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松山市における戦災の状況(愛媛県)

1.空襲等の概況

 終戦間際の昭和20(1945)年3月19日に、四国沖の空母群から呉軍港攻撃に向かった米軍艦載機と、吉田浜基地の松山海軍航空隊が、松山周辺において激しい空中戦を演じるなど、松山においても日を追って来襲はますます厳しさを加え、一般民家を焼く焼夷弾の無差別爆撃も始まった。

 昭和20(1945)年5月4日午前8時10分、B29 8機が高度約4,000mから航空隊基地に爆弾30余発を投下し、同25分にも別のB29 9機が爆弾40余発を投下した。直撃弾は隊内の烹炊(ほうすい)所・松根油製造所・兵舎の一部に命中、ここにいた人は即死し、慌てて防空壕へ飛び込んだ人も多かったが、海岸に面する砂地に掘られた壕は爆震で崩れ、その多くは窒息死した。この空襲で予科練生や軍関係者69名が死亡し、169名が負傷、また航空隊周辺の民家も爆撃されて民間人7名が死亡したが、防諜のためかこの惨事について当時は詳報されず、B29が松山市を二度にわたり盲爆し、軍事施設をねらって投弾、被害は僅少と報じられ、その事実が解明されたのは、昭和51(1976)年2月であった。

 そして、同年7月26日には松山市の中心部に焼夷弾が投下され、壊滅的な被害を受け数多くの死傷者を出した。その被害状況は次の通りである。

 被災面積4.79km2(全市面積87.81km2、被災比率5.4%)、被災戸数1万4,300戸(全市戸数2万6,000戸、被災比率55%)、被災人口6万2,200人(全市人口11万7,400人、被災比率53%)。(『松山市誌』より)


<空襲後の松山>
(立花橋から県庁方面をのぞむ。)

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2.市民生活の状況

学徒動員などで軍需工場へ多くの人が働きに行った。また、竹槍訓練や防火訓練などが行われ、建物は空襲を避けるため、黒や茶色でカモフラージュされていた。

 愛媛県でも昭和20(1945)年5月10日に、宇和島市が最初の空襲を受け、県防空本部は、松山市内の疎開地区を発表し、疎開相談所を設けるなどの状況から、松山市への空襲は必至と考えられていた。

 陸・海・空軍の入隊者以外の男子は、次々と徴用動員され、軍需工場へ働きに行った。

 やがて男子労働力の供給源枯渇に伴って、女子青年は、ますます深刻になる労働力の不足を補うため、女子挺身隊として軍需工場等に徴用されて行った。

 留守家族の男女は、男性は足にゲートルを巻き、女性はもんぺ姿の出立ちで竹槍を持ち、敵兵が上陸してきたときはこれで迎え撃つなど最期の決戦に備えるべく竹槍訓練を行い、日ごと緊迫した状況が続いた。

 各家の土蔵や土壁などは、空襲を受けた際に上空からは分り難いように、黒や茶色で色塗りしカモフラージュして空襲に備え、県庁や市役所も迷彩色をほどこされた。

 また、焼夷弾の投下による火災延焼を防ぐため、隣組による防火訓練や防空演習を行い、それぞれ各家には必ず大きな用水槽が設けられ、常時水を湛えていた。

 米軍爆撃機は、関西・北九州への飛行ルートとして、豊後水道をひんぱんに通過していたため、松山市では連日空襲警報や警戒警報が鳴り響いていた。

 夜間空襲に際しては、空襲時には燈火管制が敷かれ、町内に空襲警報・警戒警報が鳴り始めると、家の中は一斉に消灯、または、部屋の電灯の笠を黒布でおおって、固唾を呑んで敵機の通り過ぎて行くのを待ち、警戒後は互いに無事なことに安堵したのであった。
(『戦時下の中学生』より)


<戦時中の南堀端での防空演習風景>

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3.空襲等の状況

大・小焼夷弾による空襲で松山市は旧市街地の9割を焼失した。251名の死者と8名の行方不明者を出し、また負傷者は数えきれず、多大な被害を受けた。

 昭和20(1945)年7月26日、B29の編隊が豊後水道を経て北東に進み、佐田岬を通って松山市の西方上空に達し、午後11時30分ごろに第1弾を新町(清水町1丁目付近)に投下した。編隊は右旋回して城山を中心に、その周辺から市の中心部に焼夷弾896トンを投下した。このため市街地の周辺部から火の手が上がり、市民の必死の消火活動もそのかいなく、わずかに3〜4時間で市街地は文字どおりの火の海となり、B29は西南方の海上に飛び去った。

 この空襲によって市の中心部は、全くの灰燼に帰し、旧市街の城北、通町(平和通2丁目付近)の一部を残すのみで、罹災戸数1万4,300戸、死者251人(男117人、女134人)、行方不明8人、負傷者は数えきれないほどの被害であった。(『松山市誌』より)

