[平成25年度制作]
企画:株式会社NHKグローバルメディアサービス
制作:株式会社NHKグローバルメディアサービス
仕様:23分
主な取材先:鹿児島県鹿児島市、福岡県福岡市
タイトル「ぼくがしらべた戦災 空襲があった街・九州」
「九州の戦災」
◯鹿児島市
鹿児島市城山町に立つ西郷隆盛の銅像を背景にだいきちくん登場
だいきちくん「ぼくはだいきち。福岡に住む小学校6年生。鹿児島の親戚の所に遊びに来たんだ。」
桜島、錦江湾、鹿児島市内を見下ろす景観(市内の城山展望台からの俯瞰)
だいきちくん「鹿児島と言えば桜島。ここ城山展望台から見る雄大な風景が最高なんだ。でも、これが全く違って見えた時代もあったんだよ」
効果音「カメラのシャッター音」
空襲により焼け跡となった鹿児島市内の写真(昭和20年11月撮影)
テロップ「提供:鹿児島市 撮影:平岡正三郎」
だいきちくん「昭和20年、1945年の写真。まるで町中で火事が起こったように焼けこげている。よし調べてみよう!」
焼け跡となった鹿児島市内の写真を背景にタブレット端末で調べるだいきちくん
だいきちくん「鹿児島大空襲…?(間) 空襲っていったい何だろう?」
◯太平洋戦争
効果音「爆発音」
写真「真珠湾攻撃により破壊される米軍基地(国立公文書館所蔵)」
爆撃で炎を上げる軍艦。炎上する軍艦「アリゾナ」。米軍機の編隊。
テロップ「太平洋戦争 昭和16年(1941)-昭和20年(1945)」
テロップ「米国国立公文書館所蔵」
だいきちくんの声「今から70年以上前、日本はアメリカを初めとする連合国と戦争をしていた」
写真「飛行する大型爆撃機B-29」
テロップ「米国国立公文書館所蔵」
効果音「爆発音」
写真「B-29の編隊が焼夷弾を落とす」 資料映像「日本を爆撃するB-29(米国国立公文書館 資料映像)」爆撃をするB-29。投下される焼夷弾。 テロップ「米国国立公文書館所蔵」
テロップ「空襲」
だいきちくんの声「昭和20年(1945年)、アメリカ軍の攻撃は激しくなり、日本全国が空からの攻撃「空襲」を受け、B29爆撃機からたくさんの焼夷弾が落とされ、日本中が火の海となった…」
CGの日本地図全土から九州地方にズームイン
だいきちくんの声「九州でもたくさんの街が焼け野原になったんだ…」
各地の空襲(焼け跡)写真が次々と展開。都市名と空襲のあった日がテロップで表示される
鹿児島空襲(焼け跡)写真
テロップ 「鹿児島市の戦災 昭和20年(1945年)3月18日〜8月6日 8回の大空襲 死者3,329人」
だいきちくんの声「九州で最も被害が大きかったのが鹿児島市。8回の大きな空襲を受け、3千人以上が亡くなっている。」
テロップ「昭和20年(1945年)6月17日 鹿児島大空襲 死者:2,316人 負傷者:3,500人」
だいきちくんの声「昭和20年6月17日深夜の鹿児島大空襲では、一晩で2,316人が命を失ったんだ。みんなは想像できる?」
木漏れ日(太陽)
鹿児島市広馬場通り(鹿児島で一番の繁華街、天文館に程近い場所)
テロップ「鹿児島市」
だいきちくんの声「鹿児島市内では、毎年空襲の日に合わせて追悼式が行われている」
広馬場通りの戦災鎮魂慰霊祭
テロップ「広馬場通り 戦災鎮魂慰霊祭」
広馬場通り 戦災鎮魂慰霊の碑
だいきちくんの声「この慰霊碑は、春成幸男さんが平成16年に建立したんだ」
立ち並ぶ参列者
春成幸男さんの横顔アップ
テロップ:春成幸男さん(87)
春成さんの当時の写真(学生時代)
だいきちくんの声「春成さんは空襲のあった6月17日の深夜、両親、そして弟、妹たち一家8人で近くの防空壕に逃げ込んだ」
テロップ「防空壕」
春成さんの両親の写真
テロップ「父 直助 母 梅」
だいきちくんの声「でもお父さんの言いつけで大切な忘れものを取りに1人家へ戻った。
それが運命の別れ道になったんだ…」
家族7人の写真
だいきちくんの声「家族7人は防空壕で蒸し焼きとなり、翌朝帰らぬ姿で発見された…」
