…(昭和20年)7月2日午前零時10分頃、(下関に)第2回目の空襲がありました。
(中略)
…当時、清和園に逃げた70何人の人が空襲時の火災が原因で全員焼け死んだというこ
とがありました。その1週間ばかりあとに老婦人が「主人の供養をしてくれ」と寺にこ
られました。話を聞いてみると、その老婦人を含めた70何人は、消火活動をしながら
火勢に追われて次第に清和園の高台に登ることになったと申します。ところが、下界は
一面の火の海、その火が高台の側面を周囲から這い登って、しかもそれは上に逃げない
で、高台の上面をなでるようになめたそうで、またたく間に焦熱地獄となりました。
(中略)
最初は衣服に付いた炎を払っていましたが、次第にそれもむつかしくなり、誰からとも
なく、みんな念仏を唱え始めました。そして、その声が1人減り、2人減りして、つい
に途絶え、ただ何かが焼ける音のみが、しばらくは続いていたそうです。
出典:西之端本通会結成20周年記念「にしのはし」(昭和47年2月刊)
多田了道(教法寺)証言より