1.はじめに
釜石市長の野田武則でございます。
本日は、 ICTフェア in 東北2020 ONLINE での「震災復興10年」をテーマに「撓まず屈せず、釜石市における復旧・復興の歩み」と題して、情報通信関係を含めた、当市の東日本大震災発生当時の被害状況と、これまでの復旧・復興の取組についてお話をさせていただきます。
この講演により、参加者の皆様が大震災を今一度振り返り、その記憶を風化させず、防災意識の向上につながれば幸いであります。
2.釜石市の概要
釜石市は、面積が441.43平方キロメートル、人口は32,374人であります。
岩手県の南東部、三陸復興国立公園のほぼ中央に位置しております。
日本で最初に洋式高炉の連続出銑に成功した、我が国の近代製鉄発祥の地として、また、三陸漁場の中心港として、「鉄と魚のまち」として発展してまいりました。
3.東日本大震災による被災状況
平成23年3月11日の東日本大震災から9年が経過しました。
当市をはじめとする被災自治体では、震災以降、全国そして世界中の支援団体や自治体から、多くの支援を受けてまいりました。
これまで復興が進展できたことは、皆様方のご支援の賜物であり、改めて厚く御礼申し上げます。
忘れもしない、平成23年3月11日午後2時46分、世界最大級である、マグニチュード9.0の地震が三陸沖で発生し、午後3時14分、当市に押し波が到達して、この後、大津波が猛威を振るい、東北地方沿岸部は壊滅的な被害を受けました。
当市においても、多くの家屋が流失し、たくさんの方々が犠牲となりました。
津波が浸水した地域には、残された瓦礫が無残に散乱し、目の前に広がる壮絶で悲惨な光景が、今でも脳裏に焼き付いております。
発災後すぐに避難所が各所に開設され、避難された方々は、市内で9,883人、市外内陸部で633人となっております。
人的被害については、死者・行方不明者併せて1,064名の尊い命が奪われました。
家屋被害では、市内全住家のおよそ3割の4,704戸が被災しております。
産業面でも、当市の基幹産業である漁業関係は甚大な被害を受けたほか、市内全事業所のおよそ6割にあたる1,382事業所が被災しております。
それら産業関係の概算被害額は、2,131億円にも及んでおり、被災前の、平成22年度釜石市一般会計歳出予算額が、およそ170億円だったことを考えると、その被害がいかに大きかったことが、ご理解いただけると思います。
4.被災者に寄り添った復興まちづくりの推進
当市において、被災された方々の一時的な住居の安定を早急に図るため、発災当日から応急仮設住宅の建設に向けた取組を開始し、平成23年4月には市内で第1号の仮設団地が完成しました。
その後、市内の至る所に仮設住宅が完成し、最終的には3,164戸の仮設住宅が整備されております。
5.『住まい』・『なりわい』・『にぎわい』の再生に向けた取組
当市のみならず、被災地においては、復興に向けて最優先して取組んできたことは、『住まい』と『なりわい』の再生であり、これらが、いわゆる震災復興の1丁目1番だと考えております。
また、それら優先事項だけでなく、中長期的をにらんだ、まちづくりのため、魅力あるにぎわい施設の整備を中心とした『にぎわい』の再生を、同時に進めて行く必要があります。
今後の人口減少や少子高齢化を見据え、将来世代への責任を持ったまちづくりを目指し、両者のバランスを取りながら復興を進めており、ここでは、その3つの要素についてお話をいたします。
『住まい』の再生
当市は、被災された方々の自力再建や復興公営住宅への入居希望に沿えるよう、1日も早い各種復興事業の進捗に努めてまいりました。
当市において、被災された世帯は約4,000世帯ありますが、その全世帯を対象に、住宅再建意向調査を実施しています。その希望に基づき、宅地造成や復興公営住宅の建設を決定しております。
『なりわい』の再生
当市では多くの事業所が被災し、雇用環境も悪化する中、一刻も早い、地域産業の立て直しが必要な状況でありました。
このような中で、国と県により、被災中小企業等グループの施設・設備の復旧を支援する「グループ補助金」が創設され、当市においては令和2年4月現在で延べ43グループ、247事業者が助成を受け、被災事業者の早期再建に、大きな効果を生み出しております。
『にぎわい』の再生
被災した東部地区は、これまで当市の中心的な都市機能を担ってきた歴史があります。
震災後間もない平成23年5月には、東部地区で復興まちづくり懇談会を開催し、将来の本地区における、まちづくりの展望について、地域の方々と議論し、本地区では復興の象徴的な取組として、3つのフロントプロジェクトを計画致しました。
