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長岡市における戦災の状況(新潟県)

1.空襲等の概況

 長岡市は、かつて戊辰戦争と第二次世界大戦の二度にわたり市街地の大半を焼失したが、その都度先人のたゆみない努力により、今日の繁栄を築いてきたまちである。

 戊辰戦争に敗れ焼け野原となった長岡は、明治維新後復興に努め、長岡藩時代から有名な繊維卸を始めとする商業のまちとして栄えた。さらに東山油田の開発により鉱工業が発達した。

 商工業の発達は交通体系の発展を生み、長岡城址に長岡駅ができ、駅前から伸びる大手通りの整備が進むなど、繁華なまちになっていった。また、教育文化にも長岡らしい特色が生まれた。小林虎三郎の「米百俵の精神」である。戊辰戦争に敗れた焦土の中で、藩の大参事小林虎三郎は、支藩の三根山藩(現在の新潟市峰岡)から送られてきた百俵の米を食べずに国漢学校設立の資金に充てた。目先のことだけを考えるのではなく、将来のことを考えて人材を育てていこうというこの米百俵の精神は、長岡から幾多の人材を輩出した。

 こうして長岡市は商工業都市として発展していたが、第二次世界大戦の末期に運命の日を迎えることとなった。昭和20(1945)年8月1日の午後10時30分から翌2日午前零時10分までのおよそ1時間40分間、長岡はアメリカのB29戦略爆撃機125機による焼夷弾爆撃を受けた。投下された焼夷弾の量は925トン、16万発余の焼夷弾子弾が文字どおり豪雨のように降りそそぎ、長岡のまちを焼き払ったのである。この空襲によって、市街地の約80パーセントが焼け野原となり、学童約300名を含む1,470余名の尊い生命が失われた。

 悪夢の一夜が明けて人々が目にしたものは、一面の焼け野原と黒焦げになった無残な遺体だった。当時の長岡警察署の警部の『戦災メモ』には、次のように記されている。「2日の朝早々に市内をひとめぐりして平潟神社の境内に足をとめた。言いようのない臭気が鼻をつく。屍々累々とはこのことだろうと思った。死体は衣服が焼け、半裸か一糸纏わないものが多かった。母親が子どもの顔を抱きしめているもの、母子がお互いに離れまいとして、手と手を握り締めているものなどで、婦女子なだけにひとしお哀れであった。思わず合掌せずにはいられなかった。亡くなられた方が一番多かったのは、平潟神社と柳原の神明さまの境内、そこに掘られた防空壕。それに、その近くを流れる柿川の中であった。……」遺体を焼く火は三昼夜も続いたという。そして長岡空襲から2週間後の8月15日に終戦の日を迎えた。

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2.市民生活の状況

2-1.配給制と切符制

 戦局が深まるとともに、何事も戦争第一となり、物資が欠乏し、市民の生活を圧迫した。生活必需品はほとんど配給制となり、その配給を受けるための切符・通帳制は市民にとって大変厳しいものだった。昭和16(1941)年3月に飯米の配給が通帳制になり、5月には木炭も通帳制になった。翌17(1942)年2月には衣料品まで切符制となり、6月には鮮魚の自由販売が禁止となった。さらに、食塩、味噌、たまご、乳製品なども配給制となった。

2-2.金属類の回収

 戦争の進行とともに、日本国内では金属不足が深刻になってきたため、日本政府は昭和17(1942)年5月、金属回収令によって金属類の強制供出を命じた。寺院の梵鐘、学校のストーブ、時計の鎖、メガネの縁、火鉢など、ありとあらゆる金属類が回収されていった。

 長岡のまちでは、長岡の偉大な先人たちの銅像が消え、長生橋の欄干(らんかん)も木製に変わってしまった。


<町内会の金属回収> (昭和62年長岡市発行『長岡の空襲』から)

2-3.長岡市戦争生活実行事項

 昭和18(1943)年4月、長岡出身の山本五十六連合艦隊司令長官が戦死。この知らせは長岡市民に大きな衝撃を与えた。その死を無駄にしてはならないと、長岡市は、山本長官が日ごろから唱えていた「常在戦場」の精神を柱とした『長岡市戦争生活実行事項』を作成し、町内会に配布してその実践を求めた。

