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第1部 ICTの進化を振り返る
第1節 通信自由化30年―制度、サービス、市場の変遷

1 第1期―電話の時代

(1)通信自由化の背景と1985年改革の概要

ア 通信自由化前史

我が国に電信機が初めて紹介されたのは1854年で、米国のペリーが2度目に来訪した際、徳川幕府に献上された。1869年、明治政府により東京と横浜間に電信線が架設されて公衆電報の取扱いが開始された。我が国の電話交換業務は、1876年に米国で電話機が発明されたそのわずか14年後に開始された。電話交換業務は、戦前まで逓信省により官営で提供された。業務開始当初より多数の加入申込みがあり、第1次、第2次の電話拡充計画が実施された。終戦から4年後の1949年、逓信省は郵政省と電気通信省に分離され、電信電話事業は電気通信省の所管となった。さらに1952年、電信電話事業は日本電信電話公社(以下この節において「電電公社」という)による独占事業として運営され、郵政省がそれを監督するという戦後の通信サービスを供給する体制が発足した(図表1-1-1-11

図表1-1-1-1 通信自由化までの通信の歩み
(出典)総務省「通信自由化以降の通信政策の評価とICT社会の未来像等に関する調査研究」(平成27年)

当時、通信サービスの供給について独占体制による公社形態がとられた理由は、独占体制と公社形態とに分けて述べれば次のとおりである。まず独占体制については、通信事業の公共性2、自然独占性、技術的統一性3の観点から支持された。このうち特に重視されたのは自然独占性の観点である。すなわち、同地域に複数のネットワークを敷設することは社会経済的にみて非効率であり、料金水準が高くなってしまうことや、膨大な設備投資が必要な通信事業で競争が行われると共倒れになる可能性があることから、独占体制で提供されることが望ましいとされた。

次に公社形態がとられたのは、効率的な経営でネットワークの拡張を達成するためには、官営ではなく、ある程度の経営の独立性を与えた上での公社形態が望ましいと考えられたためである。

電電公社の発足後、同社の当面の主要な経営目標とされたのは、設備の拡充、すなわち積滞4の解消であった。そこで同社によって、積滞の解消等を目標とした電話拡充長期計画が実施された。その結果、積滞の解消は1978年に達成された。この間の加入電話数の推移をみると、戦後、1950年代から1970年代にかけての増加が大きかったことがわかる(図表1-1-1-2)。

図表1-1-1-2 通信自由化までの加入電話敷設状況
(出典)総務省「通信自由化以降の通信政策の評価とICT社会の未来像等に関する調査研究」(平成27年)
「図表1-1-1-2 通信自由化までの加入電話敷設状況」のExcelはこちらEXCEL / CSVはこちら
イ 通信自由化の経緯及び制度改正の概要5

積滞の解消が達成された頃から、光ファイバーやマイクロ波回線、通信衛星等の新技術の実用化により、通信事業の自然独占性が弱まってきた。また、量的に充足されたサービスに対する新たなニーズが現れてきた6。このため、電電公社によって通信サービスの高度化として、INS計画(後のISDN)が構想された7

一方、当時、日本経済は、1973年のオイルショックを契機として経済成長が鈍化し、それに伴い財政状況が悪化していた。そのような中で経済成長も「高度」から「安定」へ転換が求められ、新しい時代に沿った政府を実現するために第二次臨時行政調査会(臨調)が1981年に設置された。その第4部会では三公社五現業及び特殊法人の在り方について議論がなされ、電電公社、日本専売公社、日本国有鉄道の三公社についての民営化が1982年の第一次答申で示された。

第4部会答申においては、通信改革の基本的考え方として、低廉な料金で通信サービスを提供し、将来にわたって技術開発力を充実していくためには、①十分な当事者能力の下、合理化できる経営体であるべきである、②独占の弊害を除去するためには競争原理が必要、③経営の管理能力の限界に留意し、規模の適正化に配慮することが必要との考えが示された。この第4部会答申を受けた1982年の臨調第三次答申が、①電電公社の経営合理化・民営化、②競争導入による独占の弊害除去、③経営管理規模の適正化の3点を挙げ、これが通信改革の基本フレームとなっている。