フロントプロジェクト1は「商業とにぎわいの再生」、フロントプロジェクト2は「行政機能の再配置」、フロントプロジェクト3は「魚河岸地区のにぎわい創出」、となっており、それぞれのフロントプロジェクトで創出された「にぎわい」が回遊し本地区全体の「にぎわい」につなげることを目指しております。
それら、プロジェクトの前提として、本地区においては、『多重防御での減災』という基本的な考え方に則ってまちづくりを行っております。
具体的には、3.11規模の津波が発生した場合に備え、被災した湾口防波堤を復旧させ、防潮堤をかさ上げし、防潮堤の背後には、小高い築山で作られる『グリーンベルト』を整備し市街地の浸水を最小限に留めつつ、なお浸水が想定される場所においては、かさ上げを行うことで、居住する方々の安全・安心を確保しております。
6.通信・放送関係の復旧の取組
今回の講演は、「情報通信技術」がテーマということでございますので通信・放送の復旧のお話をさせていただきます。
当市中心部では、昭和62年からケーブルテレビ事業者による放送サービスが始まり、また、通信事業者によるブロードバンドサービスが始まっておりました。
しかし、周辺地域ではブロードバンドゼロ地域やADSLサービスにおいて、線路延長の関係から高速通信ができない地域が存在したほか、平成15年から始まった地上デジタルテレビ放送を視聴できない地域もありました。
その情報格差を是正するため、平成22年に総務省さんの「地域情報通信基盤推進交付金事業」いわゆる「ICT交付金事業」を活用し、約10億円の事業費をかけ、光ファイバなどの情報通信基盤を整備しました。
しかしながら、平成23年の震災により、唐丹町や鵜住居町などICT交付金などで整備した設備の一部が被害を受け、新たな情報格差が、発生してしまいました。
新たな街づくりの中で当市としては、被害を受けた情報通信基盤の早急な復旧が必要であり、地域の住民からも要望が寄せられていたため、平成24年からの5年間、総務省さんの「情報通信基盤災害復旧事業」により、光ファイバ網を再び整備し、震災前からIRU契約による、サービスを開始していたケーブルテレビ事業者と通信事業者へ再度施設を貸し出し、震災前と同様な「地上デジタルテレビ、BS・CSデジタルテレビ放送」の再放送サービスと光インターネットサービスを再開することができました。
また、希望者には光ファイバ網を活用した防災告知端末を設置できるよう整備いたしました。
通信基盤などのインフラの整備のためには多額の負担が必要でありますが、復旧を含め、国の支援もあった中で、こうして復旧できたことを、ありがたく思っております。
7.釜石漁業用海岸局の非常通信について
次に、当市の取組ではないのでありますが釜石にある漁業用海岸局さんが行った非常通信についてお話をさせていただきます。
震災当日、「釜石漁業用海岸局」に避難をした釜石市民ら30人の安否情報などを岩手県庁に伝えるため、携帯電話はもちろん、固定電話もつながらない中、この海岸局さんは、漁業無線による非常通信を行い、受信した茨城県や千葉県の漁業用海岸局からリレー形式で岩手県庁に伝えていただいたということがありました。
国際遭難周波数による非常通信を行ったとのことで、この周波数は、各国機関の交信で混雑していることが多いそうなのですが、釜石の海岸局長さんが、避難者の名前を読み上げた震災当日の夜は、世界中の無線局が釜石の交信を妨げないよう緊急以外の通信を控えてくれたとのことであります。
大規模災害の際は、携帯電話や固定電話が通じなくなることもあることから、1分1秒を争う状況において、こうした無線局による通信確保の重要性を改めて認識した次第であります。
8.臨時災害放送局の開設・運用
放送関係でもう一つ、お話があります。
当市は、地震発生の約1か月後となる平成23年4月から、臨時災害放送局「かまいし さいがいエフエム」を開設し、平成29年3月までの6年間、運用いたしました。
この放送局の開設に当たっては、私から岩手の放送事業者である「エフエム岩手」さんに、立ち上げ及び運営への協力を要請し、当市の広聴広報課が中心となって運営を行うことで開設をいたしました。
放送では、釜石市の広聴広報課に集まる情報を中心として、バスの運行情報、お風呂情報、行政の窓口など、生活に関する情報を、釜石市の臨時職員らが情報を読み上げました。
平成26年4月からは、エフエム岩手の釜石支局に運用を委託し、エフエム岩手さんの「釜石やっぺしFM」という番組と連携しつつ放送を継続し、平成29年まで運用いたしました。
