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伊江村における戦災の状況(沖縄県)

1.伊江島戦の背景(概況)

 伊江島の戦闘は沖縄戦の典型的な事例とされ、「沖縄戦の縮図」と言われている。その所以は、戦闘の激烈さや住民犠牲の大きさだけでなく、最も早い時期の飛行場建設からはじまり、住民の疎開、徴用と勤労奉仕、空襲と艦砲射撃、防衛隊・義勇隊の戦闘参加があげられる。

 陸軍航空本部は航空戦力の増強を図るため、昭和18(1943)年夏から、徳之島、伊江島、読谷山で飛行場建設に着手した。

 米軍は、日本本土を攻略する前線基地として伊江島は最適の位置にあり、ここに航空基地を設定し長距離爆撃機を発進させることが勝利への近道であると判断した。伊江島は不幸にも日米双方からスポットライトを浴びせられる立場になったのである。

2. 伊江島飛行場の建設

 昭和18(1943)年、伊江島は南方作戦の進展に伴い航空基地の機動用飛行場を考慮して、飛行場建設計画にあげられ、軍の関係者が来島し延長1,800m幅員300mの滑走路をつくることが決定された。決定後、昭和18(1943)年夏から昭和19(1944)年春にかけて飛行場建設用地の接収手続きが行われた。その土地代や補償金の支払いは現金が渡されるわけではなく、目の前で強制貯金や戦時国債にかえられ証書だけが渡される仕組みだった。工事は昭和19(1944)年5月から行われ、県内土建業者が請負った。羽地村(現・名護市)などの市町村から作業員が1日平均2,500名と300台の荷馬車を使役していた。伊江村民は飛行場建設工事の他、食料の提供に従事した。


伊江島全体写真、島の中央に日本軍が整備した飛行場(伊江村教育委員会所蔵)

3. 空襲等の状況

 昭和19(1944)年10月10日(十・十空襲)未明から沖縄本島を襲う米軍の一隊が伊江島を狙い、初めに伊江島飛行場を爆撃した。続いて唯一の交通機関である船舶2隻、1隻は村所有の本部町との通船「江島丸」、もう1隻は産業組合所有で那覇通いの「盛安丸」が爆撃をうけて航行不能になり、通信網・交通網は遮断され40余名の死者を出した。これが初めての犠牲者である。

 昭和20(1945)年1月22日、3月1日、3月23日にも空襲を受け人畜の損害が甚大で、被害の調査をすることもできなかった。3月28日、午後3時頃には残波沖(読谷村)の艦船から盛んに砲撃を受け、そこから2週間空と海から昼夜問わず爆撃が行われ1平方メートルに1弾打ち込まれる程すさまじいものであった。


伊江島城山周辺の日本軍陣地を爆撃する様子(伊江村教育委員会所蔵)

4.伊江島戦の状況

〇米軍上陸

 昭和20(1945)年4月16日午前8時、米軍の上陸部隊第77歩兵師団が上陸用舟艇・水陸両用戦車を用いて伊江島の西崎海岸から上陸し、その後南海岸中央部海岸から続々と米軍部隊が上陸した。日本軍の抵抗はほとんど無く、その日のうちに城山(海抜172m)の麓から550mの地点まで進撃した。翌17日からは日本軍との壮絶な攻防戦が行われた。

〇日本軍防衛戦

 日本軍は伊江島全域で約1週間に及ぶ白兵戦・肉弾戦法に頼り戦力を補っていた。夜闇に乗じ箱型爆雷を背負い敵陣地へ侵入し、爆雷もろとも体当たりする陸上特攻が繰り返された。特に城山南方の学校陣地(現・伊江中学校)付近は米兵たちが「血ぬられた丘」と名付けたほどの激戦が繰り返された。日本軍と米軍の一進一退の攻防戦は4月17日から3日間におよび、4月20日には米軍に占領され、その日の午後7時には守備隊隊長より総攻撃の命令が下り、翌午前3時頃決行され、伊江島守備隊は玉砕した。残存する兵力は将校約10名、兵約150名にすぎなかった。