郵政省においても、電気通信政策懇談会や電気通信審議会から通信事業の活性化と多様なニーズに応えるために競争原理を導入することが必要であるとの趣旨の意見・答申がなされた。

これらを踏まえ、政府は、通信事業全体への民間活力の導入を図るため、公衆電気通信法を廃止して電気通信事業法案、日本電信電話株式会社法案、日本電信電話株式会社法及び電気通信事業法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律案の通信改革関連三法案を国会に提出し、いずれも1984年に成立した。

これらは、一元的体制を前提とする通信体制を抜本的に改革し、通信分野への競争原理に基づく民間活力を積極的に導入し、通信事業の効率化、活性化を図り、通信分野における技術革新及び我が国社会経済の発展並びに国際化の進展等を目指すものであり、1985年に施行された。

なお、公共企業体である電電公社については、株式会社に改組し、その経営の一層の効率化、活性化を図るべく、日本電信電話株式会社法(以下この節で「NTT法」という)に基づき、日本電信電話株式会社(以下この節で「NTT」という)が設立された。

公衆電気通信法は、その第1条で「この法律は、日本電信電話公社及び国際電信電話株式会社が迅速且つ確実な公衆電気通信役務を合理的な料金で、あまねく、且つ、公平に提供することを図ることによって、公共の福祉を増進することを目的とする。」と述べ、国内、国際において電電公社及び国際電信電話株式会社(以下この節で「KDD」という)が独占的に事業を提供することを規定していた。これに対し電気通信事業法では、特定の事業者による独占的な事業の提供を前提とした規定はなくなり、競争原理が導入され、民営化後の電電公社と新規参入事業者との競争により、今後の通信の高度化に柔軟に対応した多様なサービスが提供されるような制度が導入された。具体的には、電気通信事業を電気通信回線設備の設置の有無に応じて第一種と第二種に分け、第一種電気通信事業については参入に当たって許可制を採用し、その主要な料金について認可制とする一方で、第二種電気通信事業については登録又は届出による参入を可能とし、料金規制は設けないこととされた。

ウ 米英における制度改革の概要

1980年代には、米国におけるAT&T(The American Telephone & Telegraph Company)分割、英国におけるBT(British Telecommunications plc)の民営化及び通信市場への競争原理の導入が行われ、我が国の議論にも影響を与えた。ここでは両国の通信自由化の経緯とその背景を簡潔に振り返る。

(ア)米国における通信自由化

米国では、電話が発明されて以来、一貫してAT&Tを中心とする民間企業がそのサービスを提供してきた。AT&Tは全米規模で長距離市場から地域市場まで圧倒的な市場シェアを有し、その巨大さからしばしば司法省から反トラスト訴訟で訴えられていた。その最初は1913年であり、当時は民主党ウィルソン大統領の下、独占禁止法が強化され、適用された。また、電話が新しいメディアで制度などが未整備であったこともあり、独占禁止法により取り締まろうとしたものであった。また英国における電話事業の国営化が実施されたことも影響している。AT&Tは解体と国有化に直面するが、独立系電話会社と協調する方針をとることによりこれを避けた8。その後、1934年に通信法が整備されることで、通信事業に対する公益事業としての規制が整備された。

1949年には、第2次反トラスト訴訟が司法省によって起こされた。これは、AT&Tとウェスタンエレクトリック社(WE社)の共謀による電話設備の製造の独占に対するものであった。この訴訟は、1956年の同意審決で決着を見るが、その内容は、特許権の開放、ベル電話会社の業務範囲を公衆電気通信に限定するというものであった。この同意審決が、1980年代の改革まで米国電話事業の構造を規定するものとなった。

その後、1974年の第3次反トラスト訴訟までの時期は、マイクロ波回線などの通信技術の進歩とFCC(連邦通信委員会:Federal Communications Commission)の規制緩和政策により、電話事業への競争圧力が高まっていった時代であった。そのような中で司法省は、通信市場における独占をさらに拡大しているとして、AT&T、WE社、ベル研究所を相手として、ベル地域会社(BOC)を共謀者として3回目の反トラスト訴訟が提起した。この時の訴訟は、1956年の同意審決の修正という形で決着し、AT&Tは、1984年に解体されることになった(図表1-1-1-3)。