テロップ「父 直助 63才 母 梅53才 五女 ミツ子22才 六女 澄子17才 七女 九ミ子15才
五男 敏明 12才 六男 敏郎 10才」
慰霊碑に手を合わせる春成さん
だいきちくんの声「春成さんだけが1人取り残された…」
春成幸男さんインタビュー
春成さん
「自分だけが助かったということで。もうとにかくその残された者っていうのはね、死んだ者よりもうものすごく苦しかったです。だから今87歳ですけど、その時の想いっていうのは未だに忘れられないですね。
…残された者の使命というのは、どういうものがあるのかという事をいつも考えてました。なんか自分に、あとは頼むよと、いうことがあったんじゃないかと思って…」
テロップ「残された者は死んだ者よりも(ある意味では)苦しい」「残された者の使命」「あとは頼むよ…」
手を合わせる春成さん
だいきちくんの声「春成さんは家族を含む、空襲犠牲者のため、毎年慰霊祭を行っている」
桜島の夕景を背景にだいきちくん登場
だいきちくん「九州の他の場所でも同じように悲しい出来事があったんだと思う。
ぼくは地元の福岡についても詳しく調べてみることにしたんだ…」
○福岡大空襲
福岡市内を見下ろす景観を背景にだいきちくん登場
だいきちくん「福岡県福岡市。人口150万を超す、九州を代表する大都市」
博多の街並み(商店街の人混み)
だいきちくんの声「中でも博多は、商業・文化の中心地として歴史がある街なんだ」
街の賑わい
博多座
外観ロング、行き交う人々
だいきちくんの声「ここは博多座。毎年恒例の6月歌舞伎が開催されている」
提灯、のぼり旗
演目の看板、同アップ
博多座前の通り
だいきちくんの声「実はこの賑やかな場所も激しい空襲を受けていたんだ…」
那珂川の川岸
博多 中州の夕景
川からパンアップ 雲に
テロップ「昭和20年(1945)6月19日」
だいきちくんの声「昭和20年6月19日…」
資料写真:B29の飛行、投下される焼夷弾
焼夷弾の落下と炎が重なる。
テロップ「提供:福岡市市立博物館」
だいきちくんの声「深夜11時11分。アメリカ軍の爆撃機B29 60機余りが福岡の街を襲った。
焼夷弾による爆撃で市内中心部は次々と燃え上がり、人々は逃げ惑った」
十五銀行ビルの写真
モノクロ十五銀行ビルがズームとともにカラーになる
テロップ「(C)アソシエ地図の資料館」
だいきちくんの声「現在の博多座の場所には、当時十五銀行という銀行が建っていたんだ。
空襲から逃れようと建物の地下室に63人が逃げ込んだけど…全員蒸し焼きのような状態で亡くなっている」
福岡大空襲の焼跡写真
テロップ「提供:福岡市博物館」
テロップ「昭和20年(1945)6月19日 福岡大空襲
犠牲者:902人 負傷者:1078人」
だいきちくんの声「空襲はおよそ2時間も続き、900人以上が犠牲になったんだ…」
記念群像のアップ
西中洲公園の「戦災復興記念群像」
テロップ「戦災復興記念群像」
だいきちくんの声「福岡市では空襲の悲劇を忘れないよう、慰霊碑の建立や追悼式を開催しているんだ」
冷泉公園
テロップ「冷泉公園」
テロップ「平成25年(2013)6月19日」
テロップ「福岡市戦災引揚死没者追悼式」
市長の挨拶
福岡市長の式辞「…68年前の今日、昭和20年6月19日、
突然の大空襲により一夜のうちに福博の街は火の海と化し、多くの方々の尊い生命が失われました…」
テロップ「福岡市長の式辞」
テロップ「多くの方々の尊い生命が失われました」
参列する遺族の方々
だいきちくんの声「博多区の冷泉公園で行われている追悼式」
数珠を持つ参列者
献花をする市民
菊のアップ
追悼式全体引き画
挨拶される遺族代表の樋口さん
テロップ「樋口泰助さん(74歳)」
だいきちくんの声「空襲犠牲者の遺族代表として挨拶する樋口泰助さん」
樋口さんの挨拶
テロップ「その時の悲しみ苦しいをずっと…時が経つにつれても、色あせることはありません」
樋口さん「その時の悲しみ苦しいをずっと…時が経つにつれても、色あせることはありません」
