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用語集 -戦時中の生活等を知るための用語集- は行

は行

配給(はいきゅう)

戦争がはじまると農家の男性の多くが軍隊に入ったり、軍需産業にかり出されたりしました。このため農村は人手不足となり、農作物の生産量も激減しました。さらに外国にたよっていた物資も次第に輸入できなくなりました。
そこで導入されたのが配給切符制です。これは世帯単位で配られる切符と引きかえに商品を買うしくみで、砂糖やマッチをはじめ、米、小麦粉など、生活に欠かせない品物のほとんどが配給制になりました。しかし一度に手に入る量は限られ、その回数も十分ではありませんでした。

B29(びーにじゅうく)

長さ30メートル、幅43メートルの大型爆撃機で、高さ1万メートルの上空を時速600キロで飛べました。当時としては、想像もつかないほどの性能をもった飛行機でした。
〔昭和19年6月15日(1944年)〕、九州北部の八幡製鉄所に対する空襲から始まり、終戦の日までB29は日本各地に爆弾を落とし、多くの町を破かいしました。その間に延べ3万3千41機が出撃し、14万7千トンもの爆弾が投下されたという記録が残っています(「米陸軍航空部隊史」による)。

防空演習(ぼうくうえんしゅう)

疎開が始まる以前の小学校の校庭では、しばしば防空演習が行われました。ここではおもに爆弾の爆風にはものかげに入るとか、地面にふせて手で目と耳と鼻をおさえ口を開けるようにと教えられました。しかし皮肉にも、この子どもたちを襲ったのは爆弾ではなく、焼夷弾(火のついた油)でした。

防空訓練(ぼうくうくんれん)

防空訓練は中国と戦争を始めたころから定期的に行われていましたが、太平洋戦争に入ってからは日常化し、家庭の主婦までが参加させられるようになりました。
訓練は焼夷弾の処理や消化訓練、防毒マスクのつけ方など実戦的な内容でした。
しかし、B29爆撃機による焼夷弾の大量投下の前には日ごろの訓練はほとんど役に立ちませんでした。火を消そうとしてかえって、逃げ遅れてしまい犠牲者の数を増やす結果になってしまったのです。

防空壕(ぼうくうごう)

空襲警報が鳴ると人々は防空壕で敵機が去るのを待ちました。防空壕には家の中から入れる床下式、庭にほった縦穴式、石がきを利用した横穴式のものがありました。
はじめは穴をほっただけの簡単なものでしたが、空襲が激しくなり防空壕の中で夜を明かすことが増えてくると、「すのこ」を置いてふとんをしいたり、カベに寄りかかれるよう板紙を貼り付けるなどの工夫がされるようになりました。

防空ずきん(ぼうくうずきん)

今でも災害のときに使われる「防災頭巾」は「防空頭巾」がもとになっています。「防空頭巾」は肩をおおう部分が大きくなっていました。にげるときはこれに水をふくませて、火から身を守ったのです。
戦争中の防空用の服装は、防空頭巾のほかに、もんぺ、ズックまたは地下足袋という、動きやすいかっこうでした。そして、胸には血液型を書いた名札をつけ、非常用として三角巾や消毒液、ろうそく、干し飯などを入れたかばんを持ち歩く人もいました。
戦争が激しくなってくると、人々はふだんから防空用の服を着るようになりました。

干し飯(ほしいい)

「干し飯」はほぞん食として日本に古くから伝わっていました。旅人がお弁当として持ち歩いたり、戦国時代には戦いの時に持っていく食料として利用されたりしていました。
つくり方は、まずお米をたいてご飯にし、それを水あらいします。水あらいしたご飯をざるに広げ、干してカラカラにかわかすとできあがりです。
食べるときはお水やお湯にひたし、やわらかくします。また、そのままよくかんで食べることもできます。
お米はなかなか手に入らない貴重なものだったので、人々はこのようにほぞん食にして大切に食べました。


戦時中の生活の様子等を小学生などにも理解しやすいように旧(社)日本戦災遺族会の協力の下に用語として編集しました。

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