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釜石市における戦災の状況(岩手県)

1.艦砲射撃等の概況

 釜石は、天然の良港を活かした水産業を主要産業として村落を形成してきた典型的な漁村であり、安政4年(1857年)に大島高任がわが国で初めて洋式高炉を建設し、出銑に成功したことに端を発し、鉄と魚の二大産業を基盤として、大正、昭和と大きく発展してきた。

 昭和20(1945)年、太平洋戦争が重大な局面を迎える中、全国主要都市はB29による空襲を受け、さらに地方都市までその猛攻が広がる状況のもとで、大橋地区に鉄鉱資源を有し、国内では唯一自給のできる製鉄所を持つ工業都市であった釜石では、市民がいつかは空襲を受けるであろうという覚悟をしつつ戦時の増産に励んでいた。このような中、「日本の重要産業を破壊し、輸送を混乱させ、日本国民の戦意を低下させるため」として、同年7月14日に三隻の快速戦艦、二隻の重巡、九隻の駆逐艦により艦砲射撃を受け、さらに、同年8月9日に三隻の快速戦艦、四隻の重巡、十隻の駆逐艦により、二度目の艦砲射撃を受けた。

 この二度にわたる艦砲射撃と艦載機による空爆により、多数の死傷者を出したほか、街は一面の焦土と化し、製鉄所の機能も破壊されたのである。(釜石艦砲戦災誌参照)

<艦砲射撃直後の釜石製鉄所>
(釜石艦砲戦災誌より引用)

<第1回艦砲射撃航路図及び第2回艦砲射撃航路図>
(釜石艦砲戦災誌より引用)

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2.市民生活の状況

2-1.防空対策等

 昭和13(1938)年6月、市は、市全域にわたり一群を大体10戸程として構成する「家庭防火群」(後に「家庭防空群」に改称)を結成、さらに、昭和14(1939)年に従前の消防組と防衛団を改組統合し「釜石市警防団」を設置、昭和19(1944)年には、釜石市の防空体制も細分化整備され、製鐵所の防衛団も一層強化されていった。

 市民は、釜石製鉄所という我が国屈指の軍需工場を有していることから大規模な空襲を受けることは必至と予想し、軍官民一体となって防空訓練に励んでいた。

 昭和19(1944)年11月以降は、退避施設、消防水利の強化を図る計画をたて、防空壕は翌年6月までに計画の80%(掩蓋(えんがい)式公共防空壕120箇所、横穴式公共防空壕12箇所)が完成した。

 さらに、空襲の火災防備のため建物疎開が行われることになり、市役所付近や製鉄所前など四箇所が重要地域に指定された。この地域の家屋は解体され、2ヶ月の間に250棟369世帯の撤去を終了し、他地域にそれぞれ移転した。また、主な官公庁、学校、敵襲の目標になりやすい大きな建造物には迷彩が施され、各家庭のガラスには、爆風による破片を避けるため紙テープが張られ、門口に防火水槽、火たたきが備えつけられ、家財道具の疎開を行うなど、戦争の緊迫さが市民の生活にしみわたっていた。

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2-2.食料や衣料事情

 当時の市民生活を見ると、衣料は既に配給制になっており、男性の国民服、女性のモンペにほとんど統一されていた。また、男子は大部分は一分又は三分刈のイガグリ頭に、ゲートルを巻いた地下足袋姿で、昭和20(1945)年に入って、物資が欠乏してくるとゲートルに下駄履きの通勤姿も見られた。女子はひっつめ髪にしてモンペをはき、防空頭巾を右肩から斜めに背負って歩き有事に備えていた。

 常食は、米に芋、菜類、豆等まぜて炊かれたものであったが、浜どころの常食として「メノコ(昆布)めし」が代表的であった。朝夕の食事の仕度時、隣近所の家々からメノコを刻む包丁のまな板をたたく音が一様に聞こえてきたことからも特色ある情景の一つとしてあげられる。

 また、各家庭では、家のまわりや空き地という空き地を掘り起こし、小さな菜園をつくって食糧増産に懸命であった。昭和20(1945)年に入ると、米、タバコ等の配給量は減少され、内陸部への食糧の買出しも現れはじめ、耕地の少ない釜石としては、終戦後食糧の補給は買出しに頼るほかなく「買出し」を「増産」と言い表す釜石独特の用語が生まれた。海浜地域では自家製塩が盛んに行われ、これが内陸部の食糧物々交換の物資にもなった。

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2-3.集団疎開

 昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲後、県から初等科児童の疎開の要請があり、遠野町(現:遠野市)を中心とした地域に学童の集団疎開が約5ヵ月程行われた。(釜石艦砲戦災誌参照)

<モンペと標準服>
(釜石市郷土資料館展示)

<防空頭巾>
(釜石市郷土資料館展示)

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3.艦砲射撃等の状況

 最初の艦砲射撃は、昭和20(1945)年7月14日午前11時ごろからの艦載機による偵察飛行と機銃掃射から始まり、製鉄所の構内を中心とした市街地では、約2時間にわたり連合国軍戦艦サウスダコタからの16インチ砲など約2,600発の砲弾を被弾した。