だいきちくんの声「防空壕に逃げ込んだ、おばあちゃん、お母さん、お姉さん、妹二人を亡くしている。
お母さんのお腹の中には赤ちゃんもいたんだ…」
樋口さんインタビュー
樋口さん「今でも思い出します。あの時はですね、母とおばあちゃんは顔から背中まで黒こげでしたが、
子どもたちはみんな顔はキレイに母とおばあちゃんにしがみついて顔を伏せていたもんで、顔はキレイにしてました」
樋口さんの家族写真
テロップ「母とおばあちゃんは顔から背中まで黒こげでした」
テロップ「父 母 祖母 姉 妹 妹 樋口泰助さん」
テロップ「子どもたちの(死に顔)はきれいでした」
だいきちくんの声「家族5人を一度に失った樋口さん。でもそんな悲しみの中、やらなくてはならないことがあったんだ。」
樋口さんインタビュー「遺体を父と二人で小学校、私は当時1年生だったから、そこの小学校の校庭に運んだんです。
で、校庭の中にも百何十人という遺体が並んでましたから遺体が腐敗して匂いが凄くなってきたから…父と二人で焼け残った材木を寄せ集めて5人を焼きました・・・」
テロップ「校庭にも百何十人という遺体が並んでいました」
テロップ「焼け残った材木を寄せ集めて 家族5人(の遺体)を焼きました」
冷泉公園慰霊碑
追悼式を背景にだいきちくん
だいきちくんの声「家族を亡くしただけでも辛いのに、小学校1年生が自分で家族の遺体を焼くなんて…」
◯空襲の記憶を伝える
福岡市立博多小学校 外観、校庭
テロップ「福岡市立博多小学校」
だいきちくんの声「福岡市内の小学校には、空襲の爪痕を今に伝える場所が残されているんだ」
整列して廊下を歩く生徒たち
平和資料室前に到着
テロップ「平和資料室」
だいきちくんの声「博多小学校の平和資料室。この入口の扉は空襲で燃え残った当時の小学校のもの。
戦災があったことを忘れないように、保存されているんだ」
平和資料室
入口の扉
炭化した扉の縁
同、別テイクのクローズアップ
扉からパンダウンで内部
展示写真1
展示写真2
展示物(千人針)
展示物(衣類)
展示物(熱でゆがんだ瓶)
だいきちくんの声「資料室の中には空襲後の福岡の写真や戦災の遺品が展示されている」
資料室に入ってくる女の子たち
だいきちくんの声「子どもたちは、空襲の日の前後、この資料室を改めて見学するんだ。みんなはどんなことを感じたんだろう。」
ある写真に見入る男の子たち
子どもC「これ何右足ないぞ…」
テロップ「右足ないぞ」
女生徒インタビュー
テロップ「6年生」
女生徒「足が一本無かったりとかして、とても怖いと思いました。この写真なんですけど(片足の少女)、足が一本無くて一人で彷徨っている女の子なんですけど、
とても可哀そうだと思います。みんなが仲良くして、戦争も争いもなく過ごせばいいと思います」
片足の女の子の写真
樹木と空
児童たちの登校風景(学校の門をくくる)
テロップ「福岡市立飯倉小学校」
だいきちくんの声「空襲体験者からお話を聞く学校もあるんだよ」
防空頭巾姿で登場する鍋山徳子さん
テロップ「鍋山徳子さん(75歳)」
だいきちくんの声「防空頭とモンペ姿で登場したのは鍋山徳子さん。
空襲の時は小学校2年生だったんだって」
鍋山さん
鍋山徳子さん「とてもね、今思い出してもイヤです。(声を震わせ)とっても悲しい事があったんです。」
話を聞く子どもたち
鍋山徳子さん「1945年、昭和20年6月19日、夜寝てました。10時35分にね、ウーっという警戒警報が鳴って、間もなく、ウー!ウー!ウー!って早く逃げなさいというそういうような合図がある。
寝てた私を『とこちゃん、とこちゃん、早く起きて!』と言って起こされて・・・中庭の防空壕に入りました」
テロップ「警戒警報」
効果音「警戒警報」
真っ赤な色を背景にだいきちくん登場
だいきちくん「防空壕に逃げ込んだ鍋山さんだったけど、一歩外ではアメリカ軍の空襲で福岡の街は火の海のような状態になっていたんだ。その時、外から叫び声が聞こえた!」
鍋山さん
鍋山徳子さん「すぐ出なさい!と言われて、防空壕から出たんですけど、真夜中ですよ.
