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福井市における戦災の状況(福井県)

1.空襲等の概況

 昭和20(1945)年7月12日深夜の敦賀空襲は、日本海側の都市として最初のものであった。米軍による日本本土空襲は、6月中旬以降、呉・福岡など地方都市に目標を移しており、高射砲による反撃もかなり貧弱になっていたことから、夜間に低高度で進入して大量の焼夷弾を投下する戦術が採られるようになった。敦賀市(人口3万1000人)は、爆撃目標とされた都市の中で最も規模の小さい市であったが、米軍の「作戦任務報告書」では、朝鮮との3大定期連絡港の1つであり、関門海峡の機雷封鎖によって日本海航路の重要性が高まっているとして「重要な目標」にされていた。

 当日の敦賀市の天候は戻り梅雨で、上空は厚い雲におおわれており市街地東部の河東地区がまず火の海となり、児屋川と旧笙の川にはさまれた川中地区にひろがり、2時間程の爆撃で、市内の全戸数の約7割にあたる4119戸(復興事務所調査では4273戸)が焼失し、1万9000人の市民が家を失った。

 1週間後の19日深夜の福井空襲は、快晴であったため、さらに壊滅的な被害となった。B-29127機による81分間の集中的な爆撃で、福井城址北西付近を中心に半径1.2キロメートルの範囲をめがけて、865トンもの焼夷弾が落とされたのである。市街地の損壊率は米軍の評価で84.8%と高く、この時期の地方都市爆撃では富山市、沼津市に次ぐもので、2万戸以上が焼失、9万人以上の市民が罹災し、死者数も敦賀空襲の十数倍にのぼる1500人を超える被害となった。

県内でも市街地を中心に頻繁に防空・灯火管制の訓練が行なわれていたが、大規模な都市爆撃の前にはまったく無力で、すでに日中戦争では、日本軍によって重慶などを目標とする都市爆撃が行なわれており、非戦闘員をも区別なく、戦禍に巻き込む近代戦の悲惨さを県民は目の当たりにすることになったのである。

 その後敦賀市には、小規模であったが30日、8月8日と2度の空襲があり、特に8日のものは、9100メートルの高空から、昼間に目視で「化学工場」(実際には東洋紡績敦賀工場)を標的として投下した原子爆弾の模擬弾であったことが、後に明らかになった。

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2.市民生活の状況

 戦争の長期化とともに国民の徴用が増大していった。国民徴用には二通りあり、ひとつは軍隊への徴兵でこれを赤紙召集といい、他は軍需工場などへの徴用で、これを特に白紙召集といっていた。戦争の遂行と軍需産業の維持のためには、男子の力が不可欠であり、男子を確保するためあらゆる方策が考えられた。男子就業禁止令により、出納係・給仕・店員等9種の職業に14歳〜40歳までの男子が従事することが禁止され、さらに8職種が女性に代えられるなど軍需工場への徴用のために根こそぎ動員されたのである。

 そのような中、とりわけ大きな打撃となったのは食料不足で、学校には欠食児童や虚弱児童が多くなり、生徒児童の体位は低落傾向を示していた。そのうち、体位の低下は青年にも及び、志願兵の身長・体重が不足し、満点なのは「士気のみ」といわれた。「産めよ増やせよ」のかけ声とともに出生率は激増したが、逆に新生児・乳児の死亡率、罹病率も増加した。

 戦線の拡大によって兵糧米が増大したにもかかわらず、農民徴用による生産力の低下によって、米はますます欠乏していった。

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3.空襲等の状況

 昭和20年(1945)7月19日午後10時15分頃、福井地区に警戒警報が発令された。警戒警報のもと、市民が極度の不安に脅えていた午後10時55分頃、福井警視哨からの不気味なサイレンが響き渡った。と、間髪を入れず、上空に姿を現した127機(爆撃機116、先導機11)のB29は、まず始めの焼夷弾を西別院付近に投下した。ものすごい爆音と共に西別院の高い建物が真っ赤な炎となって夜空を染めた。

 乱舞するB29からは、2時間にわたり10万本以上(953トン)の焼夷弾が渦巻き状に撤き散らされ、市街地の95%以上が焼け野原になった。油脂弾は全市を猛火で襲い、防空壕に避難していた人々は熱気で蒸焼きとなり、水を求め福井城の堀や足羽川に飛び込んだ人々は折り重なって死んだ。官庁、会社、工場などそれぞれの職場で殉職した人々も多く、特に福井郵便局電話室では、20人の女子職員とこれを救援しようとした警防団員3人が犠牲となってしまった。

被災状況
罹災前人口 罹災人口 罹災前世帯数 罹災世帯数 死亡者数 重症後
死亡者
重傷者 軽傷者
103,049 85,603 25,691 21,992 661 915 108 1,210 5,209
計:1,576

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4.復興のあゆみ

 戦災後の窮乏の中から徐々に、市民の住宅建設や会社などの再建が進み、周辺の工場からは織機の音が聞かれるようになった。学校教育については、焼け残りの学校や神社、寺院、民家などを利用して授業を再開した。10月には「福井市復興本部」が設けられ、本格的に水道、ガスの復旧工事や道路網の整備が急ピッチで進められていった。

 昭和23(1948)年6月になると未曾有の大震災に見舞われるものの、市民の復興意欲は衰えず、昭和27(1952)年9月には、復興を祝う福井復興博覧会が盛大に開催された。

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5.次世代への継承

 戦争の悲惨な体験に基づいて全世界の恒久平和及び核の廃絶を願って、平成元(1988)年には「非核平和都市宣言」を行い、平成4(1992)年には中央公園に「非核平和都市宣言」のモニュメントを設置している。

 その後、戦後50周年の節目に当たる平成7(1995)年には、市役所他3会場で福井大空襲展を開催し、毎年6月には、戦・震災犠牲者慰霊祭を催し、市内各所から遺族が多数参拝している。

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