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岡崎市における戦災の状況(愛知県)

1.空襲等の概況

 岡崎市は愛知県のほぼ中央にあり、西三河の中核都市である。大都市集中主義の空襲により、地方都市の岡崎にも疎開者が殺到する状況にあった。6月20日、突如、東三河の中心都市で、第15師団司令部が置かれていた豊橋市が空襲を受けた。以来、近隣都市への空襲が次々とあり、岡崎市も到底免れない運命となった。今日か明日かと警報の伝わるごとに人心は乱れ、にわかに荷物疎開に狂奔することとなった。

 市民は一夜に3回もサイレンで呼び起こされ、女はもんぺを、男はズボンをはいたまま寝るという状態であった。入浴中にサイレンが鳴り浴場を飛び出したり、1ヵ月余も入浴しないという状況が続いた。そして、ついに昭和20(1945)年7月20日未明、大規模な焼夷弾爆撃により市街地は破滅的な被害を受け、多数の死傷者を出したのである。

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2.市民生活の状況

 昭和20(1945)年、7月にも入ると、岡崎市民は、市への空襲が近づいていることを覚悟せざるを得ない状況となっていたのである。

 落下した焼夷弾をどのようにして消し止め、延焼を防ぐか、どこに避難するか、負傷した場合どうするか、こういったことが防空・消火訓練の主なものだった。官公庁や学校では、重要書類の持ち出しを含めた消火体勢や連絡網が綿密に検討されていたし、学校では、特に御真影の安全に神経を使っていた。消火のためのバケツリレーや避難訓練は、市内いたる所で、度々行われていた。

 防空訓練や消火訓練を行っていても、ひとたび空襲が始まれば、市街地は火の海と化すこと、避難訓練をしても安全な場所は少ないことは、他の都市の空襲の例で市民には知られていた。攻撃側と防禦側の間に力の差がありすぎたのである。市民はとりたてて有効な防禦手段も体験も持たないままに、空襲を迎える覚悟をしなければならなかった。心細くも、不安な日々であった。

 女・子・老人だけという家族も少なくなかった。夫や息子はすでに戦死していたり、戦地にあったり、あるいは軍需工場へ動員されていた家庭は少なくない。

 警戒警報のサイレンを聞く度に、空襲か!?と思い、米軍機が他地へ向かったと聞いてほっとし、さらにまた次のサイレンで同じことを思う毎日であった。異常な緊張の中、ついに7月20日未明、B29爆撃機の編隊が岡崎市を襲った。

果敢に焼夷弾の中をかいくぐって消火に努めた市民も多かったが、焼夷弾の数と威力はこれを上回った。なお、市役所が数十発の焼夷弾を受けながらも、待機していた市吏員からなる「自衛団」の機転によって幸運にも焼失を免れたことは、被災者の救済と、後の復興に幸いした。日頃の訓練が功を奏した例といえよう。

 岡崎は、主として名古屋の大小工場の下請け仕事をしている多数の工場があるので重要であり、空襲が成功すれば名古屋地区における補助的小工業を破壊することになり、日本の回復力を遅らせることになるという意図のもとに行なわれたのであった。

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3.空襲等の状況

 岡崎市の大規模空襲は、昭和20(1945)年7月20日未明に行われたが、これより先の1月5日と5月14日の2回、名古屋空襲の余波を受けての爆撃が行われ、住家10戸が焼失した。

 7月20日の空襲は午前1時50分ごろ、渥美地方より飛来した一編隊が突然上空に現れ、焼夷弾の雨を降らせ始めた。最初の火の手は明大寺町方面に上がった。次いで、大西山へと岡崎市街を包囲する形で次々と投下された。

 火災は漸次中心街にも起こり、被災地には火災と戦う喚声、逃げ惑う老幼の叫び声が響いた。

 敵機総計90機による波状攻撃は、約1時間半にわたって繰り返され、午前4時ごろ警報は解除された。これらの爆撃による被害状況は、死者207人(当時岡崎市に合併されていなかった人を含めると211人)行方不明者13人、重軽傷者348人、家屋の全半焼7,542戸、被災者3万2,068人に達した。

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4.復興のあゆみ

 空襲により家を失った市民は、衣、食、住全般にわたって厳しい貧乏生活を余儀なくされた。

 しかし、市民は戦災復興に立ち上がった。路面電車の名鉄市内線は1週間で復旧開通した。焼け跡整理作業は、終戦の8月15日を中に挟んで、8月、9月の炎天下で続けられ、自発的にバラックが建て始められたのは10月ごろであった。そして商店の復活は、青空市場と露店商から始まった。

 一方岡崎市は、市役所、市議会が一丸となって、挙市一体体制の復興計画とその推進を図り、戦災復興土地区画整理事業は被災地約198ha(約60万坪)のうち約131ha(約45万坪)を事業区域として着手し、終戦4年目の昭和24(1949)年には住宅建築は、戦前焼失の89%を、区画整理は第一次整理124ha(37万6,000坪)のうち約8割の換地をそれぞれ完成した。

 その他にも街路整理、上下水道とガス管の移設など、数多くの事業を推進し、昭和33(1957)年度に事業を完了した。

 多額の経費と十数年の年月を要した戦災復興事業であったが、これによって市内の街並みはようやく近代的様相を呈することになるとともに、以後の市の発展の基盤が整備されることになったのである。32(1956)年11月、時の建設大臣や県知事など多数の出席を得て戦災復興を挙行し、さらに33(1957)年4月、籠田公園内に「戦災復興之碑」を建設し、戦災復興事業を永く記念することとした。

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5.次世代への継承

 被災後32年を経た昭和52(1977)年7月20日、「岡崎空襲の慰霊碑」の除幕式が行われた。「同慰霊碑をつくる会」が市民から募金をして建立したもので、岡崎市中心部ビルの一角にある。

 市民の命が失われたのは、空襲だけではない。これよりはるかに多くの市民が、戦場で、軍病院で、あるいは輸送船の撃沈で死亡した。昭和6(1931)年に始まる満州事変から15年、うち続いた戦争による市民の犠牲は約3,700人にも達したのである。

 昭和47(1972)年7月19日に第1回の岡崎市主催による戦没者ならびに戦災死者の追悼式を挙行して以来、毎年催している。また、民間団体により岡崎空襲の慰霊碑の前でも、同日、慰霊祭が行われている。

  • 「岡崎市史」
  • 「平和の祈り」(参考2) 引用

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