真っ暗なね、夜なのに、昼間よりももっともっと明るい!真っ赤っかなね、」
話を聞く子どもたち(手のアップ)
飛んできた火の粉が私たちの座ってた樅の木に移って、それが燃えて私の防空頭巾に落ちたんですよ…そしたらこれ燃えてたんですよ。(被っていた防空頭巾を脱いで見せる)だから急いで踏み消しました。
(防空頭巾を踏む)で、ブルブルブルブル震えてたんですけど…」
福岡大空襲の焼跡写真1に炎が重なる
テロップ「提供:福岡市市立博物館」
効果音「炎の燃え上がる音」
だいきちくんの声「火の海となった街を、鍋山さんたちは必死で逃げた。そして恐怖の中で一夜を過ごした。
ようやく朝を迎え、鍋山さんが見たものは…焼け野原となった福岡の街と死体の山だった」
福岡大空襲の焼跡写真2
テロップ「提供:福岡市市立博物館」
だいきちくんの声「鍋山さんの大好きだったおばさんも遺体で見つかった・・・」
鍋山徳子さん「私はそれを見て『おばちゃーん!どうして死んだの!おばちゃーん!なんで死んだのー!』と言って、今思い出してもとても怖いです…
こういう風に戦争ね、人がなぜ焼かれたり、焼き殺されたり、焦げたりするのでしょうか…?」
生徒たちの肩越しに鍋山さん
テロップ「人がなぜ焼かれたり、焼き殺されたり、焦げたりするのでしょうか」
鍋山さん、生徒たちの引き画をバックにだいきちくん登場
だいきちくんの声「鍋山さんは思い出すだけでも辛いのに、どうして空襲の話をしてくれるんだろう…?」
校庭で遊ぶ子どもたち
テロップ「福岡市立三宅小学校」
空襲体験発表の会場(体育館)に入る楠原さん
だいきちくんの声「この学校でも別の人が空襲について話していた」
楠原さんの肩ごしにたくさんの子どもたちが見える
体育館の床に座り、楠原さんの話を聞く子どもたち(小学3年生から6年生の児童)
子どもたちに挨拶をする楠原博さん
テロップ「楠原博さん(78)」
だいきちくんの声「楠原博さんは小学校5年生の時に空襲を体験している」
空襲当時の思い出を話す楠原さん
楠原博さん「昭和9年1934年の9月の生まれで、福岡大空襲は6月の19日、(暦の上では)明日の夜起こったんです※。その時は10歳です。国民学校5年、小学校5年になります」
※お話された日は平成25年6月18日
楠原さんの小学生時代の写真が途中挿入される
真剣に耳を傾ける子どもたち
楠原さんが小学5年生の時に描いた絵「福岡上空を夜間飛行するアメリカ軍の爆撃機」が説明用に拡大されてある。その絵を指し示しながら解説する楠原さん
楠原博さん「夜ですね、ともかく真っ暗なんですよ。これあの…今で言うとサーチライト、懐中電灯のものすごいでかいやつ。それでね、敵機をですね、とらえているんですね。」
テロップ「敵機(てっき)」
B29模型を手に持って
楠原博さん「これ!これね、B29と言いましてね…この爆弾の中に焼夷弾というのが…詰め込まれてるんですね。」
真剣に耳を傾ける子どもたち
楠原博さん「爆撃と言いますか、焼夷弾攻撃を止むのを待ってたんです2時間後に敵機がいなくなりましたんでね。ところがもうみんな火の海なんです」
子どもたちに向かい熱く話す楠原さん
当時の写真ズームイン
楠原博さん「長浜、天神、千代町、みんな焼けたんです。
焼け残ったのってないんですよ。もうみんな、あの地帯は焼けたんですよ。
勿論、熱いんです。わぁ自分も死ぬわいと。ともかく水、水、水!って水を求めてね、
ちょっとでも水があれば飲みたいわけ。渇きとかではなくて通り越してね、もうこの世の中から空気が無くなったかなぁと。今で言うとね、酸素がなくなっているんですよ。みんな燃えてしまったからね…」
テロップ「長浜、天神、千代町みんな焼けたんです」
