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伊東市における戦災の状況(静岡県)

1.空襲等の概況

 伊東市の空襲による被害は、他の都市のように爆弾による大規模な爆撃等ではなく、パイロットの顔が確認できるほどの低空からの機銃掃射による被害であったことが特色である。

 この理由は、伊東市周辺が京浜地帯に比較的近く、そこを攻撃に向かう米軍航空機の通過地点に当たっていた点、さらに、複雑に入り組む海岸地形が、米軍側にとっては対潜水艦哨戒のための要注意海域だったのではないかとみられる点がある。

 実際に伊東市の北隣、現熱海市網代地区には潜水艦特攻で知られる「海竜」の基地が置かれていたし、伊豆半島内には同様の施設が点々と配置されていた。

 これらの施設は、市民の生活圏と全く重なっていた。このため、米軍の対潜哨戒機や艦載小型機からの低空飛行による機銃掃射攻撃が市民の生活そのものに向けられる結果となっている。

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2.市民生活の状況

 伊東温泉の名で知られる伊東市は、今も昔も国内屈指の温泉湧出量を誇り、全国的に知られた観光地である。温暖な気候・温泉・明るい自然景観・東京からの距離などの諸条件が愛されて、首相経験者や文筆家などの要人・著名人が伊東を保養地として選び、戦前から多くの別荘が建築されていた。戦中は、傷痍軍人の療養地として軍病院が設けられたり、温泉旅館が東京のこどもたちの疎開施設として利用されたりしていた。

 また、一面では昭和50(1975)年頃まで国内有数の水揚高を誇る漁業のまちでもあった。昭和初年には、伊豆諸島へ延びる海の玄関口としても利用される長大な防波堤(新井防波堤)が整備され、現代の伊東港とほぼ同じ機能が早い時期から整備されていた。

 市内に設置されていた軍関係の施設としては、陸軍第七技術研究所(伊東市湯川)、海軍通信(電測)学校(伊東市宇佐美)、吉田砲台(正式な名称不明、伊東市吉田)、陸軍病院(伊東市鎌田)などがあるが、いずれも民家にごく近い位置に設置されていた点に特色がある。

 総体的に伊東市には鉱・工業生産地は所在せず、大きな軍施設もない土地柄である。恵まれた自然環境のもとに漁港を中心にした集住型の集落地と、その郊外に別荘や田畑が広がる地方の小都市であったということができる。

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3.空襲等の状況

 伊東を含む伊豆半島は、南方洋上から京浜方面の爆撃に向かう米軍航空機の通過目標とされていたようである。このため、日本側でも防空警戒網を築く上で要地だったものとみられ、各集落地の周囲の高台には多くの防空監視哨が設けられていた。哨戒任務を行っていたのは当時10代なかば前後の年齢の方たちであり、彼らが、戦後50年を機に、伊東周辺で起きた空襲の目撃談を地元新聞等に寄稿している。 以下は、そうした目撃や体験による情報をまとめたものである。

  • 昭和20(1945)年4月(詳細期日不明)

     夜間、宇佐美地区の山中に爆弾5〜6発程度が投下される。人的被害なし(山本栄一「宇佐美の空襲 回想録」『さりはま』平成13(2001)年7月1日掲載)。

  • 昭和20(1945)年7月22日

     米軍大型機によって現熱海市初島沖で操業中の鰹・鮪のアグリ網漁船が機銃攻撃された。攻撃したのは米海軍の対潜哨戒機PB4Yであると当時の防空監視哨員が伝えている(三好高次「初島沖での銃撃」『伊豆新聞』平成9(1997)年7月27日掲載)。

     攻撃された漁船は宇佐美港所属「大崎丸」と「叶丸」の二艘で、乗組みの漁師19人が死亡した。この二艘は、網にかかった鰹と鮪の取り込み作業の最中に低空で近づいた米軍機の機銃で徹底的に攻撃されている。両船とも銃撃によって沈没状態になり、漁師たちは海上に投げ出され、浮板などにつかまって辛うじて浮いている状態のところへ、さらなる銃撃が加えられたという(加藤好一「ああ、紅の初島沖」『伊豆新聞』平成7(1995)年8月13日掲載)。

  • 昭和20(1945)年7月30日(月)午前8時過ぎ

     伊東市新井地区に低空で南東方向から近づいた艦載グラマン戦闘機2機が、伊東港に係留されていた暁部隊船舶に装備の機銃から迎撃発砲を受けた。これに対して、グラマン機は機銃掃射で応戦し、暁部隊の機銃射手の兵士は重症を負った。次いで、港内の他の船舶に機銃攻撃の後、陸上の民家に小型爆弾を投下(鈴木茂「土橋正夫君のこと―空襲は「七月三十日」―」『伊豆新聞』平成9(1997)年12月5日掲載)。

     また、同機は伊豆大島から伊東に向けて航行中の民間の小型船に対して、伊東市の手石島付近で機銃攻撃し、乗り合わせていた母親と幼児が被弾し、死亡した(杉本八百蔵「戦後五十年 母子二題―新井空爆によせて―」『伊豆新聞』平成7(1995)年8月31日掲載)。

  • 同日11時過ぎ頃

     再びグラマン戦闘機の攻撃があり、伊東発熱海行きの列車が機銃掃射され乗客2名、機関助手1名、計3名死亡、2名負傷(鈴木三千代「あの日より四十年」『さりはま』平成14(2002)年2月1日転載掲載)。同グラマン機は、同時に、宇佐美駅にごく近い「通信(電測)学校」と呼ばれていた海軍の施設にも機銃掃射を行った。

  • 昭和20(1945)年8月3日

     伊東駅及び陸軍第七技術研究所が機銃掃射を受け、死傷者3名(島田千秋編『伊東郷土史年表』平成5(1993)年)。

  • 昭和20(1945)年8月8日

     現伊東市宇佐美地区は、戦前宇佐美村として独立して一村を成していた。昭和20(1945)年8月8日は、宇佐美から出征し、戦死した英霊9柱の村葬が予定され、午前8時過ぎには葬列が会場に向けて移動していた。その葬列に対して突然現れた米軍艦載機が機銃掃射を加えた。米軍機は、パイロットの顔が地上から視認できるほどに低空で飛行しながら執拗に機銃攻撃を繰り返したが、幸い人的被害は発生しなかった(山本栄一「葬列を襲撃したグラマン」『さりはま』平成13(2001)年7月1日掲載)。

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4.次世代への継承

 上記の伊東市における空襲状況は、いずれも、地元新聞や郷土史研究サークルの機関誌等に掲載された目撃談や体験談を集約した。

 こうした体験談等を語り継ぎ、さらに進んで文章化することが重要な次世代への継承になることと思われる。現在進行中の『伊東市史』編さん事業では、そうした体験談や文章等の集成と保存作業を行うのと同時に、例えば、防空監視哨が具体的にどの位置に何ヶ所あったかなどの情報を体系的に集約するように務めている。

 戦争体験者の高齢化が進み、体験等を伝える手段がなくなってきた現在、市民や関係者からの情報提供がますます重要になっている。

 また、慰霊行事として、毎年4月中旬に伊東市川奈小室山公園内の戦没殉難者慰霊塔前において、戦没殉難者合同慰霊祭が伊東市遺族会の主催で開催されている。

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