昭和20(1945)年1月9日の最初の空襲から計8回の空襲があり、死者318人、重軽傷者631人、戦災人口44,387人、戦災戸数9,700戸の被害があった。(沼津市誌・中巻による)
罹災 年月日 |
人的被害 | 住宅被害 | 非住宅被害 | 罹災場所男女 | |||
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死亡 | 重軽傷 | 全壊(焼) | 半壊(焼) 破損 |
全壊(焼) | 半壊(焼) 破損 |
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20.1.9 | 5 | 29 | 5 | 21 | 4 | 6 | 大手町、上本通り |
20.4.11 | 14 | 39 | 11 | 116 | 2 | 4 | 通横町ほか |
20.4.23 | 9 | 37 | 22 | 1 | 1 | 宮脇、柳原 | |
20.5.4 | 2 | 1 | 東熊堂 | ||||
20.5.17 | 11 | 17 | 9 | 30 | 三枚橋、平町 | ||
20.5.28 | 1 | 6 | 16 | 1 | 三枚橋、平町 | ||
20.7.17 | 274 | 505 | 9,228 | 235 | 2,377 | 122 | 全市 |
20.8.3 | 3 | 3 | 1 | 5 | 大手町、沼津駅付近 | ||
合計 | 318 | 631 | 9,260 | 440 | 2,390 | 134 |
日中戦争の長期化は沼津市の産業構造にも大きな変化をもたらし、それまでの繊維関係工場に加え、重工業部門の工場が進出した。そして、それらの工場は、戦争の激化とともに軍需工場に指定された。また、太平洋戦争開始後の昭和18(1943)年には、沼津海軍工廠、海軍技術研究所音響研究部が開設されるなど、軍直属の施設も設置され、これらの軍需工場と軍関連施設には、市内はもちろん県内の中等学校の生徒たち多数が勤労動員されることとなった。
昭和19(1944)年には、決戦態勢に即応するとの趣旨で、周辺の片浜村、大岡村、金岡村及び静浦村が合併して人口96,000人余りに達し、面積も4倍になった。また同年には、東京の国民学校から学童集団疎開を多数受け入れたが、翌昭和20(1945)年に入ると、沼津も空襲の危険地帯となり、再疎開していった。そして本土決戦が叫ばれるようになると、アメリカ軍の駿河湾上陸に備えて、市内の山には陸軍の陣地が築造され、海岸線には、海軍が特攻基地を配備した。
軍需工場が集中したため、沼津市はアメリカ軍の中小地方都市空襲の標的となった。
最初の空襲は、昭和20(1945)年1月9日であった。大手町、上本通りに落とされた爆弾により5人が死亡、29人が負傷し、建物36戸に被害があった。これより先では、昭和19(1944)年11月30日、現在の沼津市東椎路(当時愛鷹村)に焼夷弾が投下されている。
昭和20(1945)年4月11日の空襲では、午前11時半ころ通横町、吉田町、下河原などに爆弾が落とされた。現在も御成橋の橋柱に残る傷痕は、このとき橋の西北端に落ちた爆弾によるものである。また、4月23日には郊外の海軍技術研究所周辺に爆弾が落ち、女子挺身隊として勤務していた女性らが亡くなった。
5月4日には、郊外の東熊堂に、次いで5月17日には三枚橋、平町に爆弾が投下され、11人が死亡した。5月28日にも同地区に空爆があった。
7月17日未明の空襲は、「沼津大空襲」と称され、274人の死者、505人の重軽傷者という大きな被害を出した。70機を超える数の戦闘機から9,000発以上の焼夷弾が投下され、沼津市は市街地面積の89.5%を焼失した。燃え上がる炎は隣接する三島市をも明るく照らすほどであった。また、千本浜海岸に逃げた人たちは、機銃掃射に狙われ命を落とした。町の姿は一夜にして変貌し、駅から海が一望に見渡せるほどであった。
8月3日の沼津駅付近への空襲が沼津への最後の空襲であった。
深刻な住宅不足などの状況下、昭和20(1945)年12月に市役所に復興部が設置されたが、翌年1月にはまだ仮小屋・壕生活者は509世帯に上っていた。軍用地は転用が進められ、沼津海軍工廠跡地は田地に戻され、建物の一部は消失した学校の仮校舎に充てられた。また、軍需工場は平和産業に転換し、市の産業振興に貢献した。
高度経済成長時には、鉄道や道路の整備が進み、沼津市も各種交通網の拠点として、また、産業の中心都市として復興を成した。
昭和40(1965)年、香貫山に慰霊平和塔が建立された。毎年8月15日には、静霊奉賛会沼津支部及び沼津市遺族会の主催による「戦没者を追悼し平和を祈念する日」の式典と沼津市戦没者戦災死者慰霊法要が行われている。
沼津市では、昭和62(1987)年に核兵器廃絶平和都市宣言を行い、その啓発事業として平成元(1989)年度から毎年「平和を考える小中学生作文集」を発行している。これは、市内の小中学生から戦争や平和に関する詩や作文を募集し、冊子及びインターネットホームページで公開するもので、各作品には子供たちの戦争に対する思いや平和を願う気持ちが表されている。