昭和48年版 通信白書

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第2節 公衆電気通信

1 電   信

 我が国に電信機が初めて紹介されたのは安政元年(1854年)で,米国のペリーが2度目に来訪した際,徳川幕府に献上したものである。その翌年,オランダも受信機を幕府に献上したが,実用化されないまま明治維新を迎えた。しかし,電信を敷設しようという動きは幕末からでていた。
 政府は,明治元年12月電信線の架設を決定し,翌年8月には横浜裁判所(県庁に当たる機関)と横浜燈明台役所間に官用電信線を架設して官用通信の取扱いを開始した。更に同年12月東京と横浜間に電信線を架設し公衆電報の取扱いを開始した。開業後3か月間で約3,000通の電報を取扱った。当初は和文電報のみであったが,居留外国人の要請もあって,翌3年4月からは欧文電報の取扱いも開始した。明治5年9月に至り,政府は私設線の架設を禁じ,すべて官営主義とするとともに,全国的に電信網の整備に努め,6年には青森-東京-長崎間が完成し,15年にはほぼ全国主要幹線網を完成した。
 その後電信には無線も利用されるようになった。イタリア人マルコーニが電磁波による送受信に成功したのは,1895年(明治28年)であるが,その翌年には我が国でも実験に着手し,明治30年にはこれに成功した。無線電信によって最初に公衆電報を取り扱ったのは41年5月で,逓信省が銚子に開設した局とサンフランシスコ航路の丹後丸内に設置された無線局との間であった。無線は島の多い我が国では本土と離島の間,島と島との間の通信に極めて有力であることから次第に活用されるようになった。
 昭和に入り,電報の送受について注目すべき技術の転換が行われた。それは東京・大阪間を初め主要回線が印刷電信回線に置き替えられて印刷電信機が採用され,また通信量の少ない電信回線が電話回線に切り替えられて電話で送受され符号通信からの転換が行われたことである。
 第2次世界大戦によって電気通信施設は壊滅的な被害を受け,電信局の50%,電信回線の75%が失われた。戦後,印刷電信回線は急激な増加を示し,ローカル線の電話通信と相まって,モールス通信が開始されて以来,有線通信の王座を占めてきた音響通信は漸次その比重を低下していった。昭和27年従来の国営を改め,政府運営の長所と私企業の長所を取り入れた公共企業体として日本電信電話公社(以下「電電公社」という。)が設立され,電気通信事業を運営することになった。電電公社は,電気通信施設の整備拡充を図る一方経営合理化のため新技術の開発を強力に推進した。28年3月,水戸電報局において初めて電報中継の機械化を採用し,41年7月には全国に及ぶ中継機械化を完了した。これにより音響通信は全く姿を消した。
 電信の新しいサービスとして加入電信が昭和31年10月から東京と大阪において開始された。サービス開始当時加入者は128であったが,その需要は年ごとに高まり,47年度末には5万9,000となり,ほとんどの都市で利用できるようになった。
 歴史の古い電報も,その利用は,電話の普及,ダイヤル市外通話の拡大,加入電信の登場などで,38年度(9,461万通)をピークに毎年減少してきている。かつて電報利用の過半数を占めていたのは企業などによる業務用のものであったが,最近では慶弔電報の比重が高まっている。電報の性格は緊急的なものから,儀礼的あるいは社交的なものに移行しつつあるといえる。

 

 

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