 特に製鉄所構内の被害は、筆舌に尽くしがたいものがあり、施設の倒壊や火災等により従業員約100余名が死亡した。

 市街地の市民は山中に避難し、再び来るかもしれない艦砲射撃と艦載機による攻撃に恐れをなし、下山しようにも何の情報も得られず、ただ恐怖に震え、動きが取れない状況にあった。

 また、市街地では火災が発生したが、上空には絶えず敵機が旋回し、また、艦砲の砲弾は絶え間なく飛んでくる状態にあった。消火活動もままならず大混乱の状況であり、約1,460戸を焼失し、午後4時30分頃ようやく鎮火した。

 長かった2時間が過ぎた後の惨状は、まさに修羅場の様相を呈していた。特に防空壕に避難した市民の中には、直撃あるいは至近弾を受け、砲弾の破片や爆風で死傷し、または壕の崩壊で圧死する等、全く生地獄であった。

 次いで、8月9日には、午前8時43分に岩手県地区に空襲警報が発令され、午前11時5分頃艦載機が市上空に姿を見せたので、市民は直ちに防空壕や付近の山中に避難した。

 12時50分頃から艦砲射撃が激しくなり、約2時間にわたり連合国軍戦艦サウスダコタからの16インチ砲など約2,800発の砲弾は、釜石の全市と製鉄所の全施設、社宅街に向けられた。製鉄所は全機能が停止するほどの甚大な被害を受け、前回、全く被害を受けなかった製鉄所の社宅街(3地区)では、火災は発生しなかったものの、肉親かどうかも判らずただ肉片を拾う家族、夫であろうか血だらけの人を背負っている婦人、ようやく安全の地を求めて初めて自分の腕がぶらぶらしていることに気付いた人等、前回同様に凄惨な人的被害を受けた。

 また、市街地ではあちこちで火災が発生し、火勢が猛烈を極め、手の施しようがないような状況にあったが、市民は決死の消火に努め、前回の艦砲射撃で焼失を免れた地域等をも焼失したものの、午後5時30分頃鎮火した。

 この結果、釜石の中央市街地は、全くの焼野原と化してしまった。

 この2度にわたる艦砲射撃により、市街地のほとんどの地域が被災し、被災世帯4,543世帯、被災人員16,992人のうち750余名の尊い命が奪われた。(釜石艦砲戦災誌参照)

<第1回艦砲射撃着弾図>
(釜石艦砲戦災誌より引用)

<第2回艦砲射撃着弾図>
(釜石艦砲戦災誌より引用)

<16インチ砲弾の破片>
(釜石市郷土資料館展示)

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4.復興のあゆみ

 二度にわたる艦砲射撃により肉親や家を失った市民は、復旧の手当のつかないまま昭和20(1945)年8月15日の終戦を迎えた。

 市が最初に取り組んだ事業は、被災市民のための住宅建設であり、1,000戸の住宅建設を目標に市街地の復興に全力を傾けた。その後昭和21(1946)年12月、岩手県の事業で釜石市戦災復興都市計画事業が計画決定され、公共の福祉の増進のため保安上、衛生上健全な市街地の造成を目的に事業が開始され、現在の市街地が形成された。

 昭和30(1955)年6月、1市4ヵ村が合併し、新釜石市の市制が施行され、また富士製鉄(現新日本製鐵)の復興と水産業の振興とともに急速に発展を遂げた。

 しかし、その後の産業構造の転換により水産業、製鉄業の衰退が始まり、人口の流出等により市の経済は停滞したが、現在は、「人と技術が輝く海と緑の交流拠点かまいし」をキャッチフレーズに、資源循環型社会に対応した産業の育成などの重点施策に取り組みながら、着実な歩みを続けている。(釜石艦砲戦災誌参照)

<市街被災地>
(釜石艦砲戦災誌より引用)

<市街被災地1年後>
(釜石艦砲戦災誌より引用)

<市街被災地30年後>
(釜石艦砲戦災誌より引用)

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5.次世代への継承

 昭和29(1954)年7月釜石市街を一望できる薬師山に、釜石市民の平和への願いを込めて「平和女神像」が建立され、除幕式に続いて戦争犠牲者の合同慰霊祭が行われた。

 その後、毎年8月9日に市の主催による「戦没者追悼式」を開催し、戦争犠牲者の慰霊を行ってきている。

 また、毎年7月14日及び8月9日には、防災行政無線でサイレンを鳴らすことにより、艦砲射撃を受けた日であることの周知、犠牲になられた方の冥福と永遠の平和を心から祈念するため、市民各々が黙祷を捧げている。

 艦砲射撃を体験した方々の貴重な体験記を含む書籍が、数種類発行され、そのすべてが後世へ戦争の恐ろしさ、凄惨さを伝えるとともに、二度とこのような過ちを犯してはならないことを強く訴えている。


<平和女神像>

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