長岡市戦争生活実行事項(抜粋)
  • すべて食べ物は感謝の報恩の念を持って正座し、合掌して頂き、よく咀嚼すること。
  • 空地の利用を盛んにして大豆、小豆、野菜を作ること。
  • 衣類は根本の心がけとして新調を見合わせ、繕い又は更生により間に合わせること。絶対に新調をなさざるもの(振袖、白無垢の類)

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3.空襲等の状況

 長岡空襲は2回あった。昭和20(1945)年7月20日の左近への爆弾投下と8月1日の焼夷弾爆撃である。

3-1.左近への爆弾投下

 昭和20(1945)年になると、新潟県の空にもアメリカ軍の飛行機がやって来るようになり、時おり、伝単という宣伝ビラをまいて行った。

 長岡市民は、全国各地が空襲を受けていることを新聞やラジオで知っていたが、長岡市は空襲されないだろうと考えていた。

 こうした中で迎えた7月20日の朝、1機のB29が信濃川に近い左近地内に1発の爆弾を投下した。長岡に投下された初めての爆弾だった。この爆弾の爆風によって、じゃがいもの収穫作業をしていた2人の青少年と手伝いに来た若い女性、倒壊した家にいた高齢の女性の4人が亡くなった。

 なぜ、左近に爆弾が投下されたのか。これは長い間謎だったが、研究によって、実は新潟市が原子爆弾の投下予定都市として挙げられていて、その事前の投下訓練であることが判明した。


<伝単> (長岡空襲予告)

3-2.すさまじい長岡空襲

 左近の爆弾投下の12日後、8月1日の午後9時6分、長岡の夜空に警戒警報のサイレンが鳴り響いた。続いて午後10時26分、警戒警報が空襲警報に変わると同時に、突然、照明弾が投下され、B29による焼夷弾爆撃が始まった。

 本隊に爆撃区域を示すために、先導機がM47ガソリン焼夷弾を進入方向の宮内・宮原地区と退去方向の西新町地区に投下。長岡市街地の南北端で火災を発生させて目印をつけるためのものだった。その後、B29がM69集束油脂焼夷弾を次々と投下した。1発のM69集束焼夷弾は落下途中で38発の焼夷弾子弾に分散し、長岡とその周辺に落下し、家屋を炎上させた。この焼夷弾爆撃により、長岡の市街地はコの字型に火災が発生し、袋の鼠となったたくさんの市民が犠牲となった。

 長岡空襲は翌2日の午前零時10分まで続けられ、当時の市域で焼夷弾の落ちなかった町内はないといってよいほどすさまじい空襲だった。人口74,508人(昭和20(1945)年7月)、商工業都市として栄えた長岡のまちは一夜にして焼失してしまった。

 ニューヨークタイムズ紙は、この日の長岡・富山・水戸・八王子の4都市に対する空襲が、前年(1944)6月のノルマンディー上陸作戦で使われた爆弾6,400トンを上回る、世界最大の攻撃であったことを報じている。

3-3.悪夢の一夜が明けて

 悪夢のような一夜が明けた8月2日は、真夏の太陽がギラギラと照りつける暑い日だった。がれきと化し、くすぶり続ける街角に、また、焼け焦げた防空壕に、折り重なって倒れている焼死体は数え切れないほどだった。

 防空壕は、戦時中の物資欠乏のときに造られたものだけに、壕とは名ばかりの粗末なもので、一つの壕に70人もの犠牲者がたおれている例が多数あった。また、柿川には、猛火に耐えきれず大勢の人たちが飛び込んだが、炎が川の蓋になるように流れたため犠牲者が多かった。

 犠牲者の中には、当時の鶴田義隆市長も含まれていた。市の職員や多くの警防団員も炎の中に殉職していた。無残にも、身元不明のまま放置されていた遺体も多くあった。身寄りの分からない遺体は、警察と応援の軍隊の手で、荼毘(だび)に付された。その遺骨は、木炭8貫目入れのかますで34俵もあったという。

<焼け野原 殿町から表町方面をのぞむ> (昭和62年長岡市発行『長岡の空襲』から)

<焼け野原 表町通りから六十九銀行をのぞむ> (昭和61年長岡市発行『ふるさと長岡のあゆみ』から)

 

