2004年10月に発生した新潟県中越地震により被災した旧山古志村では、復興ビジョンのスローガンを「帰ろう山古志へ」、「山の暮らしの再生」とし、帰村を目指していろいろな復興事業を積み重ねていった。これに対して隣接する旧小千谷市東山地区では「防災集団移転」を実施し、「地域の中で再建して帰村を目指す施策」と「地域外での再建を支援する施策」という180度異なる施策が行われた。
結果的には山古志6集落と小千谷東山地区という単位では、どちらも半分の住民が地域に残った形となったが、集落単位でみると100%帰村している集落がある一方で、条件有利地に人が流れた集落もある。また、集落全体で移転して生活を再建したケースもある。
集落の再建では住民相互の話し合いの場の設定が重要で、特に、じっくり話し合うことができる仮設住宅や仮暮らしの環境整備が大切だ。
帰村は被害が大きい世帯や子育て世代にとってはハードルが高く、希望も低い。将来像が示されないことで地域を離れていくケースも多い。一方、高齢者は田畑を耕していないと気が落ち着かない、半壊程度であれば補修で住み続けたいなどの意向が強く、年金と自給自足で生活が成り立つケースも多い。また、地域外に移った人たちが田畑を耕しに集落に通うケースもみられる。このあたりを考慮した地域にあった再生計画づくりが大切だ。
一方、震災により集落の過疎化・高齢化は一気に進む。人口減少を踏まえて復興規模の議論をしないと、結果的にはオーバースペックのものを造り、その維持管理に苦労する状況になってしまう。
しかし、復興の議論の中では、それをなかなか認識することができない。それを踏まえて、行政や専門家、中間支援組織が関わるべきだろう。新潟では行政に集落再生支援チームが置かれ、民間の中間支援組織と連携した。また、地域の復興の熟度に合わせて復興基金のメニューが創設された。
人口減少が進む地域の復興では、身の丈にあった「自律的復興像」というものをみんなでどう共有するかがポイントだ。「むらで住みつづける」ことに対しての共感やその意味を行政が積極的に問いかける必要があるだろう。そこにはいろいろなステークホルダーがいて一枚岩ではないが、その多様性をどう組み込めるかもポイントだ。中間支援団体などの外部人材が関わるとスムーズに行くケースも多い。場合によっては、全ての地域に一律に機能を持たせるのではなく、「選択」と「集中」、機能分化を考えてもよいだろう。
中越地域の復興支援員は中越大震災復興基金により設置された制度で、被災した地域のコミュニティ機能の維持・再生や地域復興を目指して地域で様々な活動を展開している。この制度は被災直後からすぐ始まったわけではなく、必要性が生まれた段階でメニュー化され、地震から3年半くらい経ってから本格的に動いた。今回の東日本大震災の復興ビジョンでも復興支援員が取り上げられているが、今すぐ入れることが本当に適切かどうかを考える必要がある。
復興支援員と言っても、実際にやっている活動は平時の地域づくりを積極的に推進していくような役割にほかならない。最初からこの地域にはこういう仕組みが必要で、それにはこういう支援が必要だということを明確に提示してしまうと、住民側はそれを理解しないまま支援に乗っかってしまうケースも多い。最初に復興支援員が最短距離を提示するのではなく、集落の人たちと一緒に悩みながら考えていく。そのために最初は集落との関係づくりを行う。そして、小さな成功体験を作って、集落のやる気を引き出し、その中で集落の身の丈にあった戦略を描いていく。このステップを踏むと集落の中で将来イメージが共有されてきて、戦略を実行していく段階では、自分たちの力、必要に応じて外部の力も取り入れながら地域運営を実現していくという形になる。今まさにこのレベルに到達しているところが中越の中での先進地域だと思う。
復興支援員をはじめ外部人材の導入には、行政との連携が必要である。役割が異なる支援員と行政が相互補完をしながら重層的に集落と関わることが非常に大切だ。また、支援員は複数人数での体制づくりが必要だ。一人の場合はいろいろな悩みや相談が難しくなっていく。しかも一つの集落ではなく、エリアで担当させることで様々な連携も生まれる。もうひとつ大切なことは、支援員の後方支援だ。彼らを時々現場から引き離して悩みを聞いたり、支援員同士のスキルを交換するような場面を作っていくことが大事だと思う。
東日本大震災でも復興支援員が着目されているが、導入する際の環境として、手厚いネットワークを作っておかないと、後々、非常に悩ましい状況が生まれてくると思う。
今回の東日本大震災の津波により、ほとんど漁村地域が壊滅的な被害を受けた。漁村というのは必ずしも漁村だけで復興できるものではなく、都市あるいは他の地域と連携して復興に取り組んでいかないと難しい状況にある。
