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徳島市における戦災の状況(徳島県)

空襲等の概況

 昭和20(1945)年2月頃から、中小都市にほこ先を向け、5月ごろからは、その攻撃はいよいよ激しくなり、無防備にひとしい全国の中小都市は、焼夷弾による無差別爆撃にさらされることになった。昭和17(1942)年8月、内務省は1戸1か所の簡易待避所を作るように奨め、さらに、翌18(1943)年、防空退避施設の整備を強化するよう通牒を発した。徳島市は公共防空施設を推進するとともに、家庭用待避所にふたを完備させるため、木材など資材の配給を行なった。また眉山山頂に防空監視所を設置し、さらに、警防分団ごとに高層建築物を利用して望楼を新設し、防空監視の万全を期した。

 さらに翌19(1944)年には、サイパン島が米軍の手に陥り、本土が完全に米空軍の戦略爆撃の圏内に入ったことから、地方中小都市も建物疎開を行わざる得なくなった。徳島においても政府の指令に基づいて、県庁、市役所など重要建物の周囲の建物が強制疎開させられた。

 徳島市へのB29による空襲は、昭和20(1945)年6月1日から7月24日までの間に7回の爆撃を受けた。特に7月4日の大空襲(徳島大空襲)では、多くの市民の生命と財産が失われた。

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