 激闘の末、4月21日午後5時30分に米軍から伊江島確保が宣言された。

〇村民の状況

 戦前の伊江村の人口は、約7,000名ほどであった。昭和20(1945)年3月末の時点で、このうち約3,000名は本部半島へ疎開した。沖縄本島への疎開の他、熊本県への学童疎開も行われた。残る約4,000名のうち、青年男子約1,000名が現地召集や防衛召集で部隊に編入されていたが、その他にも伊江島防衛隊、青年義勇隊、救護班、婦人協力隊など、正規兵役以外の戦闘協力集団も編成され部隊の指揮下に置かれた。4月21日未明に最後の総攻撃で救護班、婦人協力隊の生き残り、避難中の住民をかり出して戦闘班を編成、急造爆雷や手榴弾、あるいは小銃や竹槍を装備し、残存する日本兵と共に斬り込みを行った。そのほとんどが米軍に察知され銃弾になぎ倒されていった。

 また、伊江島に残っていた村民は壕や洞穴等に避難していた。戦時中日本軍の将兵には「戦陣訓」の「生きて虜因の辱めを受けず」という方針が徹底され、捕虜になる前に自決することが規範とされてきたが、軍民一体化した沖縄の戦場には、一般住民まで強要されたところから敵の捕虜になればスパイとみなして処する、という軍の方針は一般住民をも呪縛した。そのためスパイ容疑の濡れ衣を恐れるあまり、戦闘終結後も長く洞穴にたてこもって投降を拒否しつづける住民も少なくなく、日本兵からスパイ容疑で処刑されたものや、自然壕で集団自決する壕もあった。

 伊江島の戦闘による日本側の死者は、軍人約2,000名、村民約1,500名に達した。一家全滅家族が90戸という惨状であった。又、村内の建物のほとんどが戦闘により破壊された。

5.収容所から復興のあゆみ

 伊江島での戦闘が終了し、南海岸のナーラ浜(川平ナガラ原)の収容所に約2,100名の避難民が収容された。5月20日ごろ、収容所の住民は慶良間諸島への移動が行われ、渡嘉敷島に約1,700名、慶留間島に約400名に分けられ収容された。そこでは、食料難、栄養失調で亡くなる人たちがいた。

 昭和21(1946)年4月、本島への移動命令が下り、久志村(現・名護市久志区)へ移動し、本部半島に疎開していた約3,000名と合流した。ここでも食料難は深刻であり、食料不足による栄養失調のうえ、マラリア病も蔓延し、死者がでた。その他、米軍の捕虜とならなかった日本兵や住民もおり、そういった人々は村内洞穴などに隠れて生活していた。

 昭和22(1947)年3月、2年ぶりに伊江島への帰郷が認められた。帰島後の伊江島は一面焼け野原となっており、伊江島飛行場と、その周辺では米軍の基地化が進んでいた。

 このように他の地域と比べると、遅れて戦後復興が始まるのである。


伊江島ナガラ収容所にて、伊江村民と米兵(伊江村教育委員会所蔵)

6.次世代への継承

 昭和26(1951)年4月20日に「芳魂之塔」が建立された。芳魂之塔には、伊江島の戦闘などで尊い命を失った約3,500名の犠牲者が合祀されている。伊江村での組織的戦闘が終わった4月21日に合わせて平和祈願祭が毎年とり行われている。

 芳魂之塔の他、村内の戦跡では石碑や説明板などが設置され、平和学習などに活用されている。その他、村外における記念碑として、名護市久志や渡嘉敷村、座間味村に収容跡地の記念碑が設置されている。

参考文献
『伊江村史 下巻』 伊江村役場 1980年
『証言・資料集成 伊江島の戦中・戦後体験記録』 伊江村教育委員会 1999年
防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』 朝雲新聞社 1968年

情報提供:伊江村福祉課

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