先ほど、澤田先生、田口先生からあった中山間地域の話は海の話とつながっている。同じように、海の話と都会の人々の生活というのは実はつながっているということを、ぜひ、一緒に考えていただきたい。
最新の水産庁データでは漁港は2,914あり、日本の海岸延長3万kmの約12.1kmに1つ、漁村(漁業センサス)は6,377あり約5.5kmに1つある計算になり、漁村や漁港は日本全国津々浦々に立地している。漁村は非常に高密度で、海に近い山がちのところに家々が密集して形成されている。この海に近い山がちという特性が、今回の震災で壊滅的な被害を受けたことにつながっている。
漁村の地域再生問題の本質は、漁村は多様であるということを知ることである。漁業権や漁業、漁場、漁港と漁村の関係も多様である。現在、漁村の復興についていろいろな議論がなされ、漁村は多すぎるから再編整備しようとの議論もある。しかし、地域には様々な条件がある。先ほど澤田先生から中越での帰村率の平均は約50%という話が出たが、これは全体の平均であって、各地域にはそれぞれ数字があった。これと同様に、最初に5分の1、3分の1にしようという話はちょっと乱暴で、もっと詳細に個別の地域を調査・精査して、結果として出てくるべき話なのではないかという気がする。漁村もどんどん高齢化と縮小が進んでいるが、都道府県と市町村のアンケートをみると、漁村はコミュニティが強力なので中山間地域よりも限界化の速度は遅いという。また、漁村では漁船1隻と漁具があれば漁をして市場で日々現金化できる。そういう意味でも、ほかの1次産業地域とは違うのかなとも思う。
漁村には市町村職員と地域住民のほか、県の水産業普及指導員という行政にも通じた水産の専門職がいる。その三角形の中に「よそ者」が入ると、これが上手く回りやすくなる。「よそ者」の力が役に立った事例は実際たくさん見ている。特に、漁村は生産と暮らしの特殊性があるので、水産の分かった方の活躍がどうしても必要だ。このため、他県の水産業普及指導員や大学などの研究機関との連携など、全国の人たちが支援に回るというシステムができてもいいのかなと考える。復興に向けてはいろいろな問題があるので、その道のそれぞれのプロをうまく選択するコーディネートが必要だ。漁業という特性を踏まえて、支援人材をどうしていくのかを考えることが重要だ。
澤田氏:プロセスの中から自然発生的に出てくるリーダーシップみたいなものを大切にしておく仕組み、仕掛けというのが大切だと思う。そのプロセスの中でキラリと光る人材を見つけて行政でもきちんと頭に入れておく。そのような人材を探す場として住民参画の議論の場を使うとよい。ある集落の区長さんは「行政に任せておけば何とかなるんじゃないの」というスタンスで何もしなかった。この結果、自分たちが一番再建したい場所に再建したにもかかわらず、7割の人が集落を離れていった。この集落には他にもリーダーになれそうな人材がいたが、その人に対して行政が「話し合いをして、どうするか決めたほうがいいのではないか」と言えることが大切だ。どこにそういう人がいるかを日々の生活の積み重ねで探しておいて、人材リストにする必要性があろう。
田口氏:中越地震の復興、集落のレベルで将来計画を作る地域復興デザイン策定事業の時に見えてきたことは、スムーズに計画づくりが進んでいくと、なかなか地域に定着しないという雰囲気があることだ。どちらかというと、計画策定プロセスの中で紆余曲折があったほうが、結果として、計画が地域の人たちに定着して、主体性が表れてきたと思う。意見があるけれど発言していなかった地域の人たちが意見を言い出せるような場面をどうやって作り出していくかがポイントだ。スムーズに進むことは行政的には気持ちがいいが、どこかで誰かが波紋を投げかけるような議論があったほうが、かえって地域の主体性や一体感みたいなものが生まれるのではないかと考えている。
富田氏:漁村は生業と暮らしが密接であるため、「漁業を再開したい」という意識が非常に強い。そのためには、どうしたら漁業を再開できるか、漁港をどうするか、冷蔵庫をどうするかなど、プロの知識が必要になる。今、全国の漁師グループが東北に船を送ろうという取組をボランティアでやっているが、彼ら漁師同士でも、西日本の船と東北の船とでは、幅や深さが微妙に違って「使えない」ということがあった。それほどプロの存在は大切だ。ただし、復興に関する外部人材は、信頼関係のないところではなかなかできないので、とにかく人間と人間との付き合いというところから入ることが必要だ。生業の部分には様々な問題が出てくるので、様々な分野のプロが必要で、それをネットワークによってチームを組んで対応できるような環境づくりが必要である。