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新居浜市における戦災の状況(愛媛県)

1.空襲等の概況

 昭和20(1945)年7月24日火曜日午前7時45分、城下橋方面から出現した2機のB-29爆撃機は北西に進み、それぞれが1発ずつ合計2発の爆弾を投下した。

 住友化学工業(株)の社史によると、そのうちの一弾は、菊本町の住友軽金属製造所第3精錬工場に落ちた。同工場とアルミナ倉庫は大破、アルミナ事務所は半壊、重軽傷者28人を出した。

 他の一弾は、惣開町の住友化学工業新居浜製造所氷晶石工場に落ちた。同工場は半壊したが、機器類はすべて他に移転済みの休止工場であったため、物損はわずかであった。しかし、防空壕が埋没したため、死者8人を含む17人の死傷者を出した。

第509混成軍団と特殊作戦任務報告書

 アメリカ軍が戦後行った戦略爆弾調査団の「1万ポンド爆弾の効果」という報告書によると、この新居浜への爆撃を行ったのは、マリアナ諸島のテニアン島を本拠とする第20航空軍・第313航空団・第509混成群団で、この群団は広島・長崎に原子爆弾を投下した群団である。

 この第509混成群団が昭和20(1945)年7月20日から終戦前日の8月14日までの間に行った全18回の攻撃を記録した「特殊作戦任務報告書」という文書のあることが、平成4(1992)年八王子空襲を記録する会会員の奥住喜重氏らのグループの調べで分かった。

 この任務報告書には、7月24日に行った新居浜への爆撃を特殊爆撃任務NO.5として記している。ちなみに8月6日の広島への原爆投下はNO.13、8月9日の長崎への原爆投下はNO.16である。

 広島には、第509混成群団指揮官・ティベッツ大佐自ら操縦するB-29爆撃機(エノラ・ゲイ号)から外発型ウラニウム原子爆弾(リトルボーイ)が投下された。

 長崎には、スウィニー機長が操縦するB-29爆撃機(ボックス・カー号)から内発型プルトニウム原子爆弾(ファットマン)が投下された。

巨大爆弾パンプキン

 広島、長崎以外の新居浜を含むその他の戦略爆撃には1万ポンド爆弾が使用された。この1万ポンド爆弾は長さ3.5m、直径1.5m、重量4.5トン。通常の破壊用爆弾が1トンであったことからも、いかに巨大であったかが分かる。長崎に投下された原子爆弾(ファットマン)を模して、同形・同重量に作られており、だいだい色に塗装されていたことやずんぐりと丸い形をしていたことからパンプキン(かぼちゃ)爆弾と呼ばれた。

 このパンプキン爆弾が7月24日、菊本町の住友軽金属製造所第3精錬工場に投下される様子を目撃した人は次のように語っている。

「菊本に落とされた爆弾は金子国民学校(現在の金子小学校)の校庭から何人かの社員とともに目撃しました。風呂釜のようなずんぐりした形の爆弾で、あまりにも大きかったので、B-29が打ち落とされてその胴体の一部かと疑問を抱いた程でした。」

 アメリカ軍の特殊作戦任務報告書の特殊爆撃任務NO.5の中に次のような記述がある。

「7297号機は、住友アルミニウム会社の攻撃を命じられた。結果:第1目標を目視で攻撃し、爆発は4時方向490フィートであった」

 この爆撃を行ったB-29・7297号機こそが、あの長崎に原爆(ファットマン)を投下したボックス・カー号だったのである。

パンプキンは原爆模擬爆弾だった

 昭和20年7月16日、アメリカ合衆国ニューメキシコ州のアラモゴードの砂漠で行った原子爆発実験が成功した。

 7月26日、アメリカ、イギリス、中国の3国の指導者トルーマン、チャーチル、蒋介石の名でポツダム宣言が出され、日本に無条件降伏を要求。7月28日、鈴木貫太郎首相はこれを拒絶すると発表した。

