平和観音

基本情報

所在 特別養護老人ホーム 白寿荘敷地内(常宣寺 横)
住所 大阪府大阪市旭区生江3-27-1
(市営地下鉄 千林大宮駅 徒歩23分、市営バス「城北公園前」下車 徒歩3分)
連絡先 都合により記載せず
建立者 有志一同
建立年 昭和52年11月25日

※H23.11発行「平成23年度 全国の戦災の追悼施設・追悼式」より
(調査時期H23年度)

施設の写真

平和観音

碑文

碑文(アップ)

碑文

【前】

一九四五年六月七日午前十時十五分
被爆死亡者名 行年
(故人名)
(順不同)




【台座】

鎮魂




碑文


 昭和十六年十二月八日(一九四一年)
未明日本国政府はあのいまわしい恐怖と
破壊に充ちた無謀な太平洋戦争を引き起こ
し数百万人いや数千万人の善良な人民の
生命を奪い去ったのである。
 そして昭和二十年八月六日(一九四五年)
に人類がもっとも恐れた核爆弾が広島に
投下され一瞬にして生きる物を全て焼き
つくした。二日後長崎に投下、長かった
第二次世界大戦に終りを告げたのである。
 我々に残されたのは、赤肌な瓦礫の山、
飢えと寒さ、住む家もない焼け野原、お
びただしい数と量の血と死、墓と涙の
爪跡をもたらしただけのいかに無意味な
戦争であったかを、目撃者である我々が語
り伝えるために。そして、永久平和の為
に……。

説明文


 昭和二十年六月七日(一九四五年)午前
十時十五分、生江地区の人々の悲劇の日
がやってきた。サイパンを飛びたった三
百機にのぼるB29アメリカ空軍爆撃機の
大阪最後の空襲であった。早朝より敵の
来襲を知らせる警報のサイレンが不気味
な音を響かせ、初夏の空に鳴りわたる。
遠くで爆弾が炸裂するのがドドーンと地面
を叩くのか、抉るのか、鈍く重い音が
足もとから伝わってくる。まもなく雲間
に数機の爆音が聞こえてくる。何事もな
かったように、白い飛行雲を残し、次か
ら次へと生江の上空を北に向かって飛び
去っていく。誰れかが大声で「逃げろ…」
と叫けぶつかの間、キーンと耳を抉る
金属音が頭上より背筋を通し伝わった。そ
の瞬間、ものすごい炸裂と地響が起こる。
人々は地面に叩きつけられ声もない。
家屋はそのまま空中に舞いあげられ、粉々
に飛び散り落ちる。真黒い煙が竜巻のよ
うに舞い上がり火の粉が散る。なおも空
から容赦なく爆弾が不気味な金属音をた
てながら黒く白く光りながら雨の如く落
ちてくる。ここかしこで火の手があがる。
真っ赤に空を焦がす熱気が突風を呼び、そ
の風の物凄さ、猛り狂う炎の色、白昼を
暗黒化にし生江地区を残し、つつみこむ
ように周辺は火の海となった。火の粉は
地区内に落ちてくる炎と煙に追いたてら
れ何千人もの人々がぞくぞくと城北公園
めがけて着のみ着のまま泣き叫び、転び
ながら逃げてくる。それを待ち受けてい
たかのように戦闘機数機が黒煙の中より
現われ、淀川土堤すれすれに飛び交い、
避難してくる人々めがけて機銃弾を浴び
せ殺したのである。
 ある者は土堤や池の端、木の繁み、あ
る者は園道にうづくまり、頭をぶち抜か
れ、足をもぎとられ、腹を抉られ、顔を
とばされ、その肉片からしたたり落ちる
血で大地を染め、乳呑み子から老若男女
が水をもとめて這いづりまわり息たえる
者、母と子がしっかりと抱き合い身動き
もしない。髪をふりみだし「雲が燃えて
いる」と泣き叫けぶ女の子、恐しさにお
経を口ずさむ老人、爆弾の雨が音をたて
ながら木々をゆさぶり、人々に襲いかか
る。炎が黒雲を呼び、雨を呼び、地獄絵図
が数時間も続いて終った。
 遺体は常宣寺に運ばれたが、足の踏み
場もないぐらい本堂にも庭にも並べられ、
収容できずにそのまま外に数日間放置さ
れていた人々もあった。地区内の家々か
ら帰らぬ我が子、父母の名を呼ぶ悲しみ
の声が幾日も続いた。遺体は淀川土堤に
運ばれ、油をぶっかけられ火葬にされ、
その煙が夜も昼も休みなく何日も続いた
のである。戦争に駆り出され散っていっ
た我々の親兄弟、家を守った母と子の尊
い命が奪われていった……。
 そして三十三年の歳月が流れ、今我々
が生きていることを喜び合い、また戦争
を知らない若い世代に何んの意味ももた
ない戦争という悲劇をくり返さないため
の手がかりを我々の手で残さなければな
らない。また我々の先輩が部落解放とす
べての人民の解放を叫び、多くの血を流
し、闘い続けた運動の歴史を受け継ぎ、
平和と人権尊重の精神を守り続けるため、
真実を教え、真実を語り、真実を伝え、
この惨劇の歴史と、ここに刻みこまれた
犠牲者とともに永久に銘記するものである。

文 (個人名)一九七七年十一月二十五日

ページトップへ戻る