 なぜ、左近に爆弾が投下されたのか。これは長い間謎だったが、研究によって、実は新潟市が原子爆弾の投下予定都市として挙げられていて、その事前の投下訓練であることが判明した。


<長岡市罹災状況図>

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4.復興のあゆみ

4-1.復興への胎動

 空襲で市街地のほとんどが廃墟となったなか、戊辰戦争(1868年)の復興のときに使われた「長岡魂」の言葉が市民の間で使われ始めた。市民は、「長岡魂でがんばろう。」と合言葉をかけ合い戦災復興に立ち上がった。

4-2.復興都市計画事業の実施

 昭和21(1946)年7月、「新潟県長岡復興建設部」の設置により戦災復興の大事業が本格的に始まった。まず、専用地域制を重視した用途別の土地利用計画が策定された。道路については、交通機能と防火・景観に配慮して、当時としては破天荒の広さといわれた幅員36メートルの大手通りの整備が決まった。これらは、商工業都市としての復興と発展を想定した大胆な計画だった。また、戦災復興区画整理は、住みよいまちの再建を目指し、市街地を5地区に分けて計画された。

 こうして、昭和28(1953)年11月21日、全国戦災都市のトップをきって、予定より1年早く長岡市は「復興都市計画事業の完工式」を挙行することができた。

4-3.長岡復興祭(長岡まつり)の誕生

 戦災1周年にあたる昭和21(1946)年8月1日、がれきが点在するなか長岡復興祭が行われた。市民はこの日を、犠牲者の霊を慰めるとともに、復興・発展を進めるための記念日とした。翌年からは、長岡名物・大花火大会も復活。この復興祭は年々盛んになり、復興から発展への願いを込めて、昭和26(1951)年から「長岡まつり」と改称された。

また、昭和23(1948)年春、長岡のシンボルである悠久山にボンボリの灯がともり、市民は7年ぶりに夜桜を楽しんだ。

4-4.新潟県産業博覧会「長岡博」の開催

 昭和25(1950)年7月、長岡の復興ぶりと、250万県民の産業復興に寄せる不屈の力を示そうと新潟県産業博覧会「長岡博」が開催された。期間は7月21日〜8月31日で、入場者数442,760人だった。

会場には、正面に5,000トン級の船を模した建物「産業丸」が人目を引き、物産館や雪の科学館など33の展示館があった。また、45都道府県から、お国自慢の物産が出品され、たいへんな人気を呼んだ。「長岡博」の成功は、戦災からわずか5年、長岡市民の苦労と努力の賜だった。


<長岡大花火大会>

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5.次世代への継承

 昭和20(1945)年8月1日の長岡空襲は、長岡市民が終生忘れることのできない出来事である。長岡市民は、二度と悲しい歴史を繰り返さないために、この地で起こった悲しい歴史を次代に語り継ぐ責務を持っている。

5-1.非核平和都市宣言

 長岡市は、昭和59(1984)年8月1日に、市民総意のもと非核三原則の遵守と核兵器の廃絶を求め、世界の恒久平和の維持への願いを込めて、「非核平和都市宣言」を行った。そして、翌昭和60(1985)年から毎年8月1日に「非核平和都市宣言市民の集い」を開催している。


<非核平和都市宣言市民の集い>

5-2.平和の森公園の開園

 「記憶の森」をテーマに樹木に囲まれた静かな環境の中で、忘れてはならない戦争の記憶を結晶させ、平和への祈りと鎮魂の場として、そして、長岡から世界に向けた平和のメッセージを発信する場として、平成8(1996)年8月1日につくられた公園である。

 公園の中央奥の平和像は、平和の森公園のシンボルとなっている。

 また、隣接する柿川の川辺には、石造りの舞台や水の劇場などがあり、平和のための舞台活動や野外演奏会など多様な創造的活動に利用できるようになっている。

5-3.長岡戦災資料館の開設

 戦後60年が経過しようとしているなか、戦災体験の継承が大きな課題となっていたため、戦災資料館を平成15(2004)年7月12日に駅前の大手通りに開設した。

 これまで主に長岡市立科学博物館で収集・展示していた戦災資料をすべて移設し、展示するとともに、平和の尊さを伝える市民活動の場となることを目指している。

 開設・運営に当たっては、長岡空襲体験者を中心とする多くの市民がボランティアとして協力している。


<長岡戦災資料館>

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