 8月3日以降速やかに広島、小倉、新潟、長崎のうち1か所に原爆を投下せよという指令がこの群団に下された。

 原爆とパンプキン爆弾の投下時刻は常に午前8時ごろで、双方とも高度3万フィート(9千メートル)からの目視爆弾によるものとされている。また、先ほども述べたが、パンプキン爆弾は長崎型原爆(ファットマン)の同形・同重量・同弾道特性であったことなどから総合的に判断して、新居浜を含むパンプキン爆弾の投下は、原爆投下の模擬訓練であったと推定できよう。

新居浜に原爆が落ちた可能性

 そして、新居浜にとって、もう一つ重大な事実がある。次の文は、住友化学工業のOBで、当時新居浜空襲の被弾損害状況報告書を作成した吉田浩三氏によって書かれた「新居浜に5トン爆弾を投下せよ」からの抜粋である。

 「7月24日・26日・29日の模擬爆弾の投下は、広島・長崎への原爆投下の予行演習であるかもしれないが、日本が広島・長崎で降伏しなかった場合、将来原爆攻撃を実行する予定地域に対する原爆模擬弾の投下訓練であるとの確信を得ている。

 戦後しばらくしてGHQの招きでアメリカのCCC(ケミカル・コンストラクション・コーポレーション)の会長ポープ氏が、日本の科学工場調査のため来日した。同氏は昭和の初め、住友化学のアンモニアプラント建設のため、NEC(ニトロゲン・エンジニアリング・コーポレーション=CCCの前身)から住友化学に派遣された技師である。上司から聞いたところでは、住友化学以外のアンモニア工場が(アンモニアは火薬の原料)すべて爆破されたのに、住友だけが残ったのは同氏が米国政府に強く働きかけたためであり、最後には原爆を用いる予定であったと言明したとのことである・・・」

 このように、もし日本の無条件降伏が遅れていたら、模擬爆弾の投下地である新居浜にも原爆が投下されていたかもしれないのである。

新居浜空襲の記録

  • 昭和20年2月艦載機数百飛来。新居浜臨海工場を襲撃。米軍機の地上掃射、我機の空中追撃、天地壮絶を極めた。
  • 3月19日 艦載機来襲。第一住化丸船長以下死傷者3人。
  • 5月8日 爆撃機編隊が現れ、市内磯浦地区に爆弾数個を投下。轟音とともに付近の民家は瞬時にして火災を起こし、爆風のため倒壊あるいは破損数10。和義寮罹災、死傷者7人。
  • 7月24日 B-29来襲。住友化学工業氷晶石工場被弾、死傷者17人。住友軽金属製造所第3精錬工場被弾、重軽傷者28人。

新居浜空襲の理由

 住友化学工業を中心とする工場群は当時、日本で化学工業と非鉄金属工業がもっとも集中していた例の一つであった。科学設備は、窒素、硝酸、メタノール、過リン酸肥料、硫酸、コークス副産物、アルミナ、アルミニウムを大規模に生産していたため、戦略爆撃目標の一つに挙げられた。

パンプキン爆弾投下の全記録
日時 被弾地
7・20 茨城県北茨城市街
東京都中央区・市街
福島県いわき市街(2)
福島市・工場
海上投棄
新潟県長岡市
富山市・工場(3)
7・24 新居浜市・工場(2)
神戸市・工場(4)
三重県四日市市・軍施設
滋賀県大津市・工場
岐阜県大垣市街
7・26 新潟県柏崎市街
新潟県鹿瀬町・工場
茨城県・日立市工場
福島県いわき市街
静岡県島田市街
名古屋市昭和区・市街
静岡県浜松市街
富山市街
大阪市東住吉区・市街
静岡県焼津市街
7・29 山口県宇部市・工場(3)
福島県郡山市・工場
東京都保谷市・工場
福島県郡山市・操車場
和歌山県有田市・精油所
京都府舞鶴市・海軍基地
8・8 宇和島市街
福井県敦賀市・工場
徳島市街
三重県四日市市・工場(2)
8・14 愛知県春日井市・工場(4)
  愛知県豊田市・工場(3)

注)( )内の数字は被弾数。一発は省略

参考文献

  • 住友化学工業株式会社社史
  • 米軍資料原爆投下報告書―パンプキンと広島・長崎(訳者=奥住喜重・工藤洋三・桂哲男)
  • 新居浜に5トン爆弾を投下せよ(吉田浩三著)
  • 新居浜市史

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