高松市戦災犠牲者慰霊堂
六角堂 建立由来記
一九四五年(昭和二〇)七月四日未明、ここ高松
市は米空軍B29戦略爆撃機一一六機による、焼夷
弾の絨緞攻撃を受ける。
被害地域は、市街地の約八〇%、被害建築物一八
、九一三戸、罹災者八六、四〇〇人(当時の人口約
十三万人の約六〇%)。死者一、三五九名。
一夜明ければ、東の空から血の固まりのような太
陽が、ゆらゆらと昇り、昨日までそこに在った高松
の町並みは見るも無残な廃墟と化し、道端には屍が
累々と横たわっていた。特に栗林公園北門の稲荷神
社から馬場先の水路に沿う三角地帯の死者はおびた
だしい数にのぼり、戦後いち早く、この痛ましい場
所に石地蔵を建て供養しようと話が持ち上がり、中
野町の三角遊園地に「すがり地蔵」を祀り、毎年七
月四日慰霊祭が行われていた。その後、高松市戦災
犠牲者遺族会が結成され、一九五八年(昭和三三)
五月、高松市所管の現在地(高松市中野町八の八)
に丹朱の六角堂を建立、毎年七月三日に遺族会主催
による佛式の慰霊祭が行われてきたが、六角堂の老
朽化が著しくなったため、一九九四年(平成六)装
い新たな白壁の六角堂に改修、無宗教の慰霊祭が執
り行われ今日に至っている。
“よい戦争はない、悪い平和はない”。これを「タ
カマツの心」として、この六角堂に鎮まります御霊を
守り続けて行かねばならぬ。
一九九五年(平成七年)
二月吉日 記
慰霊之碑
一九三七年(昭和十二年)蘆溝橋の地に端を発し日中戦
争が勃発、さらに一九四一年(昭和十六年)ハワイ真珠湾
攻撃により太平洋戦争に突入。
国民の不安の中、高松市は終戦四十二日前の一九四五年
(昭和二十年)七月四日未明、米軍のB29爆撃機百十六
機による一時間半にわたる空襲を受け市街地の約八割が焦
土と化し、老若男女合わせて千三百五十九名の尊い命が奪
われました。
遺族の深い悲しみとこの悲惨な戦争を永久に忘れること
なく、戦争の犠牲になられた方々のご冥福を祈ると共に、
犠牲者のおびただしかったこの地に、鎮魂と平和への願い
を込めて慰霊之碑を建立する
平成十五年七月吉日
(故人名)