テロップ「水 水 水!って水を求めてね」
テロップ「この世の中から空気が無くなったような」
お話する楠原さんから体育館前列に座っていた子どもたち(3年生)にカメラが動く
汗をかきながら、真剣な目で見つめる子どもたちの表情が映る
福岡大空襲の焼跡写真3を背景に、フラフラ歩くだいきちくん
テロップ「提供:福岡市市立博物館」
だいきちくん「焼け野原となった福岡の街で水を求めてさまよう中、楠原さんは恐ろしい光景を目の当たりにしたんだ」
楠原博さん「…ようするに真っ黒い…で、骨にはなっていないのね。人間だなぁというかっこうはわかるんですよ。髪も燃えているし、真っ黒になっちるからわからないわけ、男か女かも。ただ、大きいか小さいかで、子どもさんか大人かなと。それをね、実際に見ましたよ…」
テロップ「人間だなぁとはわかるんですよ」
元警視庁カメラマンだった石川光陽氏の東京大空襲写真1が挿入される
写真1「炭のように真っ黒になったたくさんの遺体が無造作に並んでいる」
テロップ「イメージ」
テロップ「東京大空襲 撮影:石川光陽」
写真2「親子らしい黒焦げの遺体」
テロップ「東京大空襲 撮影:石川光陽」
切々と訴えかけるような楠原さんの表情
子どもたちが次々と映し出される
楠原博さん「…私みたいな年がね、もう80近くになってくるとね。今皆様にお話ししとかないとね、もうあと5年か10年か、もう生きてるかどうかもわかりません。
だから生きてる間はですね、戦争はダメだよということをですね、訴えたいと思います」
大きな拍手をする子どもたち
終了後の子どもたちへインタビュー(楠原さんのお話の感想)
3年生(女子)「自分も小さい子だったら、すぐに私も亡くなっている…亡くなっちゃう感じかなぁ…」
テロップ「3年生」
テロップ「自分も小さい子だったら、すぐに私も亡くなっている」
6年生(女子)「私たちは当たり前のように学校に行ってるけど、その頃は…学校に行くなんて、学校に行って勉強することが当たり前ではないということに驚きました。
今度は私たちが今後の人たちに伝えていけるよう、戦争の悲惨さや、どれだけの被害があるのかとか、罪なき人たちがどれだけ苦しめられたのかを…伝えていきたいです」
テロップ「6年生」
テロップ「その頃は学校に行って勉強することが当たり前ではないということに驚きました」
テロップ「今度は私たちが今後の人たちに伝えていけるように」
テロップ「戦争の悲惨さや、どれだけの被害があるのか」
テロップ「罪なき人たちがどれだけ苦しめられたのかを伝えていきたいです」
校舎、校庭を背景にだいきちくん登場
だいきちくん「みんな、いろいろなことを感じたみたいだね。僕も空襲や戦災についてもっと調べてみたいと思ったよ」
◯戦災について調べてみよう
鹿児島市の城山展望台への道を歩く平岡正三郎さん(故人)の後ろ姿
(平成19年度「明日への伝言 ふるさと・平和への調べ」のライブラリー映像映像)
インタビューを受けている平岡さんの姿
だいきちくんの声「空襲で焼け野原となった鹿児島市内を撮影した平岡正三郎さん。満100歳でお亡くなりになったんだ…」
テロップ「平岡正三郎さん」
テロップ「平成25年3月死去」
終戦後の昭和20年11月に撮影「焼け跡となった鹿児島市内の写真」にだいきちくんが重なる
カメラが引くとその写真を持ち、現在の桜島と見比べる平岡さんの後ろ姿
だいきちくんの声「戦争が終わって70年近く…当時を知っている人は年々少なくなっている。でも…生前の平岡さんはこんな言葉を残しているんだ」
平成19年度「明日への伝言 ふるさと・平和への調べ」から平岡さんインタビュー抜き出し