震災後、情報が錯綜するなか、当市から直接住民にお届けした情報は、大勢の市民の生活再建に役立ったのではないかと思っております。
今回、災害時における臨時災害放送局の有効性を感じた訳でありますが、この放送局の開設・運用は、当市単独では到底実現できなかったことであり、関係の皆様のご尽力に感謝する次第であります。
9.震災10年を迎えて
令和3年3月11日をもって、震災から10年目を迎えます。
これまで取組んできた復興事業は、おかげさまをもちまして、被災したほとんどの地区で宅地造成が終了し、自力再建される方々は自宅の建設を順次進めております。
また、復興公営住宅に入居した被災者の皆様についても、入居から年数を経て、次第に落ち着いた生活となってきております。
10.ラグビーワールドカップ
この10年の間には嬉しい話題として、ラグビーワールドカップ2019の開催と橋野鉄鉱山の世界遺産登録がありました。
ここでは、昨年開催されましたラグビーワールドカップについて、お話をさせていただきます。
ラグビーワールドカップは、昨年、アジアで初めて開催されたラグビーワールドカップ2019 日本大会の復興のシンボルとして、国内12開催地の1つとして開催いたしました。
国内の開催都市の中で、唯一スタジアム会場を持たなかった当市は、「釜石鵜住居復興スタジアム」を新たに整備して、東日本大震災からの復興とラグビーのまち釜石を広く発信し、これまで、ご支援・ご協力をいただいた国内外の皆様に感謝の意を表す機会として、取り組んでまいりました。
9月25日に釡石鵜住居復興スタジアムで行われたフィジー対ウルグアイ戦には1万4千人を超える、多くのお客様にお越しいただきました。
10月13日のナミビア対カナダの試合は残念ながら、台風の影響により中止になりましたが、カナダの選手がボランティア活動をするなど世界に釡石での取組みが発信されました。
ここで、当市のスポーツ推進課が作った「ラグビーのまち釜石」の動画をご覧いただきたいと思います。
--------「ラグビーのまち釜石」の動画(ここから)--------
2011年3月11日 東日本大震災発生まだ瓦礫だらけの中で、小さな声が生まれた。
釜石でラグビーワールドカップができないだろうか。
こんな状況で何言ってんだ。
まだ復興の「ふ」の字もできていない。
生活再建に必死なんだよ。
それは当然だった。
先が見えなくなるほどの厳しい災害だった。
でもだからこそ釜石に希望が欲しかった。
みんなが一つになれる何かが欲しかった。
ひとりひとりに、「思い」を話していった。
「ラグビーの力を借りようよ」
少しずつ仲間が増えていった。
しかも、やはり釜石はラグビーのまち。
いつのまにか同じ思いを持ったいくつものチームが育っていた。
2014年7月4日、ラグビーワールドカップ2019開催都市への立候補を表明。
「やるとなったら、やるべ」
さあ、釜石の本領発揮だ。
ところが、立ち上がったのは釜石市民だけではなかった。
「新日鉄釜石の日本選手権7連覇時代、私たちは釜石に勇気をもらった」
「こんどは、私たちが釜石に勇気の恩返しをする番だ。」
岩手、東北、そして全国の人々が釜石開催を応援しはじめてくれた。
2015年3月2日、開催地に決定。
2017年3月、津波で全壊した鵜住居小学校釜石東中学校の新校舎が高台に完成。
2017年4月、震災まで学校があった場所にスタジアムの着工。
元オールブラックス主将リッチー・マコウ氏、ダン・カーター氏など世界のトッププレーヤーも釜石を訪れワールドカップの機運を盛り上げてくれた。
2018年8月19日、釜石鵜住居復興スタジアム完成。
様々なオープニングイベントが催された。
かつての良きライバルであった新日鐵釜石 対 神戸製鋼 のOBたちによるレジェンドマッチ。
釜石シーウェイブス 対 ヤマハ発動機ジュビロの白熱したゲーム。
「わたしは、釜石が好きだ。」
釜石高校2年生の洞口留伊さんが「わたしは、釜石が好きだ。」という言葉ではじまるキックオフ宣言を読み上げ、感動をよんだ。
ワールドカップ開催へ向けて、三陸鉄道リアス線の復旧や三陸沿岸道路の開通などインフラ整備工事も加速した。
2019年7月27日、テストマッチとしてワールドラグビーパシフィック・ネーションズカップ2019「日本代表対フィジー代表戦」開催。
そしてついにその日はきた。
2019年9月25日、ラグビーワールドカップ2019 日本大会 釜石開幕。
「フィジー対ウルグアイ戦」
続々と到着するお客様を多くのボランティアの皆さんが色とりどりの大漁旗を振り、満面の笑顔とハイタッチでお出迎え。
