〔昭和19年(1944年)〕になると戦争が激しくなり、東京など大都市への空襲が予想されるようになりました。そこで、空襲の心配のない農村地帯に子どもたちを移動させる学童疎開が始まりました。はじめは農村地帯の親せきや知人への縁故疎開がすすめられましたが、やがて国民学校の高学年の児童に対して地方のお寺や旅館などへの集団疎開が始まりました。これによって都会の子どもたちの多くは親元を離れ、なれない土地でさみしい集団生活をしなければなりませんでした。当時の学童は、ほとんどが栄養不足からくる内臓や呼吸器系の疾患に悩まされていました。またノミやシラミがはびこっている共同生活は、ひとつ間違えば伝染病の発生の恐れが多い状況にもありました。これに対して地元の医師たちは、病気を防ごうと懸命に努力しましたが、医薬品が家庭の常備薬ていどのもので、ただただ入浴と洗濯を指示する以外に病気発生を防ぐ方策がないというありさまでした。
昭和19年8月、文部省国民教育局長より関係地方長官に対し「学童集団疎開における教育要綱」という文章が渡されました。そこにはこの集団疎開が子どもたちの戦意を高め、太平洋戦争に絶対勝つという信念を育てること。心とからだを強くたくましくすること。集団生活におけるしつけをキチンとすること。勉強ができて、行いも正しい学童をつくる教育を実現することなどが書かれていました。
ここからは、学童疎開を単に戦争の危険から逃れるためだけにおわらせることなく、この集団生活によって、心身をきたえるための教育の場としたい、という当時の文部省の考え方をみることができます。
B29爆撃機による空襲が本格化するのは、昭和19年11月24日以降のことです。はじめは軍の工場などが対象でした。ところがその後、住宅地にも焼夷弾をまく大規模な爆撃が行われるようになりました。
とくに東京は空爆の目標とされ、約130回もの空襲をうけました。なかでも昭和20年3月10日の東京大空襲では、一夜にして広島や長崎に落とされた原爆にならぶほどの被害を出しました。
死者はおよそ10万人(推定)といわれていますが、正確な数字は今もわかっていません。
東京だけでなく、日本のおもな都市はことごとく空襲にあいました。
日本の都市を焼きつくした爆弾は焼夷弾でした。木造の家が多い日本では、火災が起きると大きな被害を受けることから、アメリカが日本を攻撃するために開発し、家が密集した場所ではとくにその威力を発揮しました。
もっとも多く使われた焼夷弾はM69と呼ばれるものでした。正六角形をした筒の中に入っているナパームはガソリンの一種で、火がつきやすく高熱を発して長時間燃え、猛烈な火災を起こしました。発火した後は、水をかけるとかえって炎が大きくなるので、砂や泥などをかぶせた上に、ぬれむしろで押しつぶすしか手はありませんでした。
少国民というのは、小学生くらいの年少の国民という意味ですが、天皇陛下に仕える小さな国民という意味を含んでいました。
子どもたちは、将来の日本をせおって立つ「未来の兵隊」として育てられました。当時は戦場で勇敢に死んでいくことが、立派な生き方と教えられました。
戦争に反対することを許さない徹底した軍国教育が、全国すみずみまで行われていたので、多くの国民はたとえ何があっても、日本は戦争に勝つと信じていました。
戦争が激しくなり食べ物が足りなくなってくると、人々は畑をつくり、野菜を育てました。空き地や校庭はもちろん、せまい庭もすべてたがやしました。
一番多くつくられたのは、手をかけなくてもよく育つ、カボチャでした。大切な食べ物を少しもむだにしないように、種も花も葉もすべて食べました。
食べ物がたくさんあるときなら捨ててしまうような、野菜の皮やくきはもちろん、道ばたに生えている草や花も食料にして飢えをしのいだのです。当時の人々は、このようなものを少しでもおいしく食べるために、いろいろな工夫をしなければなりませんでした。
戦争が激しくなるにつれて、食料はますます手に入りにくくなりました。そこで政府は家庭で野菜をつくるよう呼びかけました。食べ方も火にかけたり、細かく切ったりしないで、生でそのまま食べるのが一番よいとされ、人々はなるべく栄養や量を減らさないよう工夫していました。