 主な公共建築物はほとんど罹災したが、県庁、市庁、裁判所、図書館、日本銀行、四国銀行などが幸いに焼け残った。県庁、市庁が罹災しなかったことは、その後の復興事業の進捗に大変役立つことになった。

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4.復興のあゆみ

空襲による虚脱状態からの復興の第一歩は清掃事業で あった。罹災者に、市は住宅対策・傷病者対策・食料対策・見舞金支給などを行った。

 戦災にあった市と市民の虚脱状態からの、脱出の第一歩の事業が清掃事業であった。市民は市に協力して、焼け跡の清掃整地に立ち上がり、昭和25(1950)年までに約168万8,473m2を整地し完成した。

 罹災者はそれぞれ焼失を免れた市内及び近郷の縁故、知人を頼りに離散したが、早くも旧地域に帰住し復興の意欲が旺盛であった。しかし、急激な物価騰貴と資材難に加えて、将来の方針も立てにくい状況であった。

 戦災直後の住宅応急対策として、各自在来の位置に建設するよう1戸11.25坪として希望者に譲渡し、住宅営団が建設に当たった。傷病者については、県庁内に救護所を設け、さらに教育会館に罹災した医師が常駐するとともに市職員を派遣し、診療看護にあたった。食料対策としては、空襲を受けなかった道後、三津地区の協力を得て炊き出しを行い配給し、衣料対策については、軍の払い下げの衣料を配給した。

 土地利用については、復興計画の立案のもとに昭和22(1947)年9月3日、復興都市計画区域のうち一部を残す883.85haの用途地域指定を行い、松山市街地西部を工業地帯に、松山城南、西域及び道後温泉周辺地域を商業地域に、さらに松山城東、北及び西の一部地域を住居地域とした。(『松山市戦災復興誌』より)

 こうした復興事業を官民が一体となって取組み、焦土から新生松山の建設が始まり、昭和26(1951)年に松山国際観光温泉文化都市建設法が施行され、国際基準の観光都市づくりが本格的に始まり、戦後近隣10村と合併し、平成元(1988)年には市政施行100周年を迎え、空襲にみまわれなかった道後温泉と松山城は、平成6(1994)年に道後温泉本館建設100周年を迎え、同年には近代和風建築として初めて、重要文化財建造物の指定を受け、平成14(2002)年に築城400周年を迎えた松山城とともに市民の貴重な財産となっている。

 また、平成12(2000)年4月には中核市へ移行し、市民のみなさんとともに「知恵」と「工夫」と「市民の参加」をキーワードに、「日本一のまちづくり」という「坂の上の雲」を目指して、二十一世紀にふさわしいまちづくりを進めている。

<道後温泉本館>

<松山城>

 

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5.次世代への継承

写真や遺品などを展示した平和資料展の開催。小・中学校で戦争体験談などを語ってもらう「平和の語り部」派遣事業の実施。惨禍の記憶を語り継ぐための平和ビデオの製作。

 第二次世界大戦時、松山市も、何度も空襲にみまわれ、街も人も大きな被害を受けました。しかし、当時の悲惨な記憶や体験は、過ぎ行く時間の中、歴史の中に埋もれ忘れ去られつつある。平和の尊さや大切さを認識してもらうため、また、真に平和な21世紀を築くため、過去の惨禍を風化させることなく次の世に語り継いでいくことが大切だと考えている。

 松山市では、そうした想いで松山大空襲や終戦となった7月から8月に、市民の皆さんからお借りした当時の写真や遺品・資料類、平和関係図書を展示し、また、親子を対象とした上映会を行い、訪れる市民に平和について改めて感じ考えてもらえるような、「平和資料展」を開催している。また、これに加え、戦争の悲惨さや平和の大切さを伝えたい方々を、小・中学校からの要請に応じ、「平和の語り部」として平和に関する学習会等の講師として派遣し、体験談などを語ってもらい、平和の尊さ・大切さを認識してもらう「平和の語り部」派遣事業を実施し、若い世代への平和意識の普及・啓発に努めている。さらに、先の大戦の惨禍を風化させることなく次の世代に語り継ぎ、平和の尊さや大切さを認識してもらうことを目的に、「平和ビデオ(学習教育編,遺跡・遺品編,証言編の3編)」を製作した。学習教育編を、市内の小・中学校に配布し、平和に関する学習に役立ててもらうようにしてる。また、市立図書館に遺跡・遺品編と証言編を収蔵し、一般の方々へ貸出しや視聴の機会を提供している。

 また、10年毎に、広く市民の参加を得て、歴史の教訓として後世に伝え、平和な地域社会を築き上げていくため、追悼式を実施している。


<平和資料展>

資料提供:松山市市民部市民参画まちづくり課

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