平岡さん「いま撮っていかんな、誰も撮る人がいないという自負を持っていましたから、早く(シャッター)を1枚切っておけばいいんだ、撮っておけば(空襲後の鹿児島が)後世に残るだろう。もう、それだけの
とにかく撮るということだけですね…」
テロップ「平成19年度制作ビデオ『明日への伝言 ふるさと・平和への調べ』より」
テロップ「今撮っておかなければ誰も撮る人がいない 早く(シャッターを)一枚切りさえすりゃいいんだ 撮っておけば(空襲後の鹿児島市が)後世に残るだろう…」
平岡さんの写真バックにだいきちくん
テロップ「提供:鹿児島市 撮影:平岡正三郎」
平岡さんの撮った別テイクの焼跡写真を背景にだいきちくん登場
だいきちくん「平岡さんが決死の思いで撮影したお陰で、ぼくらは当時の鹿児島の様子を知ることができる。
空襲や戦災を何かのかたちに残し、伝えていくことはとても大切なんだね」
◯九州各地の戦災に関する追悼式
鹿児島市の広馬場通りの慰霊碑
福岡市の冷泉公園、福岡市戦災引揚死没者追悼式
だいきちくんの声「ぼくは鹿児島や福岡だけではなく、九州各地の戦災についても調べてみた。
空襲があった街には犠牲者のための慰霊碑があることや、空襲の日に合わせて追悼式が今でも開かれていることがわかったんだ」
鹿児島市主催の追悼式にテロップ | 鹿児島 | 6月17日 |
鹿児島市の広馬場通りの慰霊祭にテロップ | 鹿児島 | 6月18日 |
福岡市戦災引揚死没者追悼式にテロップ | 福岡 | 6月19日 |
佐世保市の慰霊祭にテロップ | 佐世保(長崎) | 6月28日 |
延岡市の慰霊祭にテロップ | 延岡(宮崎) | 6月29日 |
熊本市の慰霊祭にテロップ | 熊本 | 7月1日 |
大分市のムッちゃん平和祭にテロップ | 大分 | 8月2日 |
鳥栖市の慰霊祭にテロップ | 鳥栖(佐賀) | 8月11日 |
福岡市博物館の外観
テロップ「福岡市博物館」
「戦争と私たちのくらし」展の模様
テロップ 「企画展『戦争と私たちの暮らし』」
企画展の展示物が映る
当時の戦局を伝える紙芝居
同、零戦とアメリカ軍の戦闘機の絵
だいきちくんの声「空襲、戦災について詳しく知りたい、調べたいお友達は、地域の資料館や博物館を訪ねてみるといいよ。
空襲があった時期に合わせて、催しものが開かれていることもあるんだ」
福岡市博多区の冷泉公園にある「戦災死没者慰霊塔」※慰霊祭の会場
テロップ「戦災死没者慰霊塔」
だいきちくんの声「空襲によって、たくさんの人が犠牲となり、多くの街が焼け野原になったことをぼくは学んだ」
福岡市西区に有る栄昌寺「じゅうご地蔵」
同ロング
テロップ「じゅうご地蔵(十五銀行の地下で亡くなった63人を慰霊する)」
だいきちくんの声「悲しく、苦しい時代を乗り越えて、今の平和な時代になったんだね」
福岡市中央区の西中洲公園にある「戦災復興記念群像」
同ロング
テロップ「戦災復興記念群像(福岡市中央区)」
現在の福岡の街並みズームアウト
◯主な取材先
写真「広馬場通り 戦災鎮魂慰霊の碑」
テロップ「戦災鎮魂慰霊の碑 鹿児島市堀江町1番」
写真「戦災復興記念群像」
テロップ「戦災復興記念群像 福岡市中央区天神1丁目」
写真「戦災記念碑」
テロップ「戦災記念碑 冷泉公園 福岡市博多区上川端町7丁目」
写真「じゅうご地蔵」
テロップ「じゅうご地蔵 栄昌寺 福岡市西区今宿町491」
写真「福岡市博物館」
テロップ「福岡市博物館 福岡市早良区百道浜3丁目1-1 TEL:092-845-5011」
◯エンドクレジット
協力
(順不同・敬称略)
鹿児島市
広馬場通り戦災鎮魂慰霊の会
春成幸男
平岡正三郎(故人)
総務省委託
企画・制作 株式会社NHKグローバルメディアサービス