総務省トップ > 政策 > 一般戦災死没者の追悼 > 用語集 -戦時中の生活等を知るための用語集- か行

用語集 -戦時中の生活等を知るための用語集- か行

か行

学芸会(がくげいかい)

戦時下の小学校にも学芸会はありました。ただ現在のように平和で楽しい劇ばかりではなく、時代の影響を強く受けて戦争をテーマにした出し物がほとんどでした。
そしてそれが子どもたちの戦争を肯定する気持ちをつくり、男の子は兵隊さんに女の子は看護婦さんになりたいという思いを強くさせました。

学童疎開(がくどうそかい)
空襲で都市部の危険度が増すと、子どもたちは都市を離れるように指示されました。これが疎開です。疎開にはいなかの親類のところに行く「縁故疎開」と、学校ごと空襲のない場所に移動する「集団疎開」とがありました。
しかし、子どもたちすべてが疎開できたわけではありません。親が申し込まなかった、身体が弱い、団体生活に適さないなどの理由で、都市部で生活を続ける子もいました。
子どもたちは「学童疎開」によって、疎開組と残留組とにわかれ、悲しいことに再び会えなくなった友だちがたくさんいました。
学徒出陣(がくとしゅつじん)

戦争が終わるまで、徴兵制度がありました。男性は20歳になると徴兵検査を受け、合格した人は兵役につく義務がありました。しかし、徴兵猶予という制度によって大学や高等専門学校に在籍する学徒と呼ばれた学生や生徒は卒業するまで戦場に行かなくてもよいことになっていました。
ところが、戦争が長びくにつれ、兵隊の数が足りなくなり、〔昭和18年12月(1943年)〕、学徒も学生の身分のまま軍隊に呼ばれることになりました。その数は、軍の秘密として公表されませんでしたが、推定で約13万人ともいわれ、多くの学徒が戦場で亡くなり、二度と学校に戻ることはありませんでした。

川のある町(かわのあるまち)

東京の本所・深川地区(今の墨田区・江東区)には隅田川、竪川、大横川など、いくつもの川が流れていました。これらの川は東京大空襲のときに、火や熱から多くの人々を救いましたが、同時に川でおぼれて死んだ人も大勢いました。川で亡くなり、そのまま東京湾に流されてしまい、遺体が見つからなかった人も多かったといわれています。
平和な時代には、仕事や遊びで川と親しんできた下町の人たちにとっては、なんとも皮肉な結果となってしまったのです。

機銃掃射(きじゅうそうしゃ)

東京大空襲ではB29による焼夷弾の攻撃が被害を大きくしました。しかし攻撃法はそれだけではなく、戦闘機による機銃掃射もありました。戦闘機についている機関銃で人間をねらい撃ちするのです。この銃は一秒間に何発も発射できるものでした。
逃げる途中に撃たれて亡くなった人のほか、命は助かっても腕や足を失った人もいました。短時間の空襲でも、人々に与える衝撃は非常に大きいものでした。
とくに、人がたくさんいる駅や電車は、機銃掃射の最大の標的にされました。

金属放出(きんぞくほうしゅつ)
資源が少ない日本は、金属回収令〔昭和16年(1941年)〕で、人々から金属製の門や看板や置物などさまざまなものを集めました。
とくに武器をつくるのに必要な鉄と銅は、さかんに回収され、お寺のつり鐘までも集められました。生活に必要な鍋、釜、やかんなど最小限のものを残して、ほかはすべて回収されたのです。やがて戦況が悪化するにつれて、子どものおもちゃまで強制的に集められるようになっていきました。
空襲(くうしゅう)

日本本土がはじめて空襲されたのは、〔昭和17年4月18日(1942年)〕でした。その後、2年ほどは敵機の姿を見ることはありませんでした。たびたび空襲されるようになったのは、〔昭和19年11月24日(1944年)〕からです。
はじめは軍の工場などが襲撃の中心でしたが、〔昭和20年3月10日(1945年)〕の東京大空襲を境に、ねらった町を焼きつくす無差別な攻撃に変わりました。大きな町は次々と無差別爆撃をうけ、焼け野原となり、多くの人が家や家族をなくしました。

空襲下の動物園(くうしゅうかのどうぶつえん)

空襲下の動物園には悲しい出来事がいろいろありました。そのなかでも上野動物園で餌(毒入りジャガイモ)を食べなかった象のジヨンと花子とトンキーの話は胸が痛くなります。利口な象は毒入りと悟って食べず、3頭とも餓死してしまってのです。
この頃、動物園の猛獣を殺そうとしたのは、空襲の時に暴れて危険であることと、国民に時局の重大さを知らせるためでした。何ともやりきれない行為です。

