戦争が長引くにつれ、生活に必要なものが足りなくなりました。なかでも、食料がないのは切実な問題でした。代用食というのは、少なくなった米の代わりにほかの食べものを主食にすることです。ミカンの皮や柿の葉、ドングリなど食べられるものはすべて粉にして、だんごや蒸しパンをつくりご飯の代わりに食べました。
また、ぞうすいには量を増やすために、サツマイモやカボチャのくきや葉まで入れて食べました。それでも、子どもたちはいつもお腹をすかせていました。
戦況が悪化し、大空襲が避けられないと判断した政府は、都市部の人間や建物を地方に移すことにしました。
建物疎開とは、空襲のときに消火活動などがしやすいよう、建物を強制的に取りこわすことです。その対象となったのは、都市の密集地や軍の工場などの周辺の建物でした。建物疎開命令を出されると、国のためにすぐ立ちのかなくてはいけません。東京の場合は、約5万8千5百戸の家族が住みなれた家を取りこわされました。
戦争をきっかけに、敵国であるアメリカやイギリスの言葉を使うことや音楽を演奏することが禁止されました。家で楽しむこともできなくなり、レコード盤も回収されました。
日ごろ人々に親しまれていた雑誌名や職業名、スポーツ用語などからカタカナ語が追放されました。とくに野球は敵国のスポーツということで、批判が高くチーム名やルールなども、ストライクは「よし1本」のように日本語に変えさせられました。
敵国の文化を否定し憎むことで、国民の戦う気持ちを高めることが目的でした。
戦争中は、夜になっても町は暗いままでした。灯火管制といって、光を家の外にもらさない決まりになっていました。あかりが見えて、敵が空襲したときの目標にならないようにしたのです。
真下だけ明るく照らすように電球面に塗料を直接塗った電球や、外に光がもれないようにした商店用の電球などがありました。
一般の家では、黒い布で、電灯のまわりを囲んだり、防空用の電灯カバーをかぶせたりして、窓にも黒いカーテンをひきました。わずかな明るさのなかで、ぬい物や勉強をしたのです。
〔昭和20年3月10日(1945年)〕0時8分、B29は最初の爆弾を東京・深川地区(いまの江東区)に落としました。B29は目標とする場所のまわりに火災を起こして火の壁をつくったあと、逃げまどう人々にねらいを定め、超低空で大量の爆弾を落としていきました。そのぎせいの多くは女の人やお年寄り、そして子どもたちといった武器をもたない人々でした。
2時間あまりの空襲で約百万人が家を失い、亡くなった人の数は八万とも十万ともいわれ、正確な数は今もわかりません。
隣組は住んでいる家の近所約10所帯ずつを組織したものです。食料や衣類の配給にはじまり、金属類の回収、兵士の見送り、防空訓練など、日常生活に必要な情報は、隣組をとおして伝えられました。
その連絡を国民の隅々にまで知らせるものとして回覧板がありました。何をするにしても隣組による規制があり、活動に協力的でない態度をとる者は「非国民」呼ばわりをされました。
戦争が深まるにつれて「隣組団結」の名のもとに、個人のプライバシーまでもお互いに監視しあう関係となっていったのです。
戦時中の生活の様子等を小学生などにも理解しやすいように旧(社)日本戦災遺族会の協力の下に用語として編集しました。