昭和48年版 通信白書

本文へジャンプ メニューへジャンプ
トップページへ戻る
操作方法


目次の階層をすべて開く 目次の階層をすべて閉じる

第1節 郵   便

1 内国郵便

 一般の人びとが郵便を簡単に利用できるようになったのは明治時代になってからのことである。江戸時代においても公用飛脚のほかに町飛脚があり,一般の人びとも利用できるようになっていたが,これは民間による経営で,その取扱範囲も東海道等一定の地域に限られ,その料金は非常に高く(江戸から大坂まで3日で到達させようとすれば4両2分,現在の物価に直せば数万円),とても一般の人びとには手がでなかった。
 明治4年3月1日(太陽暦で1871年4月20日)近代的郵便制度が東京と大阪の間に開始された。ここに我が国の郵便事業が発足し,以後その組織網は急速に全国津々浦々に及ぶこととなった。明治6年3月郵便事業は政府の独占事業となり,これとともに郵便料金も全国均一とされることになった。これにより,同年4月1日から書状は国内どこに出しても2匁ごとに2銭,また市内郵便は半額の1銭となった。
 明治5年に新橋・横浜間に鉄道が通じると郵便物をこれに乗せ,以後各地における鉄道の開通に伴い逐次郵便の鉄道輸送が拡大されていった。25年には列車の中で郵便物の区分けも行われるようになった。44年からは速達郵便の取扱いが東京と横浜で始められ,翌年には京阪神の地域でも実施された。昭和4年には航空郵便の取扱いが始まったが,第2次世界大戦後郵便物の航空輸送は廃止された。その後一時航空郵便は復活したが,28年には速達郵便に統合された。41年からは速達郵便のみならず遠距離に差し出される小形の通常郵便物も航空機にとう載されるようになり,東京都区内と大阪市内において夕刻5時ごろまでに差し出された第一種定形郵便物(書状)及び第二種郵便物(はがき)は全国の府県庁所在地まで,原則として翌日配達が可能となった。
 このように郵便事業は,鉄道,航空機等の交通機関の発達と相まってその迅速化が図られたが,一方郵便業務の機械化にも努力が傾注された。郵便物の規格化,すなわち,昭和41年から実施された定形郵便物制度及び43年から実施された郵便番号制も主として機械化のために行われたものである。第一種定形郵便物及び第二種郵便物は自動選別機,自動取揃押印機,郵便番号自動読取区分機を併用することにより,郵便局内に運びこまれた段階から郵便番号ごとに区分されるまで一貫した機械処理が可能になった。
 郵便の配達は,明治以来毎日行われてきたが,昭和26年1月事業合理化の見地から一部の局で一時日曜配達の廃止を試みた。その後,我が国においても日曜週休制が普及し,日曜配達の必要性は次第に希薄となり,また日曜日に到着する郵便物も減少してきたため,40年5月から東京神田局をはじめとして速達郵便を除き日曜配達休止が試行され,43年からは本実施された。
 年賀郵便は,明治32年の末に一部の郵便局でその取扱いが始められ,39年には制度として年賀郵便が確立された。その後,昭和15年から不要不急のものとしてその取扱いが停止されたが,23年の末から復活し,24年末には「お年玉つき」はがきが発行された。
 最近における経済の高度成長と国民生活の向上につれて郵便物の数も増大の一途をたどってきている。昭和30年度には47億6,000万通に達し,戦前の水準を超すに至り,43年度には100億通を突破した。大きく増加したのは料金別納及び後納郵便であり,大口利用者による業務用通信の利用が年ごとに盛んになってきている。
 なお,内国通常郵便引受総数及び郵便料金の変遷を第1-1-1図及び第1-1-2図に示す。

第1-1-1図 内国通常郵便引受総数の変遷

第1-1-2図 郵便料金の変遷

 

 

第1部第1章 我が国における通信の歩み に戻る 2 外国郵便 に進む