秋晴れのスタンド上空を、ブルーインパルスが展示飛行。
市内全小中学校14校の約2,200人が、震災支援への感謝の気持ちを歌にした。
「ありがとうの手紙 #Thank you From KAMAISHI」を合唱。
両国の国歌斉唱の前には、東日本大震災犠牲者への黙祷が行われた。
ボールボーイの少年も、それぞれの国歌をしっかり覚え、各チーム選手と並んで斉唱。
秋篠宮皇嗣殿下・同妃殿下にもご来場いただきました。
14時15分 ウルグアイのキックオフで試合開始。
その瞬間、夢は現実となった。
観客数は1万4,025人と発表された。
その日、釜石市民ホールTETTOで開催した「ファンゾーン in 岩手・釜石」の入場者数も5,323人を数えた。
このファンゾーンは、12開催都市の中で最も長い28日間開催し、41試合のパブリックビューイングを実施。
総入場者数の目標1万4,000人を大きく上回る3万8,982人が声援を送った。
2019年10月12日、令和元年台風第19号(ハギビス)が日本に来襲し、東日本を北上。
コースがそれてくれないか、一縷の望みは届かなかった。
残念ながら10月13日開催予定だった。
「ナミビア対カナダ戦」の中止が発表された。
しかし、物語には続きがあった。
試合は観ることができない。
スタジアムにも入れない。
にもかかわらず、鵜住居駅周辺には大勢の人々が集まってきた。
みんなで大漁旗を持って、スタジアムまで行進しよう。
キックオフ 12時15分に合わせて法螺貝が吹かれ、台風一過の青空の下、100旗以上の大漁旗が振られた。
何かを応援するように。
いっぽう洪水に襲われた地区では土砂の除去などのボランティア作業に従事するカナダ選手たちの姿がそこにあった。
もしかしたら試合以上の、大切なプレーを私たちに観せてくれた。
これこそがラグビー精神なのかもしれない。
2019年11月2日、南アフリカが優勝トロフィーである
ウェブ・エリス・カップを掲げ、ラグビーワールドカップ2019 日本大会は幕を閉じた。
翌日に行われたワールドラグビーアワードにおいて、ラグビーの価値を社会的に高めたとして、12開催都市の中で唯一「釜石市」が「キャラクター(品格)賞」を受賞した。
今大会の統括責任者であるアラン・ギルビン氏は、釜石で開催された試合を「最も誇りになった日」と語った。
釜石は、世界のKAMAISHIになった。
釜石は、大会で最も小さなスタジアムだったけれど、とても大きなレガシーを得ることができた。
それは、物というよりも心のレガシー。
チャレンジしつづければ、夢のようなことでも成し遂げられるのだ。
最初は小さなONE TEAMも、思いをあきらめなければ大きなONE TEAMになっていく。
子どもたちにも、大切なことを伝えられたように思う。
やっぱり、ラグビーっていいな。
やっぱり釜石っていいな。
新たな伝説が始まる。
釜石鵜住居復興スタジアムの前に立って、
耳をすませば、あの日の歓声が聞こえて、勇気づけてくれる。
ラグビーが紡ぐ物語に終わりはない。
--------「ラグビーのまち釜石」の動画(ここまで)--------
この動画は、YouTubeで「ラグビーのまち釜石」で検索していただければ、ご覧になれます。
世の中が大変な時だからこそ、釜石市が震災からの復興の柱として取組んできたラグビーワールドカップ2019日本大会の開催を通じて学んだ事、度重なる震災や苦難にも負けず、何度も立ち上がり、共にパスをつなぎながら走り続ける「釜石ラグビー」の復興の精神を、映像を通じて広く皆様にも観て感じていただき、苦しい時も諦めず、共に明るい未来へ向かって歩みを進めていただきたいものとして今年の4月に公開をしたものであります。
11.むすびに
釜石ではこれまでも、明治、昭和の大津波により壊滅的な被害を受け、また太平洋戦争の際には連合艦隊から受けた艦砲射撃により、東部地区は一面焼け野原になるなど多くの試練に直面してきましたが、そのたびに、立ち上がり、それらを乗り越え、まちを再興してきた、という歴史があります。
このように私たちには、どんな困難にも決してくじけることのない「不撓不屈」の精神が脈々と受け継がれております。
私たちは、決して撓むことなく、屈することなく、いま直面している震災からの復興に向け、被災者最後の一人まで寄り添い、被災された方々の復興という「花」がきれいに咲くよう、私たちは「根」となってしっかり支えて行きたいと思います。
そして、将来に渡って持続可能なまちづくりを目指し、今後も、復興に邁進してまいりますことを改めて確認をし、私の講演の結びといたします。
ありがとうございました。