総務省トップ > 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 国内各都市の戦災の状況 > 仙台市における戦災の状況(宮城県)

仙台市における戦災の状況(宮城県)

1.空襲等の概況

 戦前・戦中の仙台市は、宮城・福島・新潟の各県を管轄する第二師団が置かれるなど、学都・軍都として栄えていた。

 仙台での警戒警報の発令回数は、昭和20(1945)年4月から徐々に増えはじめ、いよいよ空襲の標的にされる時が近づいてきた。戦況の刻々の悪化を気遣いながらも、食べ物、疎開、空襲の3つが日常生活のもっとも重要な課題であった。

ページトップへ戻る

2.空襲等の状況

 アメリカ軍の報告によると、昭和20(1945)年7月10日未明の空襲では、123機のB29が仙台上空に到達して、約3,000メートルの高度より爆撃を行い、合計12,961発、911.3トンの焼夷弾と焼夷集束弾が投下された。また、この攻撃により、建物密集地域の27パーセントにあたる1.22平方マイル(約3.16平方キロメートル)、鉄道操車場の40パーセント、ガス工場の80パーセント、政府専売局の100パーセント、軍事施設の80パーセント、陸軍建造物の50パーセントを破壊したと評価している。

 その他、仙台市役所防衛課がまとめた報告書によると、空襲で被災した戸数は11,933戸、被災人口は5万7321人とされる。空襲前年の仙台市の世帯数は51,814戸、人口は261,117人であったから、疎開などでの増減を考慮しなければならないが、およそ5分の1の市民が被災したことになる。

ページトップへ戻る

3.復興のあゆみ

 戦災復興計画は、敗戦と廃墟という厳しい状況にもかかわらず、道路や公園等については思い切った計画が立てられた。市民の理解と協力のもとに、関係機関の指導と援助を得ながら計画が進められ、昭和21年から仙台駅西部の中心市街地約344haを対象とした戦災復興土地区画整理事業が多くの困難を克服しながら施行された。

 戦災復興事業は昭和36(1961)年に工事が完成し、昭和50(1975)年3月に土地区画整理事業の換地処分が行われた。その結果、青葉通、広瀬通、東二番丁等の広幅員の道路や、勾当台公園、西公園等の公園が整備され、都市部は旧来の城下町的様相を一変し、近代都市の市街地に再生した。また、主要幹線道路の無電柱化や、ケヤキ等の街路樹の並木は、今日見る都市美の基礎となっている。

ページトップへ戻る

4.次世代への継承

 毎年7月10日には、戦没者・戦災死者の霊を慰め、平和への誓いを新たにするため、「仙台市戦没者戦災死者合同慰霊祭」を開催しているほか、7月10日を含む数日間の日程で、仙台市戦災復興記念館にて「戦災復興展」を開催している。戦災復興展では、資料展示室の無料開放や、ボランティア団体による戦災にまつわる各種資料の特別展や戦災体験発表、紙芝居・朗読劇・コンサート等の上演を行っており、戦争の事実・悲惨さを現代の世代に伝える貴重な場となっている。

参考文献

「平和の祈り 一般戦災慰霊の記録」、平成7(1995)年、(財)太平洋戦全国空爆犠牲者慰霊協会
「仙台市史 特別編4 市民生活」、平成9(1997)年、仙台市
「仙台市史 通史編7 近代2」、平成21(2009)年、仙台市

情報提供(平成31年4月):仙台市青葉区まちづくり推進部まちづくり推進課

ページトップへ戻る