またビタミン類を補うため、野菜の皮や葉はもちろん、野草も食べていました。こういった食事は「決戦食」となづけられ、当時の雑誌や新聞には「捨てていたものの食べ方」や「野草を食べよう」といった食料難を切りぬけるための記事が、競うようにのっていました。
若い男の人たちがたくさん戦地に行ったので、働く人が足りなくなりました。それをおぎなうために、政府は法律をつくって、結婚をしていない女性を働かせました。
「白紙」と呼ばれた用紙一枚で集められた女性は、女子挺身隊という組織に入れられました。女性たちは、おもに戦争に必要な武器をつくる軍需工場などで安い賃金で働かされ、生産を支えることになりました。そういう工場は、とくに空襲の目標とされたので、多くの女性の命がうばわれました。
「すいとん」とは、小麦粉を水でこね、だんごにして、みそ汁などに入れて煮たものです。当時は主食としてよく食べられました。
食糧事情が悪くなり、小麦粉が手に入らなくなると、ワカメやコンブなどの海藻の粉でだんごをつくり、「すいとん」をつくりました。
おいしくはありませんでしたが、みんないつもおなかをすかせていたので文句はいえませんでした。白いごはんは特別なことがない限り、なかなか食べることができなかったからです。
明治二十四年、騎兵第一大隊が移ってきたのをきっかけに、東京の世田谷には次々と軍事施設がおかれました。各隊は軍馬を飼っていたため、馬小屋があちこちにあり、馬ふんは近くの農家で肥料として利用されていました。しかし収かくした農作物の多くは軍隊に納めなければいけなかったうえ、軍馬のエサとして干草も供給しなくてはいけなかったので、近くの農家にとっては大変な負担でした。
世田谷の空襲では軍事施設を中心に大きな被害をうけました。現在これらの跡地には、学校や公営住宅、病院など、公の施設が建っています。
戦争で家も両親も失った子どものことを戦災孤児と呼びました。この子たちの多くは親せきに引き取られましたが、だれも頼る人がいない子どもも大勢いました。
そういう子どもは焼け残ったたてものや駅の地下道などで寝起きし、クツみがきや新聞売りなど、子どもにできることは何でもしてその日の飢えをしのぎました。その子たちは心に深い傷を負ったうえ、大人でさえ生活するのが大変な時代に、たったひとりで生きていかなければならなかったのです。
戦争中は、映画を見るのがみんなのいちばんの楽しみでした。新しい映画がはじまると、その映画館の前には行列ができました。
しかし、いまのように好きなテーマで映画をつくる自由はありませんでした。一般の人たちが映画を見る前に、国の考え方にあっているかどうかを調べる検閲があり、許可されないと上映はできなかったのです。
そのため、映画会社は、戦争を美化する映画をたくさんつくりました。そして、戦争映画を見た子どもたちは、軍隊へのあこがれを強くしました。
白いさらし布に赤糸でひとりひと針ずつ千人の女性に結び目をつけてもらったことから千人針と呼ばれました。腹巻きなどにして身につけていると敵の弾に当たらないという縁起をかついだのです。
死線(四銭)をこえる意味から五銭玉を、苦戦(九銭)に勝つという意味から十銭玉がぬいつけられることもありました。
また、「虎は強く千里を走り早くもどってくる」といわれたことにあやかり、結び目で虎の絵をつくったりもしました。千個のぬい玉をもらうことは大変でしたが、とら年生まれの女性は年齢の数だけぬうことができました。
都市部の人やものなどを空襲される危険の少ない地方へ移すことを疎開といいます。昭和十九年ごろまでは、いなかの親せきや知人のところへ行く縁故疎開がすすめられていました。
ところが戦況が悪化し、アメリカ軍による大空襲がさけられないと判断した政府は、都市部の子どもたちを学校ごと空襲の心配のない農村地帯へ移動させることにしました。これによって、都会の子どもたちの多くは親元を離れ、慣れない土地でさみしい思いをしながら集団生活をすることになったのです。
戦時中の生活の様子等を小学生などにも理解しやすいように旧(社)日本戦災遺族会の協力の下に用語として編集しました。