空襲警報(くうしゅうけいほう)

敵の飛行機が近づいてきていることがわかると、サイレンを鳴らして危険を知らせました。これを空襲警報といいます。警報が鳴ると人々は急いで避難しました。夜も空襲されるようになると、すぐ逃げられるように服を着たまま寝るようになりました。
東京大空襲のときは、爆撃がはじまって7分後に警報が鳴りました。このわずか数分の遅れが、そこに住む人々にとっては生死を分ける決定的な時間になったといわれています。

軍需工場(ぐんじゅこうじょう)

戦争中は中学生くらいの年齢になると貴重な労働力として、畑や工場で働かなければなりませんでした。
女子生徒たちも、軍需工場に通い、飛行機や爆弾の部品をつくる日々をおくりました。
また、勉強する場であるはずの学校も、だんだん軍の下うけ工場のようになっていきました。
教室やろうかにはミシンが並べられ、女子生徒たちは勉強をする時間もなく、作業服姿で一日中、足袋やゲートルをつくる毎日をおくったのです。
そんななか、昼休みのおしゃべりは彼女たちにとってつかの間の楽しみでした。

軍人将棋(ぐんじんしょうぎ)

軍人の階級や兵器が書かれた将棋のコマで遊ぶゲームです。行軍将棋ともいいます。ふつうの将棋と違いコマをすべて裏返しに並べます。相手のコマがなにかを推理しながら交互にコマを進め、双方のコマが重なると審判役の人が見て、どちらが強いかを判定します。勝った側のコマは盤に戻して、弱いほうは取りのぞきます。敵の司令部に入れば勝ち。
子どもたちは遊びの中からも軍隊についての知識を得たのです。

警戒警報と空襲警報(けいかいけいほうとくうしゅうけいほう)

東京では敵の飛行機が富士山に向かってくると警戒警報、富士山まで来た飛行機がさらに東京方面に向かってくると空襲警報が出されました。警戒警報が鳴ると人々は明かりが外にもれないようにランプに黒い布や厚紙をかぶせ、空襲警報が鳴ると明かりを完全に消し、警報が解除されるまで防空壕に避難しました。
東京大空襲では空襲の約1時間半前に警戒警報が出されましたが、すぐに解除されました。そして空襲警報が出されたのは、最初の爆弾が落とされてから7分後でした。このおくれが多くの人間の生死を分ける決定的な時間となりました。

決戦食(けっせんしょく)

戦争が長びくと物不足は進み、なかでも切実な問題は食料難でした。配給される米には、「コウリャン」や「トウモロコシ」がまぜられ、イモなどの代用品になることも増えてゆきました。
それに対して政府は、いままで捨てていたものでも工夫することで食べられるとし、「決戦食」と名づけ、そういったものを食べて飢えをしのぐように呼びかけました。
たとえば、茶がらを乾燥させて野菜の代わりにする。イモのつるや野菜の皮を使った調理方法。食べられる虫の特集など。さまざまな決戦食が、新聞や雑誌で紹介されました。

国民学校(こくみんがっこう)

昭和16年4月、「小学校」は「国民学校」という名称に変わりました。それにともない教科書も、軍国主義の考え方が強い内容になりました。
子どもたちの学校生活も国民学校になって目にみえて変わっていきました。国民学校の特色としては、儀式や行事などの団体訓練が重視され、歩き方や姿勢などの日常の細かい身のこなしまで規則にしばられました。また、学校生活全体が軍隊式になり、体罰が当然のように行われ、なぐって教えることがよいと考える先生も多くいました。

子どもの遊び(こどものあそび)

戦時下の子ども(都市部)は、男の子は戦争ごっこ、メンコ、すもう、将棋(はさみ将棋、回り将棋などもありました)、下駄とりなど。また女の子は、あやとり、看護婦ごっこ、ローセキのお絵かきなどでおもに遊びました。
しかしこの頃になると、子どもの遊びもいろいろと制約を受けました。たとえば鬼ごっこは、鬼(悪)がふえるので禁止されたり、一方、占領ごっこ(侵略をまねた遊び)は戦争に賛成する気持ちが高まるので、遊んでいるとほめられました。
さらに、武器をつくるために金属が集められ、鉄棒やブランコなどの鉄の部分が回収されてしまいました。


戦時中の生活の様子等を小学生などにも理解しやすいように旧(社)日本戦災遺族会の協力の下に用語として編集しました。

ページトップへ戻る