図表1-1-1-3 米国の通信自由化の経緯
(出典)総務省「通信自由化以降の通信政策の評価とICT社会の未来像等に関する調査研究」(平成27年)

米国における通信自由化の歴史は、AT&Tの独占力に対する司法省の反トラスト訴訟を中心に展開してきたが、その背後には、FCCによる段階的な規制緩和とそれに伴う競争の本格化があった。

(イ)英国における通信自由化

英国における通信自由化は、米国とは事情が大きく異なる。英国における電話事業は、当初は私企業により提供されてきたが、これが1912年に国有化された後は、1984年の民営化まで一貫して国営又は公社により提供されてきた。

1945年以降、英国の電話事業に対する需要が大きく成長する時期を迎え、それに柔軟に対応するために改革が行われたが、必ずしもうまくいかなかった。その大きな原因の一つは、国営事業であるということであった。電話事業の収入は国家財政にとって重要であり、そのことが料金の高止まりなどを招いていた。その後、1969年に公社化(英国郵便電気通信公社)が行われたが、事態はあまり好転せず、公社の経営全般を見直すために、1975年から委員会が設置され、1977年に報告書(通称「カーター報告書」)が提出された。この報告書による提案勧告の実施は、1979年に登場したサッチャー政権まで待たなければならなかった。

サッチャー政権になってから改革は進められるようになり、1981年に英国電気通信公社法により、郵便電気通信公社から通信部門が分離され、英国電気通信公社(BT)が設立された。その後、1982年の新規参入事業者Mercuryへの免許の付与や通信回線の自由化が実施されたが、自由化の一層の促進と国家財政の立て直しのため、1984年電気通信法によってBTは株式会社化(民営化)された(図表1-1-1-4)。

図表1-1-1-4 英国の通信自由化の経緯
(出典)総務省「通信自由化以降の通信政策の評価とICT社会の未来像等に関する調査研究」(平成27年)

ただし、英国においては、1991年までは基本電気通信事業者を2社に限定する(複占政策)など、我が国と異なり、段階的な自由化が行われた。



1 1953年に国際電信電話株式会社法により、国際電話が国際電信電話株式会社として電電公社より分離された。

2 通信は、公益事業として、国民生活や経済活動に不可欠と考えられてきた。このことから、供給主体には、そのサービスを合理的な料金で、あまねく公平に提供する義務があると考えられた。特に通信の場合、利用者が相互にコミュニケーションすることから、サービスの品質、料金などに地域差が生じないことが重視されたため、独占による提供が望ましいとされた。

3 多数の利用者を通信網でつなぐことで初めてサービス提供が可能になる通信サービスの場合、複数の技術仕様の機器を接続することによってネットワーク全体でサービス水準を維持することのコストがかかる。このことを防ぐために独占体制が望ましいとされた。

4 電話サービスへの加入を申請しても、長期にわたり待たされる状態のこと。

5 通信改革としては、データ通信の自由化と端末の自由化も実施された。データ通信の自由化については、1972年に公衆通信網をデータ通信に利用することが可能となり、1982年には、データ処理を目的とした回線利用が自由化されるとともに、公衆網と専用回線の相互接続が可能となり、民間企業による中小企業向けの付加価値通信サービス(中小企業VAN)が提供可能になった。
 端末の自由化については、それまで本電話機が電電公社により直接提供されていたのが、自由化とともに、端末設備が技術基準に適合していれば自由に設置できるようになった。

6 そのような傾向を表す代表的な見方として「情報化社会」がある。梅棹忠夫「情報産業論」がその端緒とされるが、情報がビジネスになる社会として、たとえば、増田米二、林雄二郎、今井賢一など様々な研究者が様々な議論を展開した。

7 また、1983年には、郵政省において、未来型コミュニケーションモデル都市構想(「テレトピア構想」)が提唱された。これは、地域振興における通信の重要性も踏まえ、モデル都市に様々なニューメディアを導入し、全国的普及の拠点とするとともに、その実用的運用を通じて地域社会に及ぼす効果や影響、問題点の把握等を行い、地域社会の高度情報社会への円滑な移行を図ることを目的としたものであった。

8 キングスベリーコミットメントとして知られ、主な内容は、電報業務からの撤退、競合電話会社買収の取りやめ、競合電話会社に対する長距離回線の相互接続の実施である。

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