間、アメリカ軍の上陸までひんぱんに空襲が行われていた。なかでも1月22日の空襲は、2つの特徴をもっていた。1つは低空からの空襲が行われたことである。本部町では、渡久地、瀬底等の港湾が低空からの銃爆撃を受け、輸送船・彦山丸が沈没、機帆船・栄進丸が炎上した。この空襲でアメリカ軍は国頭一帯に大々的に宣伝ビラをまいた。日本軍は、「十・十空襲以後次の経験と軍官の指導により民心の動揺少なく又一般に冷静に行動せり」とのべながらも、各部隊と憲兵隊・警察と協力させ住民から宣伝ビラを回収させた。このことは、住民の動揺を防止することを示すものであった。しかし他方、住民は別の面も見せた。空襲で被害を受け戦火がまじかにせまりくるのを感じながらも、軍が皇国護持の精神を説くとこれに同調していく面もあった。いま一つは、この空襲によってアメリカ軍は、沖縄攻略の作戦地図作成の基礎となる鮮明な航空写真に成功したことである。つまり、十・十空襲での撮影の不鮮明な部分を明らかにしたのである。

 本空襲から、住民は壕生活をよぎなくされ、山中へと生活の場を移していくことになる。

4.次世代への継承

 毎年、慰霊の日になると町内各地にある慰霊塔で区の慰霊祭が行われている。地域のこどもたちを集め、戦没者を追悼することで平和学習の場としても重要な場となっている。

 また、本部町東区域内にある忠魂碑・慰霊塔前では、本部町戦没者慰霊祭が行われ、先の大戦において犠牲となった全戦没者の御霊に対し、哀悼の誠を捧げ、二度と悲惨な歴史を繰り返さぬよう、戦争から学んだ教訓と平和の尊さを次世代に継承し、平和の尊さを実感できる町づくりに向けて一層精進するという思いを共有する場となっている。

参考文献
『本部町史 通史編 上』 本部町 1994年10月31日
防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』 朝雲新聞社 1968年

情報提供:本部町教育委員会 社会教育班

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