空襲の後には銭湯の浴そうや工場のえんとつなど、コンクリートでつくられたものだけが残され、多数の家が焼失しました。
このため多くの人は、焼け残ったトタン板を利用した「バラック」や、防空壕を住居にした「壕舎」で不自由な生活をおくるしかありませんでした。〔昭和20年5月(1945年)〕の東京には、このような住居で生活する都民が24万人もいたそうです。
また空襲で家も両親も失った身寄りのなくなった子どもたちの多くは、たばこの吸いがらを拾って売ったり、くつをみがいたりして、必死に生きなければなりませんでした。
戦時中の生活の様子等を小学生などにも理解しやすいように旧(社)日本戦災遺族会の協力の下に用語として編集しました。